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劇薬口に甘し



※時間軸にあまり整合性がない

 長雨が止まない。

 勢いは無いが絶え間ない透明色の線が窓を叩いて耳に障る。春前の冷気が重たい湿気に引き摺られて、この世の全ての暗闇を絡め取って床を這っている。海馬はベッドの上で寝返りを打った。

 頭痛が酷い。思わず小さく呻いた。額に手を当てるが気休めにもならない。原因は分かっている。過度の疲労と寝不足だ。原因が分かっていながら悪い事態に自ら足を踏み込むのはひどく滑稽である。苛立ちも腹立ちも通り越して呆れしか生まれない。これがこの海馬瀬人がやることか。雨音の向こうで脳内に響く轟音は痛みが歪めた幻聴だ。閉ざしていた視界を薄く開けた。その向こうも闇でしかない。窓にかかったカーテンの隙間も雨の気配が埋め尽くしている。

 ネクタイを乱暴に引き抜いてボタンをふたつ開けたシャツと、スーツのズボンもそのままでベッドに倒れ込んでいた。あと数時間もせずに厚い雨雲の向こうに日が昇る。浅くため息を吐き出して緩慢に腕を上げた。サイドボードに乗せてある薬を起き上がらずに探り当てる。品の無い安菓子のような銀紙を闇に透かす。もう既に3錠分の穴が空いていた。鎮痛剤も、こうして見るとただの不味そうなキャンディーだ。

 最近息をつく暇が無い。だがそれは、自らが強いている無理ではない、と言い切れない。働かせ過ぎた脳が疲労に反比例して眠気を遠ざけ、その結果寝不足が重なって、偏頭痛も酷くなる。有り体に言えば、悪循環だ。まるで何かの腹いせのように働いている。何かを必死に避けるように。

「馬鹿馬鹿しい……」

 乾いた唇がかすれた声を生んだ。銀紙を手にしたまま寝返りをもう一度打つ。シーツが滑る音が大きく、雨音は相変わらず、後は静かだ。最近は悪夢を見ることはない。そもそも眠りは浅いはずなのにあまり夢を見ていない。だが無性に朝が待ち遠しいこの感情は何だろうか。

 一年の時こそ足繁く通っていたが、ここのところ多忙で学校にはほとんど通っていなかった。久々に踏む廊下はよそよそしく、薄汚い。行き交う騒音が耳障りで、続く寝不足に障った。窓から刺す光に顔を顰めながら歩く。と言っても、そこにある空は快晴では無く、雲が余すことなく空を薄く白く光らせているだけだが。進級して数度しか足を踏み入れていない教室までやっと辿り着き、伝え聞いていた席を迷わずに目指した。

「あ!海馬くん!?久しぶりだね!おはよう!」

 そのいかにも馴れ馴れしい声はすぐ真後ろから聞こえてきた。無視しようとも思ったが、この種の人間は無視をした方が余計に面倒なことになるのだ。ここ数ヶ月で完璧に学習した。億劫に思いつつわずかに首をひねると、すぐ後方に座っているのはやはり遊戯だ。満面の笑みで片手を挙げている。何か返すのも馬鹿馬鹿しい阿呆面だ。すぐ前に直る。

「海馬くん?」

 声を無視して椅子に座り、荷物を置く。必要そうな道具は一応持ってきてはいるが、わざわざ低次元の指導を受ける気も無い。そもそも今日こんな所に出てきたのも、度重なる学校側からの連絡が煩わしいからだ。用件が済めば早退してもいい。

「ねえ、おはよう」

 しつこいことに、遊戯が目の前まで回り込んできた。海馬の目をまっすぐに覗き、それからまた小さく笑った。それをまじまじ観察していると、今まで全ての行動が無駄になったような感情が押し寄せ、何故そう思うかも分からず、苛立つ。目を逸らして荷物から書類を探り当てた。何もやることが無いなら、ひとまずは仕事だ。ぼんやり時間を潰して夢への進路を迂回するほど、海馬の覚悟は甘くはない。ペンを取ろうと胸ポケットを探り、スーツでないことに気づく。確か出て行く時にズボンのポケットにペンを入れたはずだ。探っていると、コロリと何かが床を弾いた。

「海馬くん、何か落ちたよ」

 透かさずおせっかいがしゃがみ込む。嫌な予感は薄々していたが、立ち上がった遊戯の顔はまるでガラクタを見つけたガキである。

「海馬くん、甘いの好きなの?」
「……嫌いだ」
「えー、だってこれ……」

 遊戯の指に挟まれているのは、イタリア語の書かれた紙包みのキャンディーだ。出て行く時にモクバに渡された物である。曰く、疲れた時は甘い物だって聞いたんだぜぃ!満面の笑みに突き返す気にもならず、ひとまずポケットに放り込んだのだ。

「なんか意外ってカンジだぜー。海馬くんがこんなキャンディー持ってるなんてさ」
「オレの物ではない」
「じゃあ、食べないの?」
「……」
「へへ……実はボク、今日ギリまで寝てて朝ご飯食べ損ねちゃってさ……」
「厚かましい奴め!返せ!」

 やっぱりダメか、笑う遊戯の顔に惜しそうな色はまったく無い。わざわざ身を乗り出してキャンディーを取り返した海馬が間抜けのようではないか。不機嫌に黙り込むが、遊戯はやはり応えた様子も無い。担任教師が出てくるまでここに居座るつもりらしい。海馬が居ない間に学校で起こったどこまでもくだらないことをダラダラと語り続けている。やかましい。やかましいのだが、寝不足の頭に痛みをもたらすほどではなかった。

「もういい。くだらん」
「うん……」
「オレに構うな。オレと貴様の間には待つべき時と場がある。闘い以外にオレたちは無い」

 教室のざわめきがさっと引き上げていく。教師がやって来たようだ。何か言いたげにしながらも遊戯も席へ戻っていく。やっと静かになったかと思えば、すぐ後ろの気配が近づいてくる。

「……決闘だけなんて、もったいないよ。せっかく海馬くんに久々に会えたのに。もっと話して、もっと……」

 小声でよく聞き取れない。だが振り返ることはしなかった。

 昼になって、屋上に出た。本来鍵がかかっていて学生は立ち入れないが、そんなものはどうにでもなる。共は遊戯、もちろん目的はひとつだ。決闘盤もある。スタンダードタイプの機能はそのままに、サイズをかなり小さく軽くした試作品だ。今日はこのテストも兼ねている。

「ふうん……随分また、すごいな」

 『もう一人の』遊戯は、空の薄暗い白を背にして物珍しげに試作品を検めている。どこでも手軽に決闘を始められる、というコンセプトにはかなり適した出来ではあるはずだ。まだまだ微調整が必要だが。

「そんな当然のことはいい!さっさとしろ!時間が無い!」
「ハッ、それは悪かった。そうだな、闘ろう」

 遊戯の目がたちまち挑発するように光った。いつも誰に対しても負け犬の遠吠えとしか思えないその目も、遊戯だと思えば心臓の裏がざわりと騒ぐ心地がする。ゲームの行く末に対してここまで神経を傾けるのはこの男以外には無い。

「いい目だな。前とは大違いだ」
「そうやって吼えていろ!」

 顔を合わせたとしても、勝負はいつも一度だけだ。手札を晒し続けて闘ってもその勝敗に意味は無い。そもそも一戦の時間がひどく長いのだ。今回もそうだった。とうに昼休みは終わり、午後の授業が始まっている。空では重い雲が速い風に押し流されて怪しい空色を運んできている。近い内に一雨来るだろう。またくだらないオカルトの非科学的な幻想か、遊戯が明後日に向かって授業の無断欠席を謝っているようだ。決闘は終わった。

「オレの連勝記録もなかなかのモノだな」
「言っていろ……!次はオレの勝ちだ!」
「ああ、今回も危うかった。さすがだ。いい決闘だったぜ」

 どこか噛み合わないこの男の偉そうな返答が気に入らない。だがこれ以上何かを口にしたくはなかった。敗者には何も語ることはない。それが矜持の最低ラインだ。黙って手の内に転がした物を遊戯に投げつける。

「――っと!何だ?」
「取っておけ。貴様の相棒とやらが欲しがっていたぞ」
「へえ。キャンディーねえ」

 呆れた笑みを浮かべた遊戯はまた明後日に視線を飛ばしている。愚かしいことだが、その視線の先にはあたふたと弁明をする『もう一人の』遊戯の姿が見えるようだった。心底全てが馬鹿馬鹿しい。さっさと決闘盤を回収して立ち去ろうとする。

「海馬!」
「何だ」
「体調もかなりゲームに影響すると思うぜ。気をつけろよ」

 すぐに踵を返して遊戯を睨みつけた。よりによって対等な好敵手に言われることではない。落ち度を槍玉に挙げられたようで怒りが全身を瞬く間に駆け巡った。だが海馬のその反応は予期していなかったらしい、遊戯は珍しく少しだけ慌ててみせた。

「勘違いするなよ。これは相棒の純粋な心配だぜ。素直に受け取っておけよ」
「揃いも揃って余計な世話だ!」

 今度こそと、踵を返すがまた名を呼ばれる。もう振り返らずに歩き出す。声だけがその後を追ってきた。

「礼を言うぜ。ありがとな」

 片手に薬を納めたまま、もう片方でサイドボードの上のデッキを手に取る。海馬の全てが詰まった40枚。一番上に見える図柄は暗闇でもよく分かる、青眼だ。胸元にデッキを当てた。雨の音を聞く。

「ゲームに影響など……させるか……」

 胸に予感がある。だがそれは、海馬には信じることのできない類のものだ。だからそんなものに惑わされている場合ではない。いや、最初から惑わされてはいない。銀紙をぐしゃぐしゃと握り締めて床に放り捨てた。デッキはサイドボードに戻す。

 遊戯の声を、遊戯の表情を、遊戯の決闘を、明らかに分離したふたつの人格のそれぞれを脳内で追っている。そうすれば、頭痛も遠くなると思った。雨が止まないことに理不尽な怒りが湧き上がっては消える。強く歯を噛み締めると、ぎり、と軋んだ。

 ――遊戯だ。今すぐ。他の誰でもだめだ、遊戯でなければ。

 雨がまだ降っている。

 閉めていたカーテンを細く開けて、その隙間から夜を覗き込む。雨水が線を作って視界を濁していて、なにひとつ見つけられなかった。雨に冷やされた春の冷気がふわり迫ってくるだけだ。

 部屋の中を随分と静かに感じる。雨音がさあさあと窓越しに聞こえるが、それが余計部屋の中を静かにしているようだ。ここは遊戯の一人部屋で、幼い頃からそれに変わりはなく、何か特別なことがあったわけではない。いつもと変わらない遊戯の部屋だ。でも、やっぱり今日は特別静かに感じる。

「やまないね」

 呟くが、もちろん誰の返事も無い。そんな当たり前のことを虚しく思う自分につい気の抜けた笑いが出た。カーテンをきちんと引く。電気を消して、ベッドにうつぶせに倒れ込んだ。シーツ抱き寄せるようにして顔を埋める。雨音がざあざあやっぱり止まらない。

「やまなくてもいいけど」

 雨が降っていたっていなくったって、本当は関係ないのだ。全部分かっている。この部屋を静かに感じるのも、眠れないのも、全部雨とは関係が無い。胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、説明のできない苦しさに寝返りを打った。天井のあたりを眺める。薄暗い視界の中では、見慣れた部屋の見慣れたすべてがぼんやりとしか分からない。

「ごめんね」

 それが誰に、何に対してなのか、遊戯にも分からなかった。ただ眠ることだけを考えることにして、目元を腕で覆った。

『食べないのか?』

 夕陽の道を歩いていると、『もう一人のボク』が不思議そうに声をかけてきた。ポケットの中の飴を指先だけで触れていた遊戯は思わずどきりとしてしまう。慌ててポケットから手を出した。

「えっ!?」
『だから、食べないのか?キャンディー』

 もう一人は焦れたように言ってポケットを指差して微笑む。完璧に見通されていると思うとなんだか気恥ずかしく、遊戯は言葉が出なかった。いや、とかええっと、とか意味も成さない返事しかできない。

「……君が食べなよ。君の戦利品だぜ?」

 言葉を慎重に選んだつもりだったが、もう一人は心外そうな顔で黙り込んでしまった。ひょっとすると傷つけたのか、むしろ傷ついたのは自分だったのかもしれない。片付けられない全てを包み込んで苦笑するしかない遊戯を、もう一人――ではない彼は、どう思うのだろう。もう顔を見ていられなくて、うつむいてしまった。

『海馬はお前に、って言ってたんだぜ』
「ボクが欲しがってたこと覚えてただけだよ」
『同じことだろ』
「同じことじゃない」
『同じことだぜ』

 顔を上げると、そこには気分を害した風もない優しい笑みがある。その強さと自信に見合った表情の多い彼だが、こういう時に誰よりも優しい目をしていることを遊戯は知っている。

『どうした相棒?食べさせてほしかったのか?』
「やめてよ、何言ってんだよ」

 笑って、キャンディーを取り出した。カラフルで可愛いらしい柄の包み紙は、確かに持ち主のイメージとはかけ離れていて、もらい物か何かだろうと簡単に想像できる。文字が書いてあるが、日本語どころか英語でもない外国語のようで、とても読めない。

「……何語かな、これ」
『読めないな。神官文字でも無さそうだ』

 彼はおどけたように言う。不意につい先日までの過酷な戦いが遠い昔になってしまったようなことを言う。ここのところの毎日は大体穏やかで、遊戯は時々現実に立ち返ってはごまかすように笑うことしかできない。何か下手なことを言わないうちに、包み紙を開いてキャンディーを口にした。

『どうだ?』
「……うーん……甘いね、ほんと……飴って言うか砂糖みたい……」
『それはちょっと想像したくないな……帰ったら口をゆすいでおいてくれ』
「なんだよそれー!ボクは毒見じゃないぞー!」
『でも、食べておいてよかっただろ』

 キャンディーは甘すぎて最早何味を模したのかも分からない。コロコロと、口の中で歯列をなぞって転がっている。歩く景色は赤い。夕陽が家までの道に黒く長い影を作っていた。

 会う度、本当は胸の奥から止められないくらいの勢いで気持ちが溢れ出して、胸がいっぱいになって、とにかくそれを口走ってしまいたくなる。本当はもっと、話したり側にいたりしたい。もっともっと知りたい。強くて、でも怖いくらいの執着があって、ぞっとするぐらいまっすぐに、人を見ている。その先に居たいって、そんなことばっかりボクは、でもうまくいかない。海馬くんがくれたキャンディーはただただ甘い。

 まず強くならなきゃ。ボクは強くならなきゃいけない。
 でもそのためにひとつやらなきゃいけないことがある。

『相棒』
「なに、『もう一人のボク』」
『いや、なんでもないぜ』

 優しい声が心の中でする。遊戯にしか聞こえない声だ。そのちょっと困ったような声がなんとか遊戯の足を動かす。無駄だとは分かっているけれど、涙を隠すように手の甲で目元を拭った。

 いつまでぼうっと薄暗い天井を眺めていただろうか。少し寝ていたかもしれない。その色が随分明るくなっていることにやっと気がつく。のっそりと起き上がって、ベッドの近くに置いてあるデジタル時計のライトを点けると、もう随分朝に近い時間だった。音を立てないようにそっとベッドから立ち上がる。

 雨の音がしない。たまに、水滴が何かを弾く音が耳に入るだけだ。

 カーテンをまた細く開けた。日の出を今か今かと待つ街が、朝霧に包まれている。濃い紫色の湿った空が水滴で冷えた窓の向こうに広がっているのが見えた。カーテンをもう少しだけ押し広げる。朝の気配に照らされた机を見下ろした。その中央を陣取っているのは40枚の遊戯の魂だ。その表面に優しく触れる。

 今までの闘いを、いつでも側にあった存在を、それからまっすぐにこちらを睨みつけてくるあの目を思った。相手を圧倒的パワーで押し潰そうとする、その強烈な印象を思った。その高い背丈と、長い前髪が作る影と、張りのありすぎる低い声と、力強い言葉を思った。朝の光にそれは似ている。―――決闘がしたい、いや違う。そうじゃない。それもあるけどそうじゃなくて、

 ただ、どうでもいいから、会いたい。 今すぐ会いたいよ。

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