文字数: 29,836

アクアリウムの恋人 (パラレル)



※行き過ぎた兄弟愛がだめそうなら注意してください。
※表海に成り得ない表海です。薄暗いです。

 あれは何の帰りだっただろう。

 ともかく、歩き疲れた幼い遊戯は、もう歩きたくないとその場にへたり込んでしまった。いくら声をかけられても意固地にその場から立ち上がろうとしない遊戯に呆れ、困り果てて、けれども怒ることもしないのが優しい兄だ。自分も疲れているだろうに、数歳しか歳の変わらない遊戯を少しよたつきながらも背負ってくれた。いつもより少しだけ高い目線に興奮し、疲れたなんて嘘みたいにはしゃいだことを覚えている。

「ねえ、『もうひとりのボク』!」
「うん、なんだ?あいぼう」
「あおだよ!」
「空か?うん、きれいだな」

 長く長く続く道の向こうから、青が始まって頭上までを覆っている。澄んだその色の中には雲ひとつなく、見上げる遊戯を吸い込んでしまいそうだ。透明の層がいくつも重なって、青を作っているようだった。

「ねえ、あれ、ほしい!」
「あれ?」
「あお!」

 兄はしばらく黙り込んでしまい、遊戯は不思議に思って何度かその名前を呼んだ。今思えば返答に窮していたのだろう。遥か手に届かず、雄大に手から余るこの空を欲しいだなんて、荒唐無稽な話だ。

「……ちょっととどかないかな。ためしてみたら分かるぜ。せのびしたくらいじゃ、ダメだろ?」 
「うーん……じゃあ、もっともっとおおきくなって、おとなになったらとれるよね!」
「それは……どうかな。大人になってみないと、分からないぜ」
「だいじょうぶだよ!ボクおおきくなるもん!もうひとりのボクよりずっとだよ!そしたらこんどは、ボクがおんぶしてあげるね!」

 少し笑った気配がした。その時は信じてないのだろうかと心配したが、今ならその表情まで想像できる気がする。

「ああ、たのむな」

 ボクの恋人は水族館みたいな部屋に住んでいる。

 ゴミみたいに放られた合鍵を宝物みたいに大事にしている遊戯は、中の物音なんかひとつも漏れ聞こえやしない分厚いドアの錠にそれを差し込む。一応同じ建物に暮らしているはずなのに、ドアの造りからして遊戯の部屋のものとはまるで違うのだ。重たいドアをそっと開ける。細く開けたドアの隙間が玄関に光の道を作るくらいには、部屋は薄暗い。狭い隙間をするりと通ってドアをまたそっと閉じる。少し時間をかけて薄暗がりに目を慣らすと、玄関に一足だけ行儀悪く靴が打ち捨てられてあった。そうとしか表現できないほど雑に脱ぎ捨てられている。それを見つけた瞬間に、遊戯は何故だか罪悪感のような物に責め立てられた。別にやましいことをしてるわけでもないのに。

 汚れのひとつも無いようなよく磨き上げられた革靴を整え、その隣で靴を脱ぐ。足音を立てないように短い廊下を渡り、曇りガラスがデザインされているドアを開けた。やはりその室内も薄暗い。だが青いほのかな光が柔らかく室内を満たしていた。まるで部屋の中を水で満たしているかのようだ。壁の上半分はほとんどガラス張りで、色とりどりの小魚が忙しなく泳ぎ回っている。部屋の中央に申し訳程度に並べられた家具が無ければ、水族館のミニサイズと言い張っても何の遜色も無いだろう。ゆらゆら水槽の向こうの水が揺れ、魚が揺れ、部屋に青暗い波を作る。

「海馬くん」

 ソファーはドアに向かって背を向けて置かれてあるが、長い足がそこからはみ出していたので、名を呼ぶのにもためらわずに済んだ。返事は待たずにソファーの背もたれに手をかけて、その向こう側を覗き込む。

「海馬くん、来たよ」

 目指した人間は果たしてそこに居た。顔を手のひらで覆い、仰向けになって寝そべっている。遊戯の方をちらりと見ることもせず、返事もしない。だが起きているだろうとは分かった。わずかな物音でも聞き逃さない疑り深い人間だと知っている。

「洗濯物は?」
「……」
「海馬くん、返事しなくちゃ」
「……無い」

 不本意そうな海馬は、それでも手のひらを下ろして遊戯を見上げた。少し疲れた表情をしている。また仕事が忙しかったのだろう。何せまだ二十も半ばだと言うのに大企業を背負う若社長さんなのだ。おまけに中学時代から既に会社の頂点に立っていたというのだから驚異的である。ただ自堕落な大学生の遊戯とは大違いだ。

「昨日ハウスキーパーが来て掃除をしていった。もう貴様のような生半可がやる仕事など残っているものか」
「そっか……今回はボクが遅かったかあ」
「フン、それともこの場で脱がせて洗濯を増やすか?」

 海馬が笑う。心底馬鹿にした目でこちらを見上げている。そうやって傷付いていくのは遊戯だけでは無いと知っているくせ、やはり海馬も物好きだと思う。遊戯と同じくらいには。ソファーの正面に回って海馬の顔のすぐ横に手を付いた。

「家を出る時に言ってきたよ。――恋人に会いに行くんだって」

 身を屈めて海馬の顔を至近距離から覗き込んだ。揶揄するような辛辣な笑みが消えて、ただ不快そうなしかめ面がそこに取って代わる。新種の生物でも観察するみたいに、それをじっと眺めていた。すぐ下にある瞳は部屋の中みたいに薄暗く、青く、光の波がゆらゆら反射している。同じ青なのに、空の青とは程遠い色だ。でも同じ青なのだ。この部屋の中の物全て。

「何もしないから、静かにしてるからさ。朝までここに居てもいい?」

 一瞬だけ、海馬の顔が明らかに歪んだ。だがその顔はすぐに逸らされて、呆れたような呼気が漏らされる。横を向いた時に乱れたその髪を整えてやって、遊戯は海馬から離れた。

「貴様は馬鹿だ」
「……うん。知ってるよ」

 思えば海馬と出会ったのは、本当に馬鹿みたいな経緯だった。

 コンコン、と壁から物音がする。だが心霊現象などではないから安心してほしい。この部屋は見目の良さに比べて随分安普請にできていて、隣人が壁を叩けば難なくその振動が伝わってくるのだ。隣人の合図を受けて遊戯はベランダに飛び出した。洗濯物を突っ込んだカゴは既にベランダ前にスタンバイしてある。

「相棒、洗濯物」
「うん」

 ペンキを均等にこぼしたようなべたっとした青空を背に、防火扉の端からこちらを覗きこんでいるのが遊戯の隣人、そして数歳上の兄だ。よく似ていると周りから言われることが多いが、遊戯はそうは思わない。確かに全体的なイメージは似ていないことも無いが、顔のパーツのひとつひとつは全く違うし、何より中身が決定的に違う。

「そっちどれくらいある?ボク結構あるんだけど……」
「オレはあまり無いから丁度いいぜ」

 洗濯カゴを持ち上げた。遊戯の部屋には洗濯機が無い。初めの内はコインランドリーを使っていたのだが、後から隣に越してきた兄の部屋には前の住人が残していった洗濯機があるので、こうして一緒に洗濯してもらっているのだ。少し横着かもしれないが、どうせ隣家ということでベランダ越しにやりとりすることはしょっちゅうである。

「本当に結構あるんだな。気をつけろ、よ……ああ……」
「わー!ボクの洗濯物が!」

 心配された矢先に手が滑り、ペンキの空を拭いながら洗濯カゴはまっ逆さまに降下していく。どうしようも無く二人でベランダから身を乗り出してその行く末を見守っていた。一番下の階の庭に着地を果たしたカゴは、無残に洗濯物をブチ撒けて倒れている。しばらく呆然として、それから兄と顔を見合わせた。

「ど、どうしようもう一人のボク……」
「一階って、裏管理人が住んでるって噂だよな……」

 一階は全室ぶち抜かれてひとつの部屋になっているらしいが、誰も住んでいる者を見たことがない。見た目もそこそこ良く、家賃も安いので学生が多いこの貸家では、素性の知れぬ一階の住人を裏管理人と呼んで様々な憶測が過剰気味に飛び交っていた。その多くは、わざわざ列挙せずとも誰でも想像できそうな都市伝説的な噂話だ。ちなみにここの管理人は気さくで人の好い青年だが、彼が一階の住人について語ってくれたことは一度も無い。それが若者たちの無限の想像力を更に掻き立てていた。

「人体実験室とか……何かの密売のアジトとか……た、ただの噂だよね……」
「まあオレもそう思うぜ。もし本当にそんなものがあったとしたら、もっと怪しい人間がウヨウヨしててもおかしくないはずだからな」
「確かに……」
「じゃあちょっと詫び入れて取ってくるぜ」

 兄は身軽にベランダの柵から離れた。いつもそうだ。兄は遊戯の代わりに面倒に遭うことを厭わない。疑いもしない。思えばいつも、何から何まで兄に頼りきりだった。今だってそうだ。少しは自立しようと一人暮らしを始めてみたくせに、結局は心配をかけて兄が隣人になり、こうして洗濯を頼み、おまけに失敗の後始末を任せることになってしまっている。
 初めはただ単に憧れから生まれた「もう一人のボク」という呼称、これは兄を縛り付けていないだろうか。ともすれば遊戯自身ですら。遊戯は兄を追って慌てて玄関を飛び出した。

「もう一人のボク!」
「相棒?」
「……ボクが落としたから、ボクが行くよ」
「いや、ちゃんとキャッチできなかったオレが悪いんだ。すぐ帰ってくるから心配するな」

 さり気なく微笑む男は、同じ兄弟とは思えないほど格好が良かった。遊戯はこの人に憧れ、この人のようになりたくて「もう一人のボク」と呼び、周囲がおかしいとそれを笑ってもこの兄は馬鹿にしたりせず、笑顔で「相棒」と返してくれる。でも兄に相棒と呼んでもらえるほど自分がしっかりと地面に立っていないことは、遊戯自身が一番よく知っていた。

「待って!」
「ん?」
「その……、ボクが行きたいから……!君はここで待ってて」
「じゃあ一緒に……」
「いいよ!ね?」

 不思議そうな顔をしていた兄だが、納得はしてくれたのか腕を組んで自分の部屋のドアに寄りかかる。

「じゃあ待ってるぜ。早く帰って来いよ」
「うん!」

 走って階段を駆け下りる。エレベーターを待っているところを見られるのがなんとなく恥ずかしかった。たかが落とした洗濯物を取りに行くくらいで、大げさに言い過ぎただろうか。不審に思われていないといいが、階段を一段飛ばしながらそう考える。
 辿り着いた1階のエントランス、その奥にある鉄扉に触れる。エレベーターの隣にある管理人室はカーテンが引かれてあった。今はあの陽気な管理人は不在らしい。それにがっかりしたようなほっとしたような複雑な気分になる。鉄扉のノブを回すと、甲高く不快な音がしてドアが開いた。その先にはずっと廊下が伸びている。一部屋しか無いからドアはひとつしかなく、外と接点が無い造りのせいで薄暗い。ドアが開くと灯りが付くシステムなのか、とりあえずすぐに視界は明るくなったが。遊戯たちの使っている二階より上とは随分違う環境だ。一階だけ高級マンションを切り取って貼り付けたかのような歪さがある。
 異様な雰囲気に慄きつつも、そのままじっと待っていたって埒が明くわけでもないので意を決し、重厚なドアの前に立った。表札は無いようだ。特別名前は知らなくてもいいが、やはり気にはなる。名前らしきものを探して周囲をちらちらと眺めながらインターフォンを押し、反応を待った。しかし、数十秒待っても何の音沙汰も無い。表札らしきものも全く見当たらなかった。

「る、留守かな……?」

 こんなところに住んでいるのだ。お気楽な大学生の遊戯とは違って、忙しい生活を送っている住人なのかもしれない。土曜日の昼過ぎ、勤め人なら不在でもおかしくはない。だが兄に大見得を切った手前、手ぶらで帰るのもためらわれる。諦めずに数度インターフォンを鳴らした。

「留守……みたいだね」

 随分意気込んで来たというのに。拍子抜けした気分でドアから離れ、そのまま踵を返そうとした。ところが不意に、そこで初めてガチャリ、と物音らしい物音がする。スピーカー越しのノイズだ。心臓が飛び跳ねる。そう言えば何か落ち着かないと思ったらこの階だけはえらく静かだった。上の階はどこも昼夜問わずに騒がしいというのに。

『誰だ』
「あっ、あのー……上の階に住んでる、武藤って言います」
『……それが何の用だ』
「ベランダから洗濯物落としちゃって……お宅の庭に……ええっと、す、すみません……」

 インターフォン越しの声はひどく不機嫌だ。思ったよりは若い男の声だが、それは何の気休めにもならない。スピーカーを通しての会話にどこを向いて喋ればいいやら、そわそわと落ち着きを無くしていると、やはりぶっきらぼうに少し待てと言われた。言葉に従う他無くそのまま突っ立っておく。

『……貴様、何故カゴごと落ちているのだ』

 確かに事情を知らない人間からすれば、カゴごと洗濯物を落としているなんて何事だと思うだろう。しかしそのあまりに高圧的な物言いに遊戯はすっかりたじろいで、一瞬言葉を忘れていた。貴様などと人に呼びつけられるのは初めての経験である。

「いや……その、隣に兄が住んでて……洗濯はまとめてやってるので、ベランダ越しに渡してる最中で……」
『……呆れた不精者だな。隣なら正面からやり取りしろ!いつかはこうなることぐらい想像もできんのか!』
「ご……めんなさい、本当に……」

 深いため息がスピーカーから流れてくる。謝るしかない遊戯がおろおろしていると、不意に目前の重たそうなドアが開いた。薄暗い室内から、二つの鋭い目がぎょろりと現れる。悲鳴を上げなかった自分を褒めたい気分になった。声のイメージ通りに若い男で、スーツの上着だけを脱いだような格好をしている。ここは何かのオフィスだったのだろうか?その予想は、都市伝説よりは遥かに現実味のあるものだろう。出てきたのがきちんとした人間であることにひとまずホッとする。その男はかなり威圧的な雰囲気を持っていたが。

「あ……あの、」
「仕方が無い。入れ。他人の汚物を拾う趣味は無い」

 汚物って。
 抗議を差し挟みたい気もしたが、全面的に遊戯が悪いので黙って上がらせて頂くことにした。

 玄関は照明が点いておらず(男も照明を点ける気は無いようで)、薄暗く、うっかり転んでしまいそうだ。目が慣れる間もない短い廊下の先にはまたドアがあり、細かな意匠の施された曇りガラスがはめ込まれている。暗くてよく見えないくせに、高そうだな、などと遊戯は下世話なことを考えていた。

 男がドアを開ける、

 と、

 そこには青い水槽があった。

 水が押し寄せてくるんじゃないか、一瞬自分の馬鹿な想像でうろたえる。部屋の壁の上半分をガラスが占めていて、その向こうは青暗い光を放つ水槽になっている。その光がゆらゆら揺れて、部屋全体ですら水槽に見せていたのだ。水槽の向こうでは色とりどりの魚たちが自由に泳ぎ回っている。

「水族館……」

 思わず呟いていた。まるで水族館だ。ここは遊戯たちの住む貸家の一室なんかではない。さすがに水族館のようにイルカのような大きな魚は居ないが、熱帯魚は網羅しているように思える。共存が難しいのか、よく見ればいくつか区切りもあるようだった。家具らしきものは無造作に置かれている中央のソファーとテーブルぐらいのものだ。ソファーには男のスラックスと同じ色の上着が投げ捨てられていた。

「人の部屋だぞ。じろじろ見るな、悪趣味め」
「あ……すみません」

 確かに呆然と部屋の中を観賞しているのは無礼だっただろう。招待された客でもない。だが、この部屋に来れば誰だって遊戯のようになるに違いない。しかし男は遊戯の驚きなど意にも介さず部屋の奥に進み、『水族館』に似つかわしい青のガラス細工のドアを開けた。その向こうは遊戯も見覚えのあるユニットバスと洗濯・洗面場が待ち構えていてこれにも驚く。見慣れた狭さだ。先ほどの部屋以外は適当に設計されているのだろうか。洗濯機を置くスペースには大きなカゴが置かれているのみで、そこにはぐしゃぐしゃと男のものと思われる洗濯物が突っ込んである。

(男所帯ってどこも一緒なのかな……。)

 急に夢から現実へ立ち返った気分だ。わけもなく安堵感を覚えてしまう。ふと違和感を覚えて目を上げると、そう言えば洗面台の上方にあるはずの鏡が無い。きょろきょろと鏡を探して視線を散らしそうになるが、これこそあまりじろじろ見ては失礼な光景だろう。工事の時に外してしまったのだろうか、あまり深く考えないことにする。更にその奥の殺風景な鉄扉を押し開けた男に続いた。やっと庭に出る。上方から見た通り広い庭だ。雑然としない程度に手は入れてあるが、この男が庭弄りに対しては興味も無いらしいことが覗える。

「さっさと拾ってさっさと出て行け」

 男はベランダの柵に付いている門を開けてみせた。それに会釈して庭に下りる。じっと睨まれている中で下着も混じっている洗濯物を拾うというのも、何と言えばいいか、とにかく恥ずかしい気持ちだった。できるだけ素早く洗濯物を掻き集める。一応四方を確認し、取りこぼしが無いかよくよく注意した。

「終わりました……!」

 男は何も答えず再び部屋に戻っていくので、慌てて後を追う。鉄扉をくぐってふと脇を見ると、やはり山積みの洗濯物が気になって足を止めた。

「あの……」
「何だ」
「一緒に洗いましょうか?これ。お詫びっていうか、ついでっていうか……」

 男は振り返り、何を言っているのか分からないという顔をしてみせた。確かに突拍子も無いことを言ったかもしれない。だが見たところこの部屋にも洗濯機は無いようだったし、この男がどういう経緯でこの一階に住んでいるのかは知らないが、『裏管理人』に悪い印象を持たれたままというのも少し怖かった。挽回に必死だったわけである。

「必要ない。余計な世話だ。どこまでも無礼な奴め」
「でも……」

 遊戯が動かないでいるのが煩わしくなったらしい。初めは突っぱねられるだけでしかなかったが、最終的に『勝手にしろ』で落ち着いた。お言葉通りに右手に自分のカゴ、左手にそこにあったカゴを持って歩き出す。

「来週も土曜日居ます?」
「……来週は、居る」

 来週『は』ということは、いつも居るわけではないのか。また水族館の部屋を通って玄関に出た。ドアを大きく開け放った男の横を通り抜けて外に飛び出す。暗い廊下に勝手に灯りが点いた。

「ご迷惑おかけしました!」
「本当に迷惑ばかりだ」

 ひょっこり頭を下げている間に、バタンと勢い良く目前のドアが閉まってしまった。もしかしなくても余計にご機嫌を損ねてしまっただろうか。洗濯物を返す時は一緒に菓子折りでも持ってきた方がいいかもしれない。
 それでも不思議と、何も知らないでいる時ほどの恐怖感は無くなっている。融通の利く人間だということをこの目で確認できたのはやはり良かった。この建物が建つ前の死刑場の悪霊が住み着いているとか、殺人犯の根城だとか、言われたい放題だったのだから。

(あ……名前、聞いてみればよかった……。)

 そしておかしな好奇心がふつふつと遊戯の心をくすぐり始めていた。

(何であんな部屋……自分で改造したのかな、あれ……)

 夢で見たような不思議な部屋だった。
 そして他の人間の気配はまるで感じられない。生活感すら匂わない。最初から薄暗く、灯りは点ける意志も無いように感じられた。鋭い眼光を持ったスーツの男があんな部屋に独りで住んでいるのだろうか?『土曜日は』なんて言うからには家として使っているわけでは無いのだろうか。かと言って初めに予測したオフィスという感じでもない。やたらと威圧的な態度と目、そしてどこか不健康な輪郭――それが頭から離れないのはどうしてだろう。

「洗ってるのか?一階の」
「うん」
「……大丈夫か?」
「大丈夫だよ!」

 洗濯すらまともにできないと思われては困る。ムッとして兄に返事した。帰って来た時、もちろん兄にどうだったか聞かれた。だがうまく説明できる気がせず、なんとなく言葉を濁して今に至っている。隠し事など何も無いのではというくらい何でも打ち明けてきた兄弟だ。兄は随分気になっているようだが、強引に聞き出すほどのことでもなし、どこか居心地が悪い。

「洗濯を条件に許してくれるとはな。思ったより茶目っ気のある奴なんだな、裏管理人」
「うん……まあ、そうなるかなあ……」

 実際は遊戯が押し切ってしまった上に、かなり迷惑がられてしまったのだが。訂正するのもややこしい。
 そもそも、もっと上手い謝罪の方法もあっただろうに。兄ならもっと卒なく謝罪をしてさっさと帰ってきていただろうか?咄嗟にあんなことを言ってしまって少し後悔している。だがこれで来週もあの男のあの部屋に上がれる。あの男に会える。

「名前は何だったんだ?」
「聞いてない……けど、今度こそ聞くよ」

 そうか、ボクはもう一度彼に会いたかったんだ。

「相棒……」

 呆れたように呼ばれる名が痛い。今、遊戯の目の前にはぐしゃぐしゃになったスーツが鎮座している。弁解しておくと。遊戯だって何でもかんでも洗濯機に放り込めば綺麗になると思っているわけではない。そこは分かって欲しい。ただ、シャツの山に埋もれていたせいでスーツが混じっていることに気づかなかったのだ。ぼうっとカゴの中の物を洗濯機に放り込んだのもいけなかった。

「どうする?これ……多分かなりすると思うぜ……」

 更に困ったことには、このスーツにはタグ類が一切付いていなかった。メーカーが記されたものはおろか、よくある成分表示や洗濯の際の注意のタグすらないのだ。だから洗濯してしまったのだ、と言いたいわけではもちろんない。ひょっとすると高級店のオーダーメイドではないかというのが兄の予想である。遊戯も特に異議無く顔を青くするしかない。タグも付かないほどの安物だったら良かったが、あの男の暮らしぶり、そしてこの生地の感じ―ーすっかり変わり果てた姿になってはいるが――から言ってその可能性は限りなく低いだろう。

「今度こそオレが行こうか?」
「……ううん。だめだよ。これもボクが全部悪いんだし」

 とは言ったものの、かなりの罵倒を覚悟しなければならないだろう。菓子折りを持っていくなどというレベルの話ではない。自分の預金額と祖父の店でやっている半分遊びみたいなアルバイトの給料と請求されそうな賠償金とを頭の中で秤にかけ、絶望的な心境に達する。

「……もう一人のボク、これサイズ分かる?タグ無いけど」
「まあ、大体な」

 兄は昔から手先が器用で、買った服が気に入らなくなるとどんどん改造したりするところがある。遊戯もそのおこぼれにたまに預かるが、手製とは思えない出来なのだ。人にも色々と頼まれているようだから、サイズくらいは見れば分かるようだ。

「さすがにオレでもスーツを一からは作れやしないぜ?」
「分かってるって。ただまあ……できるだけのことは、しようかなーって思ってさ」

 そして土曜日がやってきてしまった。
 十三階段でも上っているつもりになりながらも、実際には階段を下りる。もちろん少しでも到着を遅らせるためだ。無駄な抵抗というやつである。のろのろとカゴと紙袋を抱えつつ下りる階段が尽きてしまったのは先週と同じくらいの時間で、やっぱり無意味だった。今日も管理人室はカーテンがかかっている。何か失敗をしてしまった時は誰かにそれをブチ撒けて笑って欲しいものだが、今日もそれは望めそうになかった。仕方ない。覚悟を決めなければ。
 鉄扉を押し開ける。それに呼応して電灯が点いた。しん、と静まり返った廊下に遊戯の心臓の音が漏れ出てしまいそうだ。きっと怒鳴られるんだろうな。それで、追い出されて、終わりかあ。

「……なに考えてんだろ」

 何か好奇心のようなものが、遊戯をあの部屋に、その住人に強く惹きつけさせる。分厚くて頑丈そうな扉を触れるくらいに眺めた。この中には何があるんだろう。目で見える限りでは、水族館と怖い男がある。では見えないところには何があるんだろう?

「じっとしてちゃダメだね」

 自分にやっと聞こえるくらいの独り言でも、この廊下ではこだまさえしそうだ。じっとしてうろたえていれば誰か――兄がいつもなんとかしてくれるわけではない。思うに遊戯には、その自覚が足りないのだ、きっと。
 インターホンを鳴らす。相手に見当が付いているからか、今日はすぐにノイズの音がした。誰何されて名を名乗る。間髪を居れずにドアが開いた。今日も男の格好はシャツにスラックスで、先日と違うところと言えばスラックスの色ぐらいだ。

「こ、こんにちは……」
「余計なことはいい。寄越せ」
「すみません!」

 突然の謝罪に、男は不審そうに顔をしかめた。それはそうだ。きちんとアイロンをかけた(もたついている遊戯に焦れた兄が半分以上片付けてくれたのであるが)シャツの山の上に乗っている、無残なスーツを恐る恐る差し出す。思ったような反応は今のところ無く、表情を変えないまま男はスーツを眺めている。

「洗濯しちゃって……。ごめんなさい、シャツに埋もれてて、気づかなかったんです……その……」
「これは直らないのか」
「一応、努力はしたんです、けど……」

 アイロンをかけたことはもちろん、もう一度、今度は手洗いをして形を整えて乾かすなんてこともやってみたのだが、(若干ヤケになっていたことは否めない)、生地は完全にヨレてしまっているし、毛玉もひどい状態だ。

「……別にもういい」
「えっ?」
「着れないのなら捨てるだけだ。一着使いものにならなくなったところで困るものでもない」

 もしこれが仮に逆の立場だとすれば、遊戯は間違いなく困ったと思うのだが。特に今回スーツの思わぬ高値に直面し、心からそう思ってびくびく怯えていたというのに。やはりこんな部屋を所有しているだけはあるということなのか。どこかほっとした反面、男の思わぬ言葉によって最早用済みとなった紙袋を気まずく見下ろす。せっかくだし一応渡してみようかな……。

「何だこれは」
「えと……絶対に代わりにはならないと思うんですけど」

 怪訝げな男は、それでも一応こちら側に一歩踏み出して紙袋を受け取った。遠慮の無い様子で中身の白く平たい箱を取り出し、しげしげと中身を検めている。不審に思っているというよりは、珍しい名所を見ている観光客のような反応だ。頭ごなしに怒鳴られ、こんな物などと投げ捨てられるのでは、と思っていただけに正直拍子抜けだ。

「これは既製品か?」
「はいその……今度新しく出るゲーム機のためにいくらか貯めてて……それでも全然、安物かなって思うんですけど、」

 ―――しまった、どうでもいいことまで。
 男がこちらをじっと見下ろしてくるので妙に緊張して口が余計に回転してしまった。ゲームのために貯金なんて、小学生じゃないのだから人に語って聞かせる話でも無いものを。途端に恥ずかしくなって冷や汗が大量に額辺りに滲んだ気がする。

「……既製品は洗濯したスーツと何も変わらんわ。体格に合わせると必ず丈が足りなくなる」
「え……え、じゃ、それも……!」
「もういいと言っただろうが。少し待て」

 更に追い討ちをかけられて、男のため息に血の気が失せかけた。ボクからしたら大出費だったっていうのに……。心からがっくり落胆して、他にできることもなく閉まったドアの前に呆然と佇む。これでは怒らせる以前の問題だ。心底呆れられただろうことは言うまでも無いだろう。ここまで情けない遊戯にこれ以上どうやって追い討ちをかけようと言うのか。請求書とか?どうしよう……。悩んでいる内にガチャリ、とまたドアが開けられた。無言で差し出された紙袋を慌てて受け取る。袋には「KC」の文字がデザインされたロゴが付いていた。遊戯もよく知っているマークだ。海馬コーポレーションという、アミューズメント系の大企業のものである。
 しばらく紙袋に気を取られていたが、中身に気づいて思わず目を剥いた。

「これは……?えっ、これ、来週発売する!?本物!?、ですか!?ボクこれほしくて……!」
「そんなつまらん物を欲しがる人間が現実に居ようなどとはな。好都合だ。『新しい』と『比較的安価』ぐらいしかメリットの無いゴミ、あるだけ無駄だ。少しでも責任を取る気があるならそれを回収して行け」

 滅茶苦茶な言われようだが、このハードに合わせて出るソフトもあって、発売を待ち遠しく思っていたのだった。どうして発売前に、そんなひどい感想を持っているゲームを買ったのだろうと思わなくもない。だが『KC』の紙袋から彼は海馬コーポレーションの関係者で、フライングして入手できたのかななどと予測した。後から考えてみると、それは遠からずとも外れだったわけだが。

「あ、ありがとうございます!」
「フン、勘違いするな。オレは貴様に不燃ゴミの処分を任せてやっただけ――」
「でも!ボクは……嬉しかったから……。あっ、でもボク謝りに来たのにこれじゃ……」
「もういいと言っただろうが」

 煩わしそうに男が顔をしかめた。この男はきっと面倒ごとを心底憎んでいるのだろう。ほんの二度顔を合わせただけの遊戯にもそれはよく分かった。もしこれ以上『裏管理人』に悪感情を抱かれないようにしたかったら、このまま引き下がって家に帰った方が平和に暮らせる。本人も「もういい」と言っているのだから。
 だが、このまま帰ってしまったら、何も知らないまま終わる。
 何もできないまま、男のことを知らない日常に戻ってしまう。

「洗濯物!」
「……何だ」
「洗濯物、たまってませんか。今度はちゃんと……気をつけて洗います!から!」

 男は何か言おうとした。多分間違いなくそれは遊戯にとっていい返事では無かったのだろうと思う。だが男は一度口を閉じて、代わりに自分の体の分だけしか隙間の無かったドアを広く開けた。軽くあごを動かしたのは、入れということだろうか。

「変人め」

 この時男――海馬のことをよく知ってさえいれば、君ほどじゃないと言えたのだが。
 どっちにしろ、確かにボクは、おかしなくらい彼に執着していたと思う。

「またか」
「あーいや……ははは……」
「別に一人分増えたぐらいは気にしないけどな」

 きちんと呼び鈴を鳴らして玄関からやってきた遊戯に、兄は複雑そうな顔をしている。毎週毎週、最早恒例となってしまった倍の洗濯物を両手に、遊戯は愛想笑いを浮かべるしかない。

「ちゃんとボクが洗うからさ。干すのもやるよ」
「それは別に構わないって言ったろ。手伝うぜ」

 というより、見ていられないのだと思う。遊戯は兄より随分不器用だから、干し方ひとつにしても気になって仕方ないのだろう。隣でいつもそわそわされている気がする。でもこれはやっぱり、遊戯がやると言い出したことなのだ。だったらできる限り自分の手を使いたい。

「いいってば」
「相棒?」
「なに?」
「……大丈夫か?何か隠してないか」
「ううん?なんで?」

 いや、と兄は黙ってしまった。
 別に隠してはいない。でも、言っていないことはいくつもある。

 『裏管理人さん』が、『海馬瀬人さん』に変わったのは、本人の口から名前を聞くより前のことだった。寝坊して講義をサボった日にテレビを点けると、丁度昼のワイドショーが『やり手若社長』なんて特集を組んでいたのだ。その主役が海馬コーポレーション社長、海馬瀬人だったわけである。どんなに頑張っても1分も続かない直接の会話より、ワイドショーの方が多く彼のことを教えてくれたのだから皮肉な話だ。
 テレビの向こうで海馬は始終にこやかだ。まるで『水族館』で会う彼とは別物で、でもそれはどう見てもあの男で、気持ち悪さに我慢できなくなってテレビを消した。よくできたロボットが人間に成り代わっているみたいな気味の悪さだ。

 どうにも落ち着かなくなって、部屋でじっとしていることをやめて外に出ることにした。秋の空はただひたすらに高く青く澄んで、遊戯を冷たく突き放しているようだ。雲が白い。時間としてはまだ昼過ぎだが、これから段々と帰宅する子供たちが増えるだろう。祖父の店に手伝いに行ってみようかとのらりくらりと道を行く。雨を経るごとに寒くなっていく空気も、昼の陽が光の矢を放てばたちまち暖かい。いい季節だ。

 枯葉をガサガサと踏んで歩く。公園沿いのこの通りは街路樹が多いのだ。暖色がとりどりに木を彩っていて、元々のんびりしている歩みがもっと緩慢になる。晴れた秋の午後は何もかもゆるやかだ。このまま歩きながら眠ってしまえそうなくらい。だが突然、前方から荒々しい足音が近づいてきた。まるで冬の雑踏みたいに忙しない音だ。何事だろうと顔を上げた瞬間に、遊戯の足は止まってしまった。

「あっ……!一階の……!」
「――?ああ、貴様か」

 スーツの上から長いコートをひっかけて(これもきっとお高いブランド物なのだろう)、既製品では丈が追いつかないという長い足を乱暴に動かして歩いてきた男は、つい先ほどまでテレビの中で流暢に喋っていた海馬瀬人、その人である。『水族館』でもなく、テレビ越しでもなくその姿を見たのは初めてだ。『水族館』に居ると、この男の存在はまるで現実味が無く、まるで夢の中の登場人物である。それが遊戯の日常の延長線上に立っているのだから、とにかく妙な感じだ。

 やっぱり、本物なんだ。

 口にできないくらい馬鹿みたいな感想だ。やはり男はぶっきらぼうで、威圧的で、愛想が無い。それをもっともっと実感したいと思った。きっとテレビで見たあの男は偽者だ。遊戯は本物が欲しい。

「今から、部屋に?」
「……悪いか。文句でもあるのか?」

 生意気な子供みたいな答えに思わず笑ってしまった。初めは緊張してロクに喋ることもできなかったのに、ほんの数分の邂逅ではあっても、繰り返すことでやはりそれなりに親しくなっているところはある……のだと思いたい。少なくとも遊戯はそうだ。もうガチガチに構えることはない。

「ううん。むしろボクは嬉しいよ。会えたから」
「……」

 男は何か言いたげにしているが、結局口をつぐんでしまった。最近気づいたのだが、時折この男はこういうところがある。顔をしかめ、今にも何か攻撃的な言葉を吐こうとしているように見えるのに、最後には黙り通しなのだ。もしかしたらなし崩し的に砕けてしまった遊戯の口調が気になるのかもしれない。だがどうにも敬語に慣れていないので、うまく言いたいことが伝わらない気がするのだ。そこだけは勘弁してほしいな、などと都合よく考えている。
 不機嫌そうに歩き出した男を方向転換して追いかけた。

「……貴様、どこかへ出かける最中ではなかったのか」
「裏管理人さんに会ったから予定が変わったんだよ」
「その妙な呼び名はやめろ。オレは管理人でも何でもない。あの部屋を買い取っただけだ」
「……じゃあ、海馬さん?」

 男――海馬がわざわざ足を止めてこちらを見下ろしてきた。その表情からして、遊戯は海馬の名を知るべきではなかったのだろうか。慌ててしどろもどろにテレビでその姿を見たことを告げた。

「……あのくだらん取材か」

 吐き捨てるように言って、海馬がまた歩みを再開した。少し迷ったが、やはり早足で追いかける。何と言っていいかとても困ったが、このまま歩き去られるのだけは絶対に嫌だ。

「ごめん、なさい。嫌なら……もう言わないよ。嫌なら、全部忘れる」

 海馬はやはり黙っていた。ざくざく、枯葉だけがやかましく足元で騒ぐ。海馬の長い足がどんどん速いリズムを刻む。チビの遊戯は早足を駆け足に変更しなければならなかった。このまま、全部忘れてもいい。でもそれは、あの部屋にまた入れるのならだ。どんなに迷惑そうな顔でも、海馬が扉を開けてくれるのならの話なのだ。
 耐えられなくなって腕を掴んだ。強い力でそれを弾いて勢い良く振り返ってきた海馬の顔は、思ったよりは怒気に染まっていない。怒っていると言うより、怪訝げな顔だった。

「貴様は……何がしたい。何が目的だ」

 そこですぐに答えが出れば良かったのだ。今までに無かったようなすごい知り合いともっと親しくなりたい、とかそういう言葉がするすると出てくれば良かったのに。一度目を伏せて、それから笑顔を作った。無理矢理だったから、きっと変な顔だったに違いないけれど。

「そこ……さ、公園の入口。おいしいホットドッグ屋さんがあるんだぜ-。食べてみない?本当においしいよ!駅前にすっげー好きなハンバーガー屋があって、そこが出してるワゴンの店なんだけど……」

 いくらなんでもハンドルを切りすぎたか。先ほどまであんなに重たかった口が勝手にぺらぺらと回る。だが海馬が無反応なせいでそれも長くは続かず、結局また沈黙が戻ってきた。何か言葉を探してすっかり挙動不審になっていると、やがて海馬は小さく息を吐いた。

「フン、名前など好きに呼べばいい」
「え……」
「オレという存在がここから突然消失したり変化したりするわけはないのだ。呼び名ひとつでそんなことができれば苦労しない。名前などマーカーでしかない」

 正直に言うと、海馬の言っていることは意味がよく分からなかった。それは遊戯を諭しているというより自分自身に向けた独り言のようだった。だが名前で呼んでいいと許可が下りたのは間違いないだろう。それはやっぱり、どうしても嬉しさをこらえられないことだった。自分でも何がこんなに嬉しいのだろうと思う。だが感情は考えてから出てくるものじゃないだろう。

「じゃ、じゃあ海馬くん!今日は洗濯物無い?あるなら持ってくけど!」
「何だと?」
「え、だから洗濯物……」
「違う。その前……もういい、貴様に何を言っても無駄だ」
「え?何だよ。何かダメだった?あー待ってよ、ホットドッグ食べていかないの?」
「……日本の大学生ほどこの世に居て無駄な存在はないな。暢気な奴め……考えてみれば今日は平日だろうが。こんな時間に何をしている」
「なんだよそれー。大学なんて毎日マジメに行くもんじゃないんだぜー」
「……くだらん場所だと言うことは知っているが貴様に同意するのは気に食わんな」
「それに海馬くんだってこんな時間に何してるんだよ」
「オレは天下の海馬コーポレーションの社長だぞ。オレがオレのスケジュールを好きに管理して何が悪い」

 自分の会社を真顔で『天下の』なんて言ってしまえるからすごい。先ほどまで名前を出しただけでたちまち機嫌が悪くなったというのに。開き直ればどうでも良くなる性質なのか。枯葉の道を足早に歩く海馬を追う。その背中は何か映画でも見ているような現実感の薄さが漂っていて、できるだけたくさんくだらないことを話した。それで彼を現実に繋ぎ止めていられるのかは分からない。それでも以前より確実に話が弾むのは嬉しく思う。

「また増えてるな」
「え?何が?」
「ソフト。買ったのか?」

 今日は兄の休日だからゲームでもしようということになって、遊戯の部屋に招いている。菓子だけは豊富な貯蔵が
 あるので戸棚を漁っていると声をかけられた。ぎくり、とした心臓の動きは恐らく悟られていない。大丈夫。

「うんまあ……買ったり、もらったりかな。大学の友達もみんなゲーム好きだから」
「ふうん」

 羨ましいな、同じくゲーム好きの兄が無邪気に笑う。それになんとか笑顔を返して顔を戸棚の方へ戻した。
 海馬は職業柄、多くの協賛企業、時にはライバル企業の商品をいち早く手に入れて詳しく検証している。主にその作業を行っているのがあの部屋だということらしい。あんな何もない水槽みたいな部屋のどこで、と一瞬思うが、短い廊下にはあとふたつほどドアがある。一階を丸々ぶち抜いて一部屋にしているのだから、他機器を取り揃えた部屋も他にあったっておかしくない。

 何でこんなに、後ろめたい思いを抱いているんだろう。全部言ってしまえばいいのに。そして、面白い人だから一緒に行ってみる?って誘ってみたっていいのだ。兄はゲームにかなり強いから、海馬も興味を持つかもしれない。兄だってよっぽどのことがなければ人見知りなんてしないし、放っておけば打ち解けるかもしれない。

「もう一人のボク、」
「うん?」
「……いやその……コーラでいい?コーヒーもあるけど……」
「なんでもいいぜ」

 もやもやした感情をうまく整理できないままコーラを注いで、テーブルに出してやる。すると兄は困ったように笑ってみせた。

「なんでもいいんだ、本当に。言いたきゃ言えばいい。黙っていたいなら黙っていればいいんだ」

 何もかも見通されているような気がして、その上で「もう一人のボク」にひどい裏切りを働いているような気がして、気分が重くなる。でも結局、何一つだって言えないままだった。

 結局のところ、ボクは卑怯で、ただ弱虫な人間なんだ。

 窓の白いカーテンがゆらゆら、その向こうの青空を見せたり隠したりしていた。遊戯はそれをぼんやり見ながらカードゲームのガイドブックをぺらぺらめくっていて、部屋の中は静かだ。兄も同じようにぼんやりと雑誌を読んでいる。

「留学?」
「うん、まだ母さんたちには話してないが……一年半ぐらい」

 兄はその時大学生だった。今まで遊戯と一緒で、勉強なんてロクに手をつけないでゲームばかりやっていたし、成績だってそんなに良い方じゃないはずだ。だからその話は遊戯にとって、まさに寝耳に水の話だった。

「どこに?」
「……エジプト、だな」

 あまり一般的な留学先では無いからだろう、兄は少しはにかんだ様子だ。エジプト?今までそんな地名会話に出たかすらも怪しい。なんだって急にそんな場所へ。童実野からどれだけ離れていると思っているのだろう。

「それは……急な……」
「うん……ただ、オレはどこから来たのか、それが知りたいと思ったんだ。童実野の中のことだけじゃなく、そのずっと前の前まで知りたいんだ。それがオレの行く先をも教えてくれる気がする」

 兄は大学で考古学をやっていると言っていたから、考えてみれば全く理解できない話でもない。だが兄はその結論に至るまでに多少は悩んだはずで、それに関する話題がもっとあっても良かったはずで、そんなことに全く気づけなかった自分に遊戯は愕然とした。
 今まで、そんなに長い間、こんなに長い距離を兄との間に隔てたことは無かった。

「い、行くの……、本当に……」

 その言葉は、頭で考えるよりもずっと早く声になっていた。しまったと思った時は遅かったのだ。兄のことを思うなら、色々と不安も多いだろうその背を押してやるべきだった。笑顔で送り出すべきだったのだ。あの瞬間の、兄の思案顔は一生忘れないだろう。カーテンが揺れる。いつか欲しいとねだった青空がちらちら映える。

 兄は結局、留学を取りやめにしてしまった。

「……貴様もほとほと変人だな」
「海馬くんがそう言うんだったら相当だね」
「どういう意味だ。叩き出すぞ。むしろそこにずっと挟まっていろ!」
「ごめんなさい!痛いです!」

 カゴ片手にドアに挟まれながらも、なんとか陳謝して部屋に上げてもらう。海馬の機嫌は悪いようだった。わずかに乱れた髪と襟元から察するに、ソファーに横になっていたのだろう。海馬がここにやって来るのは大抵、仕事で極限を味わってかららしい。疲れてうとうととしているところを起こされたとしたら機嫌も悪くなるというものだ。

 相変わらず薄暗い廊下を数歩進んで、いつもの『水族館』に入る。青い光に満たされた部屋はやはり静かで、現実味のない美しさだ。群れを作った小魚が、遊戯など見向きもせずにガラスの向こうを流れていく。

「あれ……」
「何だ」
「そのスーツ……」

 ソファーにかかっている上着を見て初めて気がついた。海馬も遊戯の言わんとしているところに気づいたらしく、少しだけ顔をしかめた。

「捨てる前に、直せば着れると止められた」

 その言葉にはありありと『渋々』という感情が練り込まれている。だが遊戯のスーツが、海馬にとって全くの無駄ではなかった、それどころか日常的に着られているというのだ。それはやっぱり、嬉しいと思っても仕方ないと思う。

「誰に?」
「……弟だ」
「へえ、兄弟居たんだね。ボクもお兄ちゃんが居るよ。スッゲーカッコイイんだぜ!子供の頃ボクが疲れて……」
「その話は前も聞いた」
「とにかく、その弟さんに感謝しなくっちゃ。やっぱりせっかくあげたのに捨てられたんじゃ悲しいし……弟さんってどんな人?海馬くんに似て……」
「やかましい。さっさとカゴを置いて帰れ」

 つれない海馬はどさりとソファーに横になってしまった。余程疲れているのだろうか。勝手知ったる、で洗面所に出たが、そこには洗濯物のひとつも見当たらなかった。驚いて引き返して、ソファーの海馬を覗き込む。

「海馬くん!」
「……何だ」
「洗濯物、無いよ!」
「昨日ハウスキーパーが来たのだろう」

 いつも洗濯物が少ないと不思議がっていた、と億劫そうに海馬が続けた。ハウスキーパーだって。こんな部屋を本宅とは別に持てる大企業の社長様なのだ。そんな人、何十人単位で居たって別におかしなことじゃないだろう。だが遊戯はどうなる。遊戯が毎週のようにこの部屋を訪れることができる『理由』は、洗濯物があったからこそだ。洗った物を置いて、洗っていない物を持って帰る。そのサイクルこそが遊戯を易々とこの部屋に上げていた。

 海馬は何も言わない。このまま眠りにつくのだろうか。顔面を片手で覆ったまま、こちらをちらりとも見ない。声をかければ、うるさそうにしながらも顔を上げてくれるだろうか。でも来週からはそんなこともできなくなるのか。思わず腕が伸びていた。

「海馬くん、」
「触るな」
「海馬くん、聞いて」
「貴様が人の話を聞け!」

 海馬は遊戯の手を思い切り振り払い、少し上体を起こしてこちらを睨み上げている。以前道端で遭遇した時もそうだった。海馬はほぼ反射で遊戯の手を弾く。そしてその鋭い視線で射抜かれると、たちまち遊戯は次に何を言えばいいのか分からなくなるのだ。困った末に弱って、弱った末に目を伏せる。

「……何だ」

 くぐもった声だった。その言葉にあまり棘は無く、呆れたような響きが強い気がする。目を上げると、海馬はソファの背もたれと向かい合っていて、顔は見えなかった。

「もう、理由も何も無いけど……無くなっちゃうけど、またここに来たい、です」

 沈黙が続いた。正確な時間を計ってみると、それはものの数秒だったのかもしれない。だが遊戯には随分長い時間に感じられた。淡い光の線が青い室内で揺れる。その後を黒い影が追う。

「好きにしろ。言ったはずだ。貴様には最初から話が通じるなどとは思っていない」

 また会ってもいいのかって、まだ知ってもいいのかって、妙な安堵で海の底に沈んでしまいそうだ。そんな妙なことを考えるのは、この部屋のせいなんだろう。

 実のところ遊戯は、海馬のことをどう思ってるのか自分でさえもよく分からなかった。正体不明の求心力に引っ張られて辿り着いた中心は、実体もよく掴めない不思議な存在だったのだ。海馬と出会ってもう三ヶ月ほどが経とうとしている。だが遊戯は海馬のことなどこれっぽっちも知らないままだ。知っているのはテレビの特集が教えた表面上の彼の姿、それからいくつかの大抵は不機嫌な表情と言動。それだけだ。

 何にこんなに強く突き動かされるのか。好奇心なんてとうに飛び越えてしまった。そんな言葉じゃ足りない。じゃあどんな言葉で言えばいい?

「あれ、海馬くん」

 さすがに単位がヤバイ、と朝から真面目に(授業態度が伴っていたわけもなかったが)学校へ行っていて、その帰りだった。エレベーターを待っていると、いつもは物静かな鉄扉が耳障りな音をして開いた。その戸を内側から開けられるのは、遊戯以外ではその向こうにある部屋の住人だけだ。ドアが開いた瞬間にばったりと目が合い、互いに動きが止まってしまった。

「何故居る」
「何故って……ボクもここに住んでるから……」

 居てもおかしくないことは海馬にも文句は無かったらしい。遊戯を一瞥すると、何も言わずさっさと歩き出してしまう。少し迷ったが、やはり遊戯もその後を追う。先ほどまで明るいと思っていたのに、秋の夜は足が速い。紺青の幕が冷たい空気と一緒にこちらまで迫ってきていた。こんな時間からどこへ行くのだろう。海馬のこげ茶のロングコートの裾が秋風に翻る。

「海馬くん、会社?今から?」
「貴様に教えてやる義理は無い。ついて来るな」
「そりゃ……そうだけど……」

 未だ足を止めず、物言いたげに口の中でもごもご言葉を濁している遊戯に苛立ったのだろう。海馬が急停止し、勢い良く遊戯を振り返った。息を吸い込んで、険しい顔で今にも何かをまくし立てようとしている。だがまた、やはり何も言わないのだ。遊戯の顔を見ると吸い込んだ息を吐き出してしまった。

「……水族館だ」
「えっ、それ童実野の?今から?もう閉まってるんじゃ……」
「夏から冬前までは夜まで開いている」
「あ、それ、そう言えば聞いたことあるかも……」

 ここのところの不況で客足の遠のいている水族館の苦肉の策なのかどうなのか。ともかく夜と水族館という組み合わせは案外に人々に受け入れられて、主にカップル客などに好評らしい。テレビか何かで言っていた気がする。

「ボクも行っていい!?」
「知るか」

 海馬はそれだけ言ってさっさと歩き出してしまう。海馬は嫌悪することはきっぱりと拒絶する人だ。短い付き合いでもそれがよく分かるくらいには。だから曖昧な返事は多少前向きにとってもいいように思う。ただ、行き過ぎてしまってはいないだろうかとふと心配になった。夜の水族館というものに単純に興味があって、すぐさま行きたいと口にしてしまった。だがそれは海馬の領域に土足で踏み込むような発言だったのかもしれない。そもそもどこが境界で、どこまでが遊戯の入っていける領域なのか、随分あやふやになってしまっている。今、自分は、どこに立っている?

 ふと、海馬が足を止め、遊戯を見た。

 それだけで気持ちが浮き立って、駆け足で海馬を追いかける遊戯はやはり現金なのだろうか。どこに立っているのかなんてたちまちどうでもよくなる。後で思えばそれがいけなかったのかもしれないのに。夕から闇にかかる架け橋の間を、一人でくだらない話題を連ねながら歩いた。海馬は聞いているのかいないのかさえ謎だ。

 やがて辿り着いた童実野水族館は、思った以上に人の影があった。そのほとんどがカップル客で何故だか気まずい思いをする。男二人、それも接点と言えば同じ借家に部屋を借りているくらい。おまけに会話も遊戯一人の上滑りと来ている。他の客たちがそれぞれの世界に浸っているせいであまり目立っていないのがせめてもの幸いというやつか。

 ほの青い世界の連続が現実世界から離れた不思議な空間を作っている。水槽のひとつひとつを眺める海馬の目は真剣で、まるで北極に漕ぎ出た調査隊みたいだ。と、見たこともないくせに馬鹿な比喩が脳裏に浮かんだ。海馬の部屋も充分非現実的だが、やはり本物の水族館は迫力が違う。目の前で優雅に泳ぐジュゴンを感心しながら眺める。そろそろ眠くはないのだろうか。ジュゴンって夜行性なのかな。

「海馬くんって、魚好きなの?」

 それはずっと聞きそびれていた問いだった。どうしてあんな部屋に居るのか、結局聞かないままに日々が過ぎていたから、その問いは初めて核心に触れたものだ。聞こうと思ってもなかなか勇気が出なかったのだ。海馬ときたら何が引き金で不機嫌になってしまうか全く分からない。

「別に」
「別にって……」

 部屋でもあんなに魚を飼って、それじゃ飽き足らずこんなところまで来るぐらいなのに?
 遊戯の視線の意味は幸いにもすぐに伝わったらしい。海馬はやはり水槽から目を逸らさないまま億劫そうに口を開く。まるで一瞬でも目を離せば世界が終わりでもするかのようだ。

「青い目の魚を探している」
「青い目?」

 それ以上海馬は何も言わない。遊戯もそれ以上は訪ねなかった。もしかしたら何かの比喩なのかもしれない、と思ったからだ。だがいくら考えても分からない。そもそも魚の目の色なんてまじまじ見たこともなかった。

「見つかったらどうするの?」

 海馬はやはり、それ以上何も答えなかった。青い光に照らされたその真剣な横顔をぼうっと眺めて時間は過ぎる。不思議なくらい心臓の奥がざわざわ騒いで、落ち着かない。

 海馬は本宅の方に帰るというので、水族館の前で別れた。高級そうな車が運転手つきで迎えに来ていて、あのテレビの特集が嘘ではないことを遊戯は今更ながらに実感だ。夜の暗い道をとぼとぼと歩いて帰り、再びエレベーターの前に立った。一人だからだろう、帰り道は随分長く感じたものだ。頼りない電灯が時々揺らぐ。

「おい、遊戯。遊戯」
「ん?あ、城之内くん!久々だね」
「お前さ、海馬と知り合いなのか?夕方ぐらい、話してるの見たんだけどよ」

 最近あまりその姿を見なかった管理人――城之内が管理人室の窓から顔を出している。何の気負いもなく発せられた海馬の名に驚き、それに歩み寄った。だが別におかしなことでもない。彼は管理人なのだ、ここの住人のことは大抵把握している。

「うんまあ……成り行きで……。偶然知り合いになったって感じかな……」
「成り行き?それであいつとか?」
「……城之内くんこそ、海馬くんと知り合いなの?」

 随分親しみ――と言うか、刺々しさまで感じる態度だ。ただの住居人と管理人という感じでもない。城之内は一瞬眉根を寄せて、それから周囲を見渡した。そして裏から回って来いよ、と手招きされる。兄弟揃って城之内によく面倒を見てもらっているから、管理人室に招かれるのも初めてではない。むしろいつものことだ。だが今日はいつもと少し事情が違うようだった。

 エレベーター側の小窓から見るより若干手広な管理人室、そこに敷かれた畳の上に勝手に座る。その上にはちゃぶ台やテレビがあって、昔見たドラマの守衛さんの部屋に似ているといつも思う。ちゃぶ台の上に乗った煎餅を勧められたので有り難く頂いておく。

「本当の本当に、偶然知り合ったのか?」
「うん、本当の本当だよ。なんで?そんなにおかしいかな」

 確かに『裏管理人』なんてまで呼ばれるほど他の住人と接点の無かった海馬だ。遊戯もあの日洗濯物を落とさなければ、まるで接点の無いままだっただろうと思う。

「いや……」
「城之内くん?」

 城之内は何か、言葉に迷っているように見えた。遊戯の前で胡坐をかいてその目をじっと覗き込みながら、それでも口を開けずにいる。だがいつまでもそうしているわけにもいかず、やがて深呼吸をして、城之内は明後日へ目を逸らした。

「あー……あいつな。実は高校の時の同級生なんだよな」
「城之内くんの?」
「おう」

 以前年齢を聞いた時、城之内の歳は確かにテレビで報じていた海馬の年齢と近かった気がする。だが意外なところで繋がった線に戸惑いは隠しきれない。そもそも、当然と言えばそうなのだが、あの男にも学生時代があったなんて。

「それで仲良かったから……今もこんな風に?」
「オイやめろよ。あいつとなんか仲良しこよしなんて寒気がしちまうぜ!オレはあいつが心底嫌いなんだよ。あいつも同じように思ってるだろうぜ」

 せっかく話の筋に少しは予想が立って納得しかけていたのに。脳内で組み立てていた考えがいっぺんに崩れて、たちまちわけが分からなくなってしまう。そんな遊戯の顔を、城之内は困ったように笑ってみせた。

「まあなんつーか、昔はオレもやんちゃだったんだよな」

 城之内は高校時代、いわゆる『不良少年』というやつだったらしい。どうでもいいことにいつも苛々して、腹が立つことがあればすぐに手を出していた。今からじゃ想像できないだろ、恥ずかしいぜ、なんて笑う城之内には悪いが、実はかなり鮮明に想像できる。根は良いに違いはないのだが少し乱暴なところもある人だ。まあ内心はともかく、全然想像できないよ、と大人しく首を振っておく。

 城之内がある日廊下を歩いていると、すれ違う人間と肩が思い切りぶつかった。もちろん不良少年の冠を頭に頂いている城之内は、ぶつかった男に威勢良く絡んでいったらしい。その相手が海馬だったのだ。

「普通はそこで取っ組み合いになるだろ?」
「いや……それは、どうかなあ……」

 遊戯なら間違いなく竦み上がって謝り倒しているだろうと思うのだが。

「だけどあいつは……オレのこと目にも入れてなかったんだよな。ゴミでも払うみてーにぶつかったトコはたいてよ。さっさと歩き出しちまうわけだ」

 そしてそれにカチンときた城之内は海馬に掴みかかろうとした。そこでやっと海馬は城之内を見たのだ。あの鋭い目で、城之内の手を強く弾いたのだという。遊戯には海馬の学生時代なんてまるで想像できない。だが触れられた手を拒む海馬の顔は簡単に思い描くことができた。

「そん時はワケも分かんなかったけどよ、とにかく腹が立ってな。それからはあいつ見かける度に噛み付いてってよ。うっざかっただろうぜー。自分でもそう思うくらいだからな」

 城之内が喉で笑う。その顔は、イタズラに成功した少年のような、心底愉快そうな顔だ。先程までの刺々しさが嘘のようで、ああやっぱり、城之内は城之内だなあと思う。面倒見が良くて人を惹きつける明るさを持っている。

「今思えば、自分見てるみてーで気分悪かったんだろうな」
「自分って……海馬くんに?城之内くんが?」
「そうだよ。あいつってほんと、他人に興味ねえんだよな。自分以外は敵だと思ってやがる。オレもそうだったからな……やんちゃだったって言ったろ?」

 そういうところは今の城之内からするとあまり想像できない。腑に落ちない顔をしている遊戯を茶化すように城之内はまた笑う。

「つまりよ、今のオレがあいつと全然違う理由はソコなんだよな。だから今は腹立たねえし。馬鹿な奴だなって思うし、まあ危なっかしい時は多少は手を貸してやってもいいかって思えるんだよな」
「……ソコ?」
「おう。オレはもう一人じゃねえって知ってる。だけどあいつは相変わらず、他人になんか興味ねえんだよ。だから遊戯、オメーと普通に話してるから何事かと思ったわけだ。明日雨なんじゃねえかってな」

 持ち前の面倒見の良さが祟って腐れ縁ができてしまったこと、そして今こうやって本業片手間に魚の世話を押し付けられていることを愚痴交じりに城之内は続けた。だが遊戯は曖昧な返事しか浮かんでこなかった。確かに海馬はあまり人と接する意思は無いように見える。だが城之内の話を聞くに、そんなに接触を拒んでいるようにも聞こえない。遊戯にだって結局はあの部屋に入ることを許してくれた。

「オレはずーっとあいつに噛み付き続けたからな。めんどくさくなって逆に利用してやるって思ってんだろ。お前は……何でかな。遊戯はイイ奴だもんな。お前ならあいつも安心できたのか……だったらオレも、長年あいつをどやしてきた甲斐があるってもんだな」

 城之内がいつもと少しだけ違う風に、わずかに優しい輪郭で笑う。海馬が城之内のことをどう思っているか、正しくは分からない。だがきっと、何だかんだ言いながら城之内は海馬のことを友人と思っているのだと思う。友人のためなら何をも厭わない人だ。

「だったら、ボクも嬉しい……かな」

 遊戯も友人のためなら何でも、できることをしたいと思う。海馬が少しでも遊戯にそんな気持ちを持っていてくれたならすごく嬉しい。歳も立場も随分違うけれど、城之内のように彼のために優しく微笑むことができたらいいと思う。

 ―――だが、ふと、城之内が表情を変えた。

「……お前、歳いくつだったっけ?」
「え……19、だけど……」
「……そ、っか……。いや、急に気になってよ」

 遊戯はじっと、気まずげに視線を逸らす城之内を見つめていた。城之内がこちらを向いて口を開くまで目線は外さない心積もりだ。遊戯のそんな気概はすぐに城之内にまで伝わったのだろう。城之内は小さく海馬に悪態を吐いた。

「あいつ、バカなんだよ。何も変わってねえ。本当に……クソッ」
「城之内くん……?」
「あいつは『他人』に興味がねえ。これは間違いないぜ。ただ……」

 長い沈黙だった。この静寂は、実際に計測してもひどく長い時間だっただろうと思う。城之内は何やら深い懊悩に囚われているようだった。後から思えばそれは確かに、軽々しく第三者に言うことなんてできない内容だったろうと思う。城之内は本当に長い時間をかけた。そしてついに、口を開くことにしたのだ。そのことについて、遊戯は間違いだったと思っていない。

「ただ……あいつは『弟』だけは大事にしてる。目の中に入ってる。それはまあ、いいことだろ?悪くはねえさ。オレだって妹居るしよ……だけど、」

 その後に続く言葉が、城之内が年齢を聞いたわけを明白に説明していた。

「あ、お帰り」
「……何をしている」

 薄暗がりに光が走って、軽く眩暈がした。窓の無い密閉された廊下は昼下がりでも薄暗いのだ。それでも何とかよろけずに立ち上がって、鉄扉を押し開けた海馬と向かい合う。遊戯の後方には今に海馬がくぐろうとしている部屋のドアが控えている。

「ううん、別に。待ってただけだよ」
「何のためにだ」

 海馬の怪訝げな表情は崩れない。それはそうだろう。土曜日以外に遊戯が海馬を訪れたことは無かったし、こんな強引な方法で会おうとしたことは無かった。遊戯も土曜まで待とうと思ったのだ。だが、居ても立っても居られなかった。どこにも行き場の無い感情がどろどろ混ざり合って、指先から爪先までを駆け巡っていたのだ。気分が悪くなるくらいに。

「相変わらずの変人だな」

 黙っている遊戯に焦れたらしく海馬が鍵を取り出している。ひとまずは部屋に入ろうと思い立ったのだろう。銀色の鍵が鈍い音を立てながら錠を回転させる。海馬がドアノブに手をかけた。

「ボクは君の弟の代わりにはなれないよ」

 海馬の動きが止まった。できるだけ平静に平静にと唱えながら静かに目を上げれば、そこにはひどい顔があった。驚きが半分、怒りが半分と言ったところか。しかし海馬はそれをすぐに爆発させる気はない様子で、ひとつ深呼吸をして目をすっと細めた。

「……城之内だな」
「誰が言ったかなんて関係ないよ。ボクはただ知ってて欲しいだけだ。ボクは君の弟じゃない。ボクは……」
「知っている!」

 海馬が遊戯の腕をぐっと掴む。強い力だ。爪が食い込んで痛い。だが遊戯はもう言葉を出すことができなかった。海馬の目がまっすぐに遊戯を見下ろしている。その瞳は―――青い。青いのだ。影の下りた薄暗い青が遊戯を飲み込みそうなくらい苛烈に光っている。

 なんてことだろう。
 これはどんなに大きくなったって届くはずもない空だ。あの日後悔とカーテンの合間にちらついた青だ。

「……知っている、そんなことは」

 幾分声のトーンが落ちて、静かな声だった。最早瞬きひとつできない遊戯を、海馬は冷たい目で嘲っている。いや怒っているのか。怯えているのか。遊戯には分からない。海馬が何を考えているかなんて。

「ひとつ忠告しておいてやる。オレも貴様の兄の代わりなどには成り得んのだ」

 海馬が冷たく宣言して遊戯の腕を放った。そしてドアノブを乱暴に捕まえ、大仰な音を立ててそれを閉じ、ドアの向こうに消えてしまう。未だにじりじりと痛む腕を抱えたまま、遊戯はのろのろと廊下を踏みしめた。もう追い縋る気もない。重い鉄扉からエントランスへ出る。昼下がりの光は人工の光より随分健康的で、目に染みそうだ。

「あ!丁度いいや!おい、ちょっとそこの!」
「え……?」
「お前、ここに住んでんのか?」
「そ、そうですけど……」

 タイミングの悪い時に声をかけられたものだ。少しキツめな印象のある男で、歳は遊戯と同じくらいだろうか。長めの髪をぞんざいにひとまとめにしてある。どこか華のある印象で、不遜な態度にも不思議と腹が立たない。

「何だお前、泣いてる?」
「えっ、い、いや……花粉症で……」
「ああ秋だもんな。あーそんなことより、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ。兄サマ……海馬瀬人って知らないか?オレの兄なんだけどさ。ここらへんでいっつも尾行が巻かれるんだよなー!ったく、使えねー奴らめ!」

 思わずじっと、その姿を凝視してしまった。これはタイミングが悪いどころの話ではないのではないか。幸いにも男はその視線の異様さに気づいた風もない。不思議そうに遊戯を見返しているだけだ。

「おい?」
「海馬くんの……弟さん……?」
「あれ?お前ひょっとして兄サマ知ってる?あっ……!あれだろお前!スーツ洗った奴だろ!」
「え……」
「ほんっとよー!せっかくオレが兄サマにプレゼントしたスーツだったのに!その後スーツ買ってきたのもお前?」
「え、う……うん……」
「オレ、そういうのは結構好きなんだよな。うまく言えないけど……。お前、イイ奴って感じするぜぃ。スーツダメにしたのは忘れてやるよ!名前は?」
「遊戯……だけど……」
「オレ、モクバってんだ。よろしくな」

 本当は手を出すのをためらっていた。だがモクバはお構いなしに遊戯の手を取り、嬉しそうにはにかんでいる。

「兄サマってさー、放浪癖って言うのか……誰にも知られないで部屋を借りて、時々そこに隠れるんだよ。一人になりたいんだろーけど……その間は全く音信普通になるからやっぱ心配だし……オレはそれを探すわけ。そうすると兄サマまた別で部屋を借りてよ……追いかけっこみたいになっちまってんだぜぃ」

 まったく、なんて言いながらもモクバは嬉しそうな笑顔だ。兄のことを純粋に慕っているのだとその全身が伝えてきている。こんなモクバを見て、いつも海馬は何を思っているのだろうと思った。それは簡単な想像にも思えるし、気の遠くなるくらい難しい想像でもある。

「で、兄サマってどこに住んでんだ?あ、口止めされてる?だったら……」
「ううん。そこ。その扉の向こうだよ。一階全部が海馬くんの部屋だから……」

 モクバと同じくらい、自分は純粋に笑っていたのだろうか。純粋に海馬を追いかけていたのだろうか?思わず笑いが漏れそうだった。どうしようもなくて。

「お兄さんに、よろしくね」

「ねえ、もう一人のボク」
「うん?」

 部屋に上がりこんできたくせ、黙りきっている遊戯に兄は始終ソワソワしている様子だった。でももう最早、何も切り出せる気はしない。これは兄ですらどうにもできない問題なのだ。誰に話してもだめだ。遊戯ひとりの胸のうちで、どうにもならないで終わるべき感情なのだろう。

「水族館に行こうよ」
「水族館?童実野水族館か?別に構わないが……」
「うん……青い目の魚を、探し、に……」

 今この目から溢れる水も、あるいは青いのだろうか。

「相棒?」
「青い目の魚なんて居ないよ。どこにも……居るわけない……居るわけないだろ……」

 海馬の部屋には鏡がない。薄暗いせいでガラスもロクに人の影など映さない。それはきっと意図してそうなっているのだ。
 海馬が探しているのは自分自身だ。でも彼はそれを一生、見つける気はないのだ。

「ボク……君に謝らなくちゃ……」
「え?」
「ごめんね。ごめん……ごめん……」

 あの留学の時の話を少ししてみた。でももう遊戯は馬鹿みたいに涙を流していて、きちんと相手に伝わる話をしていたかは自分でも分からない。もうぐちゃぐちゃだった。
 海馬の言うように、遊戯は海馬に兄を見ていたんだろうか。だったら酷い話だ。遊戯はなんて酷い人間なんだろう。だが違う、と思う。違うと言いたい。遊戯は確かに兄が居なければ何もできない。でも、兄を見たから海馬にあんなに惹きつけられたわけじゃない。十人中十人が海馬と同じ感想を持つかもしれない。でも、じゃあ、遊戯は何故こんなにも悲しいって言うんだ。

 土曜日も空はひどく晴れた。清々しいくらいに空は青い。薄い氷の膜でも張ったかのように冷たく澄み渡っている。こんな日に薄暗い廊下への扉を開けるのは、下手するとひどく馬鹿馬鹿しいことに違いない。

 インターフォンのボタンを押すと何の返事も無くドアが開いた。海馬は何も言わず扉を開いている。それが少しだけ意外だった。もっと激しい拒絶を覚悟していたからだ。だがその反面、分かってもいた。先日のモクバの話を思い出す。海馬の『水族館』はもう弟に見つかってしまったのだ。海馬の中には確固とした「別れ」が存在するのだろう。

 薄暗い廊下と、曇りガラスのドア。その向こうにはまだ青い世界があった。とっくに何もかも引き払われていてもおかしくないと思ったので、それだけはほっとする。

「何をしに来た」

 海馬の声は随分穏やかに聞こえた。同時に、遊戯を馬鹿にしているようでもあった。なんだかそれに笑ってしまいそうになる。泣きそうにもなる。顔が歪む。

「ここで、泣いて騒いで駄々をこねたら、君はここにずっと居てくれる?」
「……フン、できないことを口に出すな」

 それは全く、海馬の言うとおりだった。胸の奥が苦しい。気道がぐっと何かに圧迫されているようだ。深呼吸をした。何も変わらないけれど、気休めだ。

「そうだね。ボクはできない。君も……ボクがもしそうしたって、ここを出て行くだけだと思う」

 だから、遊戯は海馬の弟には成れないし、海馬は遊戯の兄には成り代われない。重ねてなんかいない、という証明を示したつもりだ。それが海馬にきちんと届いたかは分からないが。

「オレはモクバさえ居ればいい。その他が絶滅しようが死滅しようが知ったことではない。貴様が居ようが居まいがオレの人生には何も影響は無い」
「うん……」
「だがそれを一体どうしてモクバに強いることができる」

 声色はしっかりしているのに、何も現実味を感じさせるものが無かった。今にも脆く崩れ去って砂になってしまいそうな声だ。遊戯は恐ろしくなって足を一歩だけ踏み出した。今の遊戯には、それが精一杯の踏み込みだったのだ。

「……海馬くん、ボクの恋人になってよ」

 海馬がここで初めてその感情を剥き出しにした。遊戯のその存在、髪の毛一本ですら疑うようにこちらを凝視している。たっぷり時間を使って硬直してから、それからやがてその表情は嘲笑に変わった。耳障りな笑い声が静かな水槽に響く。どこか疲れた、褪せた声と表情だ。

「……オレにこれ以上人でなしになれと言うんだな」
「違う、ボクは……」
「いい、それも。どうせオレはオレだ」

 ――オレという存在がここから突然消失したり変化したりするわけはないのだ。

 いつかの言葉は、一体何度同じ思考を辿って出た結論なのだろうか。
 もし歩む道が違えば高揚感に包まれて切り出した言葉だったかもしれない。緊張したままそれでも思わず笑みを抑えられずに声を震わせた言葉かもしれない。だが今はそれを思うにもただ悲しい。

「ボクは……君が、海馬くんが好きなんだよ」

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