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つきのふね



 もう一人のボクは、いつも夜の窓の前に座っていた。
 こういう風に、足を組んで、時々は肘をついたりして。

 月がきれいな夜は、ボクはたまにそういう彼の真似がしたくなる。

「いつも何見てるんだよ」

 一瞬、もう一人の遊戯は声をかけたことすら気づかない様子だった。数度瞬きして、それから少し意外そうな目をこちらに向ける。遊戯がもう寝ていると思ったのだろう。薄い月の光にその姿が透けて、幻の生き物みたいだ。

『起こしたか』
「ううん」
『起きてたのか?』
「うん」
『そうか……』

 もう一人の遊戯は、ばつの悪そうな、苦い笑いをしてみせる。そういう仕草は自分にあまり「似ていない」と遊戯は思う。「もう一人」とは言っているけれど、きっと違う存在なんだっていうことは、お互い漠然と理解している。

『月だ。月を見てた』
「月?……そっちに行ってもいい?」
『ああ』

 布団から這い出す。布団で温まった素足で触れるフローリングは少し冷たい。学習机の上にある窓枠の向こうを見上げる。雲にも阻まれていない明るい月がこちらを見返していた。

「きれいだね」
『ああ、だろ?』

 満月ではなく、一口かじった煎餅みたいに欠けた月だ。それでも、冴えた光が晴れた夜空をぼかす。しばらくはぼーっと、その欠けた輪を眺めていた。だがやがて首が疲れてきて、手を当てながら視線を戻す。が、もう一人の遊戯の目の中にはまだ月が浮かんでいるようだ。体を使ってなかったら首は疲れないのかな、と取り留めのないことを考えた。

『考えてたんだ』
「何を?」
『……くだらないことだぜ?』
「うん?」
『……乗ってみたくないか』

 多分、30秒ぐらいは沈黙を消費してしまっただろう。それからやっと「月に?」と聞き返した。どこか気まずそうにもう一人の遊戯が頷く。
 笑うところじゃないのは分かっている。分かっているのだ、笑っちゃいけないことは。あんなに真面目な顔から出てきた言葉なのだから。だが一度吹き出してしまうともう止まらなかった。

『……相棒』
「ごめ、だって、きみ、あんな……あんな顔で、」
『とりあえず落ち着いたらどうだ』

 もう一人の遊戯は怒ったようでもあり、恥ずかしがっているようでもある。なんだかそんな姿を見るのも珍しい気がする。ひとしきり笑ってから、そんなもう一人の顔を覗き込んだ。

「君もそんなこと考えるんだね。しかもあんな難しいこと考えてそうな顔でさー!意外って言うか……なんか嬉しいぜ」
『嬉しい?面白いじゃなくてか?』
「もー拗ねないでってば。もう一人のボクって、何て言うのかな……頼りになるし、強いし、ボクとは全然違うから……」
『でも、「もう一人の」お前だ』

 返事をするのにまた少し時間がかかった。しかも頷くことくらいしかできていない。雲ひとつない冬空みたいな嬉しさだ。嬉しいのは間違いないのに、何故か寂しい。

「……それで、もう一人のボクはさ、月に乗ってどこへ行くの?」
『さあな。みんなと宇宙旅行でもするか』
「なんだよ。ヤケになってるの?」

 月の船に乗って、みんなと夜空へ逃げたら、このもやもやした何かから逃れられるのだろうか。
 そんなわけないのは知っている。そんなことまずできやしないってことも。

「でも宇宙旅行か。いいね。まずはどの星?」
『そうだな。意地悪な相棒の居ない星かな』
「あはは、言うねー!」

 空を見上げる。先ほどと姿勢も窓も空も何も変わっていないのに、月が少しこちらへ近づいたような気がした。ひょっとしたら、背伸びをしてものすごく手を差し出したら、月って手に届くものなのかもしれない。誰も、遊戯自身も、試そうとは思わないが。

「ボクも考えたよ」
『何を?』
「くだらないことだよ?」
『うん?』
「ボクも月に乗ってみたいかな。海馬くんと」

 もう一人の遊戯は遊戯のように噴き出したりはしなかった。ただ意表を突かれたように遊戯を凝視している。それがおかしくて、遊戯の方が自分で噴き出してしまった。

「どうしたの?」
『なんで海馬なんだ?』
「君は嫌?」
『嫌、と言うか……』

 もう一人の遊戯は言葉に迷っているようだった。視線が部屋の中をぐるりと一周してこちらに戻ってくる。

『オレと海馬が月……そうだな、月の船に乗ってたとするだろ?そんなの想像して楽しいか?』
「ボクは楽しいけどなあ」

 そんな二人を想像しただけで先ほどの笑いがぶり返してきそうなくらい。多少意地悪な考えはもう一人の自分に筒抜けらしい、困った顔を返された。

「海馬くんって……そうだなー……うまく言えないんだけどさ。海馬くんってきっと、ボクに無い物を持ってるんだ。海馬くんと居たら、何か新しい気持ちが見つけられるんじゃないかなって思うんだよ」
『それで奴と月に乗り込むのか?』
「うん。新しい惑星を探しに行くのもいいかもね!誘ったら絶対断られるんだろうけどさ」

 いつものあのつっけんどんな態度を思い出して苦笑する。もう一人の遊戯も笑っている。月光がそれを透かす。そのせいか、遊戯と違って随分優しい笑みに見えた。

『行くといい。きっと面白いことになるんだろうな』
「君は?」

 もう一人の遊戯は――月に乗ってみたい古代の王は、瞳を瞬いて遊戯を見ている。それから口角を少し持ち上げた。胸のずっと深いところが疼くような沈黙がいたずらに過ぎる。

『おやすみ、相棒。もう遅いぜ』

 進路やら何やらで、あまり余裕のある時期とは言えなかったのだが、どうしても決闘がしたくて大会にエントリーした。自分の自信を磨くことを疎かにはしたくなかったのだ。自分の実力と、一からきちんと向き合いたいと考えていた。
 そういう気概が多少先走っていたのは間違い無いだろうと思う。決闘にそれが少し反映してしまったかもしれない。何せその大会の主催が海馬コーポレーションだったことに気づいたのが、開会式の挨拶だったというのだから。

「うわ……っ、外もう暗いぜ!」

 テーブルの上のカードを集めている遊戯の素っ頓狂な声に、海馬も窓を振り返る。言葉は何も返ってこないが、窓の外の暗闇を凝視しているところを見るに、遊戯と同じように驚いているのではないかと思う。随分長い間決闘をしていた。
 表彰が終わってしばし後、首根っこを捕まれ、観客の姿がまばらになってきた会場に強制送還された。海馬は主催者としてこの大会には出場していなかったのだ。驚いたが、それより何より、嬉しかった。噂を聞きつけた観客が一人、また一人と戻ってくる中交えた一戦は楽しいものだったが、その結果に海馬は満足しなかったらしい。今度は強制連行され随分懐かしい海馬の屋敷に居る。

「楽しくて全然気づかなかったや……」
「貴様はさぞ楽しいだろうな……!」
「海馬くんは楽しくなかった?」

 こうして何時間も共に闘ったのに、少し意地悪な質問だっただろうか。伸びをして、首を回しながら立ち上がる。さすがに疲れた。
 遊戯のデッキはきっと、海馬の知っているものと全く違ったことだろう。初めの一戦、海馬の表情に若干の驚きを見ることができた。遊戯自身にすら何と表現していいか分からないが、それに小さな罪悪感のようなものを覚えている。

「う……肩凝ってる気がするぜ……。あ、海馬くん」
「何だ軟弱者」
「ほら、」

 勝手に歩み寄った縦長の窓、よく見れば落ち着いた装飾がなされているそれの側から手招きをした。海馬はあからさまに不快そうな顔をしていたが、言葉を続けない遊戯に焦れたのだろう。重い腰を上げた。

「月、きれいだよ」

 海馬の冷たい視線が遠慮なく下りてきているのが如実に分かる。内心苦笑しつつも、気づかない振りをして月を見上げた。晴れた夜空に浮かぶ銀盆は、いつか見たようにきれいに欠けている。

「なんだか大きく見えるね。秋だからかな……」
「不吉だ」
「え?」
「昨日の商談だ。こちらは大会で立て込んでいると言うのに、相手がそんなことを言って結論を先送りにしたいなどと申し入れてきた」
「月が不吉な形だからってこと?」

 海馬は黙っている。憮然と腕を組んで、月を射落とさんばかりに睨みつけていた。きっと大変だったには違いないが、つい笑ってしまった。月と同じように睨まれる。

「海馬くんも不吉だって思うの?」
「フン、馬鹿を言うな。泣いて縋って諾と言わざるを得ん状況に追い込んでやったわ」
「じゃあ海馬くんもこの月、きれいって思ってるってことでいいんだよね」
「ふざけるな!誰がそんなことを言っているか!」

 一年生の時は、こんな風に海馬と話すようになるなんて考えもしなかった。何の緊張も抵抗もなく言葉が出てくることに気持ちが弾む。本当に、嘘みたいだ。嘘みたいに大切な仲間が増えていく。パズルが完成してから、魔法みたいな時間が遊戯をひっとらえて駆け抜けて行った。

「ねえ、一緒に乗らない?」
「……何だと?」
「月だよ。船みたいでしょ。月の船に乗って、宇宙旅行だよ。新しい惑星を探すってのはどう?」
「……気でも狂ったのか?馬鹿馬鹿しい。仮とは言え決闘王の言葉か」

 もう興味も失せたらしい、海馬が窓から離れる。これが「もう一人の決闘王」の発案だと知ったら、やっぱり海馬は驚くのだろうか。あんな真面目な顔で、そんなこと世界がひっくり返っても言いそうにも無い声で、確かに遊戯の耳に響いた言葉だと知ったら。海馬はそれを知りようもないけれど。

「待ってよ海馬くん、ボクは君と一緒に乗りたいんだよ」
「知るか!」

 だって彼が乗ったらいいって言ったんだ。
 本当は彼も、一緒に行きたかったんじゃないかなって思う。

 だから尚更、遊戯は海馬と一緒に月の船に乗ってみたい。

 この名前の付けられない胸のざらつきは、「もう一人の自分」という自分でない存在の影とそのギャップは、いつかは薄れてしまうのだろうか。月の船に乗って宇宙の向こうに昇華して、新しい惑星に降り立つのだろうか。月の見える窓の前で格好をつけて足を組むなんてこと、思いつきもしなくなるのだろうか?
 それが寂しいような、怖いような、楽しみなような。現実には月の船なんて乗れやしないので、ひとまず遊戯は振り払われるのを承知で海馬の手を取った。

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