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星屑とリノリウム



 空が中天できれいに二分されている。半分が太陽の明るい昼、半分が星の瞬く夜。その下に居る自分はといえば、そのどちらの感覚も無かった。そのあまりに非現実的な光景を、ただ呆れたようなうんざりしたような気持ちで見上げる。何だあのおぞましい空色は。まるで子供の落書きのようだ。無邪気でいて、見る者の背中を粟立たせる。
 鈴の音のような、あるいは薄氷を踏み砕くような――とにかく硬質の高い音が軽やかに響き、近づいてくる。音から映像を想像できず、直接視線を向かわせた。夜の向こうから何かが一直線に突進してきている。先ほどの音と合わせてガラガラガラ……キャスターが回る音がした。白いキャンバスにアルミのフレーム。あれは間違いない、ホワイトボードだ。

(ホワイトボード……?)

 この壁や戸という区切りの見当たらない広大な空間において、その姿はひどく異質だ。そもそもここはどこなのか。昼と夜が同居できる世界などこの世には存在しないはずだ。
 不可解な事象を解析しようとする眼前で、ホワイトボードが急停止した。その柱を押していた人間がひょっこりと顔を出す。それは見慣れた顔だった。

「遊戯!貴様何を……!ここは何だ!」
「……ゆうぎ?」

 いつもと全く変わらぬ所作で、遊戯はわずかに首を傾げる。まるで初めて聞いた単語だとでも言いたげだ。不審に思ってよくよく見れば、その姿がおかしいことに気づく。ちっとも似合っていないよれよれの白衣と、大きさが合っておらずずり落ちてくる黒フレームの眼鏡。滑稽という字を絵にしたなら今のこの男になるだろう。

「遊戯、貴様……何のつもりだ」
「ボクは『ゆうぎ』じゃないよ。ボクはプランナーです」
「……プランナー?」
「うん。海馬くんのプランを考えます」

 ずりずりと落ちてくる眼鏡を押し上げながら、遊戯――プランナーはホワイトボードに『海馬くんプラン』と綴った。ひどい悪筆だ。

「貴様がどんな愚考をその空の頭に浮かばせたかは知らんが、余計な世話だ!己のことなど己で考えるに決まっているだろう!貴様ごときが口を差し挟む隙など一寸たりともありはしない!」
「そんなこと言われても、ボクはプランナーだから……」
「必要ないと言っているのだ、さっさと立ち去れ!」

 情けない顔でこちらを見上げていたプランナーは、≪必要なもの≫の項を作り、そのすぐ下に「相手への思いやり」、「順応性」と書いた。

「貴様、このオレを愚弄しているのか!」

 一歩足を踏み出すと、ぱきんと何かが高く弾ける音がした。先ほどプランナーが近づいてくる時にも聞いた音だ。眉根を寄せて足元を見つめる。

「ああ、星屑だよ」
「星屑?」
「幾星霜の間に随分積もっちゃって、もう踏まずには歩けないんだ」

 何でも無いことのようにプランナーが説明したが、全く理解できない。足の下で粉々に砕けて、きらきらと光る『星屑』をじっと観察する。

「珍しい?」
「何だ……これは」
「だから星屑だって」

 納得いかず顔をしかめると、プランナーは苦笑してホワイトボードに「星くず」を書き足した。屑という字を書こうとして失敗した跡が間抜けだ。

「ここは何だ」
「どこでもいいよ。ボクは君のプランを考えるだけさ」

 能天気な言葉に呆れて、ぐるりと辺りを見回す。だが、名前の分かる物が視界に入ってこなかった。うんざりするほど荒唐無稽な世界だ。あれは何だこれは何だという質問攻めに、プランナーは気疲れも見せず丁寧に答える。そしてそれをホワイトボードにいちいち記すのだ。

「結構埋まったねえ」
「……全く意味は分からんがな」
「分からないことないでしょ、これが必要なものなんだよ」

 ホワイトボードの上でミミズ字が踊っている。七日ネコ、初恋アザミ、雨のビー玉、夕焼けの街灯、月の長針、その他諸々。何となく分かるような、でも決して理解したくはないような、頭の悪そうな単語ばかりだ。いくつも見受けられる書き損じがそれに拍車をかけている。

「これを揃えて何になるというのだ。そもそもこれは何のプランだ。オレにはオレの信念、そして明確なビジョンがある。このオレが見定めたロードは決してブレはしないのだ。そこにある全ては、オレにとっては不要な物だ」

 聞いているのか聞いていないのか、プランナーは右手のマジックの表面をじっと見つめていた。だが不意に顔を上げ、こちらの向こうの空――昼間の太陽を満面の笑みで見上げた。

「海馬くん、見て!」

 言われるままに振り返ると、太陽を敬うように七色の光が湾曲して線を作っていた。まるで椀のように空にしがみついている。通常知られる虹とは逆方向だ。

「逆さまの虹だ!」

 嬉しそうな声に視線を戻せば、その単語がホワイトボードに加わっていた。やはり人の話など聞いていなかったらしい。苛立ちに任せて口を開こうとして、また足元で星屑が弾けた。

「きれいでしょ」
「……何がだ」
「全部だよ。逆さまの虹も、星屑も。きれいだと思う物を、全部閉じ込めて大事にしまっておきたいって考えたことはない?」
「……子供の発想だ」
「そうかな?」

 頷いたが、プランナーは嬉しそうに笑うだけだ。馬鹿みたいに。

「君の心にいっぱいきれいな物を閉じ込めておきたいんだ」
「オレの心が汚いとでも言いたいのか?」
「違うよ!」

 いつでも閉じ込めた宝物を取り出して、幸せな気持ちになれますように。ボクはそれを祈ります。

 プランナーが笑う。その隣でいたずらっぽい目をした男も笑う。心底愉快げに。

「随分ひどいな。お前の中じゃ相棒ってこんなイメージなのか?もっと相棒はまっすぐな言葉を使ってるぜ」
「……似たようなものだろう。荒唐無稽で、無駄ばかりだ」
「嘘つきだな、貴様」
「貴様に言われたくないわ」

 不機嫌に呟くと、プランナーの肩に手をかけていた男はいたずらのバレた子供のように苦笑した。それはプランナーと同じで、記憶にある人物の行動をそっくりなぞっている。完璧な勝ち逃げを果たした男の記憶だというのに。

「……これは夢だ」
「お前がそう思うなら、そうさ」

 お前がそう思わないのなら―――男はまた笑った。

「ここ、……?」

 見上げた天井に、ずっと蛍光灯が連なっている。その行き着くところを見極めようとしたのだが、暗く影になってよく分からない。壁も天井も蛍光灯もどこか病的に白く、埃ひとつ見当たらなかった。終わりの見えない長い廊下だというのに扉の姿は見当たらない。窓はあるにはあるが、その向こうは淡い乳白色一色で、それが空かどうかすら判別できない。しんと静まり返ったその空間に漠然とした不安を覚えて、人影を求め一歩踏み出す。きゅ、と床が鳴いた。灰味がかった床は滑らかなリノリウムだ。あまり愉快な場面では出会わない材質である。どこかこの床を踏まずに済む場所へ行きたい。でも、それってどこなんだ。この廊下に終わりなんかあるのか。そもそも何でこんなところに。ここはどこだろう。

「どうしよう……」

 思わず弱音が出た。数ある疑問には何一つ答えを得られる気配は無かったが、ひとまずどちらかに歩き出してみることにする。建物の中に居る以上、終わりが無いということは無いだろう……そう思いたい。

「どっちに行こうか、な?」

 ふと耳が音を拾った。耳障りなカラカラカラ、という音だ。どことなく恐怖を煽られて音源を探す。廊下の向こうから近づいてくる白い長方形――ホワイトボードのキャスター、の音らしい。

「ホワイトボード?」

 確かにこの無機質な空間には良く似合いだが、あまりに何も無い場所に唐突に現れたそれに戸惑う。どこかぞんざいに運ばれてきたボードが眼前で停止して、その柱を掴む人物が顔を出した。

「か、海馬くん!」
「誰だそれは!」
「へ?え……だって、海馬くん、じゃない……?」

 言っている内に段々と自信が無くなってきた。男の纏う服があまりに「らしい」からだ。海馬らしいということでなく、この場に相応だ、という意味で。裾がはためくほどに長い白衣と、真鍮フレームの眼鏡。海馬そのものの容姿がそんな格好をしているといかにも様になっていた。呆ける遊戯を馬鹿にするような目で男は眼鏡をくい、と上げている。

「武藤遊戯、オレは貴様のプランナーだ」
「……プランナー?」
「貴様ごときが考えても無駄だ。黙ってオレの言うとおりにしていろ」
「は……はあ」

 マジックのふたを取ったプランナーは、ホワイトボードに達筆で『武藤遊戯計画』と書き殴った。目の前で本人を置き去りに議題にされるのは何とも奇妙な感覚だ。

「まず貴様に足りんのは力だ!」
「えーっと……」
「それから怒り!闘志!刃の無い獣に狩りができるか!この世は弱肉強食、ヒエラルキーの下層は搾取されるだけの運命なのだ!頂点に独り立ってからこそ全てを超越することができる!貴様には荷が重いかもしれんがなあ!ワハハハハハハ……!」
「よく分かんないけど、君、ボクを助けようとしてくれてるんだよね……?」

 荷が重いことを提案してどうするのだろう。だがプランナーに聞く耳は無いようだった。どこか愉快げに全く理解できない類の数式をボードの隅に展開している。いや、理解できる類の数式などなかなか存在しないが。何なんだろう、あれ。もっと数学の勉強しろってことかな。

「楽しそうだねえ……」
「楽しい?楽しいだと!貴様が軟弱脆弱貧弱虚弱なせいでこちらは重労働だ!くだらんものは全て捨てろ!貴様には余計なものが多すぎる!」

 どこからどう見てもホワイトボードに落書きしている風にしか見えない重労働の合間、腕を組んでプランナーは言い放った。聞けば聞くほど海馬にしか思えなくなってくる。

「例えば?」
「何だと?」
「例えば、どんなのを捨てろって言うのさ。君は、どんなのがボクにとって余計だと思うの?」

 聞かなくても分かる気はした。やれ友情だの結束だの、いつものように冷たく突き放されるだろうことは目に見えている。半ば諦めた気持ちで見上げたその顔は、驚くほど静かだった。何かに戸惑うようにプランナーはその場で数歩円を描く。その度にリノリウムの床がきゅっきゅと鳴った。

「海馬くん?」
「オレは海馬ではない。プランナーだ」

 どうして彼は、遊戯のプランナーなんかしているのだろう。そもそも遊戯の何をプランするつもりなのだろう。無機質なこの空間にあまりに似合った彼は、ホワイトボードのトレイにマジックを置いた。

「その純粋さ、一途さ、他人に対する過剰な思い入れ、その全てを捨てろ」

 予想した答えと似ているようで、その実全く違う答えだった。踏み出す足の分だけ、プランナーが後方に退がる。リノリウムが冷たく悲鳴を上げた。

「何で?」
「貴様自身には、必要の無いものだ」

 遊戯自身の幸せには。

 目を点にしていると、肩にずしりと何かの重みが加わる。何事かと振り返って確かめようとしたが、手のひらにその動きが遮られた。どうやら人が寄りかかっているらしい。

「相変わらず素直じゃないな」
「……どっちが?」
「奴もお前もさ」
「そして君もだね」

 くすり、と笑う気配が耳元でした。見なくてもどんな表情をしているのか手に取るように分かる。それを確かめようと思えばできるのだろう。だけど敢えてそうしないのには、意味があるのだ。余計なものなんてない。必要無いことなんてないんだよ、海馬くん、そして大切な遠い友達。

「これは夢なんだね」
「お前がそう思うなら、そうさ」
「そう思わなかったら?」

 言わなくても分かってるだろ、相棒。

「夢を見たよ」

 休日の朝一に海馬邸に乗り込んできた遊戯を、迷惑そうにしつつも海馬は迎え入れた。一週間前から海馬は日本に帰ってきている。もうすぐ卒業式が近いから、だと遊戯は思っている。ともかくその連絡がモクバから回ってきてから、いつものメンバーと共に何度か騒ぎにやって来ていたのだ。それにいちいち不機嫌になっていた海馬だから、遊戯一人の今日はまだマシだとか考えているのかもしれない。

「とってもいい夢だった」

 まず誰より先に海馬に伝えたかった。今日ばかりは、貴様の夢なぞに興味は無い、なんていう冷たい返事は聞かない気がしている。書斎の机で指を組んでいる海馬は、遊戯の頭から爪先までを探るように観察した。それからくるりと椅子を回す。遊戯から見えるのは立派な椅子の背もたれだけで、表情なんか微塵も見えなくなってしまった。

「オレも夢を見た。……とてもいい夢とは言えんがな」
「そうなの?」
「荒唐無稽で非現実、それが夢だ」
「確かに海馬くん、そういうの嫌いそうだよね」
「嫌いだ」

 拗ねたような口調が面白くてこっそり笑う。部屋の窓から惜しげなく降り注ぐ朝日を受ける海馬は、どんな表情なんだろう。こっそり近づいて突然覗き込んだら、やっぱり怒られるのだろうか。

「海馬くんが夢に出てきたよ。リノリウムの床をきゅっきゅって歩いてた」
「……星屑だ」
「へ?」
「所詮は夢だ」

 それきり、海馬は黙り込んでしまった。星屑と海馬という、メルヘンチックとゴジラの出会いみたいな組み合わせに我慢できない。思わずくすくす笑いが漏れる遊戯を、心底不本意げに海馬は振り返ってきた。いつもの海馬の、いつもの表情だ。だから遊戯も、いつものように微笑む。

「でも夢じゃないと思ったら、夢じゃないかもしれないよ」

 着たことも無い白衣を引っ掛けて、伊達眼鏡でもかけようか。それからホワイトボードを押して、リノリウムの床と星屑を踏み抜いて彼の夢まで渡れたらいい。二人に好きなようにプランを立てられたら、彼もきっとたじたじに違いない。

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