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徒夢



 嫌な夢を見た。

 目を見開いたまま跳び起きる。だがその瞬間にはもう夢の内容が全てばっさりと抜け落ちてしまっていて、その片鱗でさえ掴める様子はない。こんなにはっきりと『嫌な夢を見た』という感覚があるのだから、馬鹿な、少しくらい覚えてるだろうと半身を起こしたまま脳内を意識の手で掻き混ぜるのだが、やっぱり何も引っかかりはしない。

「そこを誰のベッドだと思っている!」
「っぶ!」

 いきなりべちっ、とほの温かさを顔面中に感じたかと思えば、視界が暗転した。少しはうろたえても良さそうなものだが、最早恒例行事となっていて驚きもしない。顔面に貼り付けられたタオルを取り上げた。肌寒い冬の朝にはありがたい温度に湿っている。恐らくはこの屋敷の有能な使用人が用意したのだろう。ホテル並のサービスである。それを手渡される過程に問題が大有りだが。って言うか手渡しですら無いし。

「いつまで呆けているつもりだ。さっさと出てさっさと準備をしろ」

 そう言う海馬は身繕いを大抵終えてしまっているようだった。シャツの袖口を調整するように引っ張っている。御髪に一筋の乱れもなく、鏡を見ずとも寝癖の存在を感じることのできる遊戯とは正反対だ。

「えー……タオル、ありがと」
「勘違いするな!貴様のトロさに付き合いきれんだけだ!」

 トロいなどと言われても、まだ早朝だ。家なら確実に寝入っている時間帯なのである。しかし今日は客人としてベッドを貸してもらっている以上強くも出れない。誰のベッドかと聞かれれば、目の前に居る人のベッドで間違いないのだから。眠い目をこすりながら渋々温かい布団から這い出す。広いせいで空調が行き届かないと見える。冷たい外気に悲鳴を上げた。もちろん透かさずこの軟弱者!と罵られる。

「海馬くんって朝早いよね……」
「普通だ。貴様が遅いだけだろうが」
「いやまあ……うん。そうだね」

 なんとなくごめんと謝ってしまいながら、着替えの入っているスポーツバッグを漁る。確かに遊戯が早く起きていればいいだけの話かもしれない。だがこれでは、全く添い寝しているという感覚が無いではないか。

「あのさ、海馬くん……」
「先に食堂に居る。さっさとしろ」

 せっかちな海馬は遊戯の声なんて無視して颯爽と身を翻してしまった。見た目も実際の質感も重厚なドアがばたりと重く閉まる。一個人の住宅に食堂とは。何度来ても慣れない感覚だ。もそもそ着替えを続行する。

「あ……おはよう言うの忘れた……」

 暗い。

 辺り一面、いつまで経っても目が慣れないくらいの真っ暗闇だ。自然、光源を探そうと焦燥に駆られることになる。だがスイッチを探そうにも、暗すぎて空間の範囲の限定すらできない。その反面、己の体だけは闇にしっかり浮き上がっていて、不気味だ。

 埒が明かないなら、ぼうっと考えても仕方ない。ひとまず手探りでも今の状況を把握する必要がある。そうして念のためそろりと踏み出した一歩目、その先にぼんやりと何かが見えた。それは光ではない。だが闇でもない。何かが存在していることを確かに知覚できる。びくりとして思わず足を止めた。ホラーまがいの『何か』だったらどうしようか。そう思うのに、目が勝手にその姿の輪郭を捉えようと強く働く。

 それは出会いたくない『何か』とは違った。
 だが、それらに出会うよりずっと驚いた。

 思わずその名を呼ぼうとした。己の中にある呼称はひとつで、しかし実のところそれはあまり正確ではない。自分の中では未だ確かな呼び名だが、相手の中でもそうなのかは分からないのだから。逡巡がまた逡巡を呼ぶ。足も踏み出せないまま目を凝らすだけだ。

 美しい彫刻や金細工が施された椅子に、男が座っている。だがその表情はよく分からない。表情を作る重要な要素、二つの瞳が、布で覆われてしまっているからだ。視界以外に何かを阻まれている様子はないのに、男はぴくりとも椅子から動かない。それが何故だか恐ろしく、ますます近づくことを躊躇わせた。

 男の姿は静寂の中で完成された絵のようだ。その姿と、永遠に睨み合っていなければならないかと思ったぐらい。だがふと、男が静かに両腕を上げた。こちらに向かって両手を伸ばしている。

 あれは、何だ――助けを求めているのだろうか?

 何か、本人でどうにもできない理由が彼をあの椅子に縛り付けているとしたら、絶対に助けなければならない。義務ではない。それが当然の願望だ。しかしそう思っているのに、声をかけることすらままならない。情けない話だが――怖い。理由の分からない恐怖に指のひとつも動かない。

 それがやるせなく辛いのに、結局目覚めるまで、何もできないままなのだ。

「よ、遊戯」
「城之内くんおはよー」

 のそのそ、そういう擬音が聞こえてきそうな親友に声をかける。向けてくる笑顔の目玉はいかにも眠たげで、まぶたが重そうだ。一時間目は退屈な教師の日本史だから、これは間違いなく沈没するだろうな、と苦笑する。かく思う城之内も似たような顔をしている自信があるが。

「眠そうだな。ゲームか?」
「んー……まあ、そんなとこかなあ。城之内くんも眠そうだね」
「おー。最近やけにリアルな夢見っからよ。寝た気がしねえっつうの?」
「夢?」

 不思議そうに遊戯が聞き返してくる。だが頷こうとしてあくびに阻まれた。浮き出る目尻の涙を拭う。ああそう夢な、と切り出そうとしたところで今度は遊戯が大口を開けた。あくびはうつると言うが。思わず互いに笑いが出た。

「遊戯が出てくんだよな」
「ボク?」
「いや……」
「ああ、うん。それで?」

 こういうやり取りは何度目だろうとふと取り留めもなく思う。自分の中ではっきりしているものを、いちいち確認を取るなんて面倒だ。遊戯は慣れているからすぐに分かってくれるが、心の中ではどう思って答えているんだろうとも思う。こういう時に出てくる冷静な自分が、城之内は嫌いだ。

「おう、遊戯が出てきて……それで……」

 暗闇と、椅子と、目隠しと、手と

 説明しようとすれば、どこまでも詳細を尽くせるだろう。言葉にできないほど荒唐無稽な夢だったわけじゃない。だが城之内の口は少しだけ開いたまま、続く言葉を語ろうとはしなかった。

 遊戯が出てきて、手を伸ばしてきた。
 でもオレは何もできませんでしたよ──ってか。

「いい夢じゃ、ないな」
「そっか」
「うん」

 遊戯はひとまず相槌を打って寄越したが、その顔にはありありと戸惑いが読み取れる。どういう表情をすればいいか分からないようだった。確かに、あまりいい話題の振り方ではなかったんだろう。沈黙が少し気まずい。

「まあ、そんなわけで、夢見が悪くて寝た気がしないっつーか……」
「それなら添い寝の会に入る?」
「……何だソレ」

 突如として意味の分からない──というか得体の知れない単語を吐き出した友人の目は、どこまでもマジだった。それに何とも言いがたい恐れを感じ、城之内は遊戯を覗き込んだ。しかし遊戯はそれを城之内が乗り気であるように捉えてしまったようだ。嬉々として口を開いている。

「会長はボクで、副会長は海馬くん……まあこれは今決めたんだけど。あとスポンサーも海馬くんかなー。海馬くんまずうちなんかに来ないし」
「はああああ?そんで?添い寝すんのか?海馬と?」
「うん」
「おい……冗談だよな?言っとくけど笑えねーからな。全然」
「えー、何言ってんだよー。本当の本当だぜ!」

 よりによって何故海馬なんだ。色々ぶっ飛んでしまってはいるが、杏子の名前が出ればまだ納得もできた気がする。いや、それはそれでどうかと思わないでもないが。少なくとも城之内にあのヤバイ男の側で安眠できる自信はない。

「……大丈夫かお前……」
「大丈夫大丈夫!ボク結構ネゾーいいから」

 いやそこじゃなくてだな。
 全く信じがたいことだが、遊戯は本気だ。冗談でも何でもない。時折とんでもない決断をして、いい意味でこちらを驚かせてくれる友人ではあるのだが、今回のはかなり受け容れ難い。もっと早く気づいてやっていれば……涙でも滲みそうだ。

「いいなあ、城之内くん」
「あ?何がだよ」
「城之内くんの夢には出てくるんだね」

 一人で盛り上がっていた城之内の思考に紛れるような独り言だ。それは会話のようであって実際は独り言だったと思う。その証拠に、遊戯はもう何でも無かったかのように怪しい会への入会を勧めて来ている。冗談じゃないぞ。男が、しかもあの海馬が添い寝だなんてどんな罰ゲームだ。

 でも、ふと思った。

 あんな奴と添い寝してまで眠る遊戯は、どんな夢を見ているのだろう。

『夢?』

 煩わしそうな声は今も遊戯の中で鮮明だ。というか、誰が話しかけても一度は煩わしそうなポーズを取る人なのだ、海馬は。一度それで文句を付けたら、憮然と反論された覚えがある。曰く、『オレの時間を浪費していることを思い知れ』だそうだ。

『そんなものは見ない。見ていたとしてもそんなものに何の意味もない。一瞬の記憶の揺らぎだ』

 遊戯はこの返事が気に入らない。だが同時に好きでもあった。海馬に対する感情は、いつもこんな気持ちばかりだ。こんなにあべこべな気持ちは、海馬にしか抱かない。

「夢ってさ、」

 どこか気だるげにスーツを脱ぎ捨てている海馬をぼうっと見つめていた遊戯は、ふと口を開いた。自分でも声に出しているとは思っておらず、言葉を区切ってしまった。背を向けていた海馬がこちらを振り返ろうとしたので、さりげなく姿勢を正して視線を逸らす。

「誰でも見るもんだって、テレビでやってたけど……」
「オレはそういう体質だ」
「夢見ない体質?」
「ノンレム睡眠の周期が人より圧倒的に長いらしい。ほんの短いレム睡眠の間に夢を見ても忘れているのだろう」
「……見てるんじゃないか」
「覚えていないなら見ていないのと同じだ」

 結局海馬はこちらを向かなかったようなので、遊戯も視線を海馬へ戻した。いつの季節も奇抜で重装備な服装を好む人だからか、服の下の肌色がやたらと不健康に見える。しかし始終インドアの遊戯だって人のことは言えやしないのだ。自分の手の肌の色を見下ろす。それに、友人の着替えをじっと見つめているなんて、別の意味で不健康かもしれないし。

「でも『見た』ことを覚えてたら、それはやっぱり『見た』ってことになるよね」
「知るか」
「冷たいよ……」
「今頃知ったのか」

 海馬は眠る時、肌触りの良いパジャマを愛用している。遊戯なんかには想像もつかない高級品(それこそシルクとか)なのだろうが、パジャマと海馬という珍しい組み合わせの方が先に立ってしまう。面白いというか何と言うか。笑った途端ジュラルミンケースの餌食になってしまうだろうから、いつも必死に耐えている。笑ったことでこの姿が見れなくなるのも御免だ。

「だから貴様はここに居るんだぞ」
「そういう冷たいじゃなくて……」

 海馬は寝ている時、体温があまりにも下降する体質らしい。初夏でも寒さで目覚めるほどだと言う。人並みの体温を持つ遊戯が海馬に添い寝する機会を得たのも、そのお悩みに足がかりを得ていた。ひょっとすると先の『ノンレム睡眠周期』云々の話がその体質の原因かもしれないが、遊戯が考えても仕方のないことだ。

「何度言えば分かる。夢は自分の記憶の外には存在せんのだ」
「でもすごく……いい夢かも。大事な夢かもしれない。もしそうなら……忘れたくないよ」

 ボタンをきちんと留め終えた海馬は、遊戯に関せずさっさとベッドに入っていく。それを慌てて追った。ひやりとした布団の感触に身が縮まるようだ。よそを向いて横たわる海馬の背を指で叩く。最初は無視されていたけれど、しつこく突付いていたら嫌そうな顔が渋々こちらを向いた。

「手、繋いでようか?ママが冷え性は先から冷えるって言ってたよ」
「冷え性ではない!」
「似たようなもんじゃないか。確かに、起きてる時はこんなにあったかいけど」

 無理に海馬の手を握るなり、強く振り払われる。その子供じみた反応に少し笑ってしまった。冷たいシーツに段々ぬくもりが染みていく。布団が影を作って、ぼそぼそ喋っていると悪いことを作戦会議でもしている気分だ。

「おやすみ海馬くん。明日も勝つからね」

 寝る前の恒例決闘は、今日は遊戯の勝ちだった。しかも大勝だ。たちまち海馬の機嫌は悪くなったようで、また背中を向けられてしまう。やれやれと思いながらもそのまま目を閉じた。

「忘れたままの方が良いこともある」

 海馬の声は長い沈黙の後のもので、聞き返すより意識が沈む方が早かった。

 また暗い。

 自分の存在さえ不安になるような、先の見えない真っ暗闇だ。眩暈すらする。進めばいいのか退がればいいのかも分からない。今日は一歩も踏み出したくはなかった。踏み出して、また『あれ』を見て、そしてまた何もできなかったら。

 だがこの真闇の中、無心に立ち続けているのも辛いことだった。自分が今、目を開いているのか閉じているのかさえ分からないのだ。我慢できずに一歩踏み出し、そしてやはり後悔した。

 瀟洒に飾られた椅子に座る男。その目は布で覆われ、どんな表情をしているのか掴めない。そしてその腕はまっすぐにこちらへ伸びているのだ。昨日より、一昨日より強く、前へ差し出されているのが分かる。

 だが何もできない。完全に足が怖気づいている。
 何度も謝罪が口をついて、それだけだ。

 嫌な夢だ。

 そう分かった瞬間に起きた。文字通り飛び起きたのだ。なのに、もうその夢の欠片も掴めはしない。どんな夢だったのか、色も形も思い出せない。自分が出ていたのかさえ分からないし、怖い夢なのかうんざりする夢なのかも分からない。ひょっとすると、こうして何も思い出せないこと自体が嫌なのであって、夢自体は何でもないことなのかもしれない。だがそれすら分からない。覚えていないのだから。

「何だよ……」

 長いため息がこぼれた。部屋の中はまだ暗い。部屋の奥に小さな灯りが分かる程度で、まだ窓の外に朝の気配は無い。静寂と暗闇になんとも言えない脱力感を覚えてぼうっとする。こうも寝覚めが悪いのも考えものだ。

「あ……」

 手元で身じろぐ感覚がした。もちろんそれは海馬だ。遊戯が突然に起き上がったのが寒いのだろう。これでは添い寝の意味が無い。慌てて横たわって、布団を引き上げた。

「ごめんね、海馬くん」

 囁くが、海馬は遊戯の温度を求めて少し寄ってきただけだ。以前は勝手に、海馬は何かあれば忍者みたいに飛び起きて反応する人だと思っていた。だが起床予定時間にならないと、多少のことでなければ海馬は起き出してこない。逆に言えばそのおかげで朝も早くに起き上がれるのかもしれない。
 寝る前は頑なな背中しか無かったのに、今目の前には無防備な寝顔だけがあった。髪の毛が乱れてまぶたにかかっている。こんなに油断した海馬は初めて見たかもしれない。そう思えば嫌な夢にも多少は感謝できる。乱れた髪を少し梳いてやって、冷えた手のひらを捜し当てて握った。

「……覚えてたいんだよ。どんなに嫌な夢でもいい。出てくるかもしれないから」

 記憶の繰り返しだっていいよ。
 夢でもアテムに会いたい。

「城之内くん、大丈夫?」
「んあ?……あー、うん」

 声をかけられて、やっと呆けていたことに気がついた。眠いのだが、眠れる気もせず、暖かい教室の中意識が飛んでいたらしい。ここまで来ると悪夢の域である。かけがえの無い親友の夢のはずなのに情けない話だ。

「夢見?」
「まあな。心配すんな。大したことじゃねえよ」
「心配もするよ。城之内くん、毎朝配達あるじゃないか」
「慣れてっから、ウン」

 手をひらひらと振ってごまかそうとする。が、今日の遊戯はごまかされてはくれないらしい。昼前の冬の日が、きらきらと教室内の埃を反射し、遊戯の瞳に光を作っている。その色は強かった。ひょっとすると、「大したことじゃない」が気に入らなかったのかもしれない。後頭部を掻く。杏子によくデリカシーが無いと罵られては反論しているが、こればっかりは納得せざるを得ない。

「悪ィ、そのよ……なんつーか……。夢の中でのオレのやってることが大したことねえっつうかよ、そういうことで……」
「でも城之内くんが悩んでるんなら、大したことだよ。無理しちゃダメだぜ」

 しかし当の本人である遊戯は城之内のことを考えていたらしい。驚いたが、やっぱりという気持ちもある。結局遊戯はこういう奴だ。だから城之内も誠意で答えなければならなくなる。そういうところが気に入っていて、貴重な友人だと思う。

「もし、オレが……動けなくてよ、お前に助けてくれえって手伸ばしてたら、お前どうする?」
「当たり前だよ!」

 一瞬変な顔をしていた遊戯は、すぐに笑顔になって城之内の手を取った。

「助けるよ!」

 なんだかその返事にガラでもなくジンとしてしまい、城之内はごまかすように笑った。そして自分の小ささを心の中で叱咤する。そりゃそうだ。現実だって夢だって、ダチは助ける。それが「見えるけど見えないもの」じゃねえか。

「オレもお前がそうしたら助けるよ。絶対な!」
「うん!」

 握手のように遊戯の手を握り返して、そのまま腕相撲に持ち込むと、遊戯が無理な体勢に笑いながら悲鳴を上げた。

 まただ。またどこもかしこも暗い。

 だが今日は踏み出さなければならない。この暗闇の中には城之内しか居ないのだ。だから目隠しされて動けない男は、城之内自身が助けるしかない。それが親友のするべきことなのだ。

 ひとつ息を吸い込み、吐く。気合を入れて足を踏み出した。美しい彫刻や金細工が施された椅子は、すぐ目の前にある。絵のように静かに腰掛けていた男は、城之内の気配を感じてかゆっくりと腕を持ち上げた。その情景はやはり怖いのだ。何が、とはうまく言えない。だが城之内の足を長らく引き留めるだけの何かがそこにはある。

 しかし、今日こそは。

 拳を一度ゆっくりと開いて、また握り、深呼吸をした。それから意を決して一歩踏み出す。手を伸ばして相手の手を取る。その後は早かった。相手の目隠しを引き剥がしてやって――愕然とした。

 そこに座っていたのは、城之内。自分自身だった。

「っぷは!」

 今日も飛び起きることになったが、夢見が悪かったからではない。あまりにも息が苦しかったからだ。咳き込みながら息を吸い込み、何事かと辺りを見渡せば、すぐ真下にほの温かい濡れタオルが落ちている。――これか。

「海馬くん!?」
「何だ!朝からやかましい!」
「だ、だって、これ……!死ぬよ!?息塞がれたら死ぬんだよ人間は!?」
「フン!そのまま死んでおけば良かったのだ!」
「あのねえ……」

 あんまりな言い分で断言されて、言葉さえ見失う。深いため息をついて海馬を見上げた。相変わらず油断も隙も無い出で立ちだ。今日は学校に行くらしく、いつものあの真っ白い学ランを着ている。布はぴしりと伸びていてシワひとつない。海馬の気性みたいだ。

「海馬くん」
「さっさとしろ。貴様は食うのも遅い」
「海馬くん、待ってって。そんなに慌てなくたって、ボク、自分が泣いてること知ってるよ」

 濡れタオルをいくらぶつけられたって、頬が引きつる変な感じや、まぶたの重たさ、目の赤さで、自分が寝ながら間抜けな姿を晒しているのは知っているのだ。恥ずかしいから黙っていたが。
 海馬が一瞬だけ表情を崩した。意地悪な考え方かもしれないけれど、遊戯はそれを尊いと思う。だから海馬と添い寝していたいのだ。

「泣くような夢でもいいんだ。忘れたくないんだよ」
「勘違いをするな!オレは……!」
「でもね、起きる度に、ボクは君が居てくれて良かったって思うよ。勘違いでも何でもね」

 いくつ、どこに用意してあるのか。海馬がまたしても数発濡れタオル弾を顔に命中してきたけれど、みっともなく泣き笑いしてしまいそうだったから丁度良かったと思うことにする。

「よっ!遊戯!」
「今日は元気だね」
「……まあな」

 嬉しそうに笑ってくれる遊戯に笑みを返す。決して今日もいい夢を見たわけではない。複雑な気持ちはまだ胸で燻っている。だがすっきりはしたのだろう。いつもより気持ち良く目覚めることができた。

「なあ、」
「うん」
「遊戯の夢、見るって言ったよな」

 遊戯が頷く。その表情は笑顔のままだったが、少しだけ硬くなった気もする。それにどうしようもない気持ちになった。本当に自分はしょうもない夢を見てしまったのだと思う。

「でもあれな、遊戯じゃなかったんだ。偽者だった」
「ニセモノ?」

 でも、友のおかげで踏み出せて良かった。

「大体、お前差し置いてオレんとこに出てくるわけねーよな!アイツ、お前の方がよっぽど心配だろうぜ!」
「……そうかな?」
「おー。お前、ここんとこ、ずっと元気ねえだろ!男ならシャキっとしろ!」

 バン、と遊戯の背中を強く叩いたのは、その目が涙ぐんでいるのを見つけてしまったからだ。遊戯は苦笑しながら、痛いよと目尻を拭っている。

「うん、シャキっとしないとね」
「ま、オレが言うのも何だけどな」
「フン、相変わらず馬鹿しか居らんのかここには」

 せっかく和やかにカラ元気合戦をしていたところに、冷たい声が水を挟んで来た。そう言えば今日は珍しいが嬉しくもない男が登校してきているのだった。すぐに睨みを利かせる。

「んだあ?気に入らねえなら盗み聞きしてんじゃねえよ!」
「ぎゃあぎゃあと耳障りな声で騒がれれば嫌でも耳に入るわ!喉を掻き切って二度とオレの聴覚を汚すな!」
「テッメ……!」
「じょ、城之内くん……!」

 止めに入ろうとする遊戯を見てはたと思い出した。同時に怒りが鎮火してしまい、振り上げた拳をどうすればいいか一瞬迷う。突然の沈黙に遊戯も驚いているようだった。

「城之内くん……?」
「今急に思い出しちまったわ。ほらアレ、添い寝の会。オレも入れてくれ」

 目を点にする二人の反応がおかしい。ここまで来ると何に怒っていたのかさえどうでも良くなる。仇敵の間抜けな表情も見れたことだし。
 城之内を見つめていた遊戯と海馬は、二人揃って顔を見合わせた。

「いいよね?海馬くん」
「今日はモクバも来る。場所が無い。どうしてもと三回回って馬の骨らしく嘶き土下座するなら床ぐらいは貸してやるが」
「誰がやるかよ!大体それ添い寝じゃねえだろ!」

 今日こそはいい夢を見てやるのだ。そして親友と、癪だがいけ好かないイヤミ野郎にも気前良くお裾分けしてやろうではないか。

 今度こそ親友と手を取り合って再会する夢が見たい。
 それが寂しいからでなく、楽しいからだったらいい。

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