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夏のパブロフ



「遊戯ー!」
「はー、っ!!」

 階下からの母親の声に、部屋の中央で正座していた遊戯は素早く立ち上が、ろうとしてその場に崩れた。足がとてつもなく痺れている。声にならない声を上げて苦しむ。

「勝手に上がったぞ。……何をしている」
「あ、いや、ははは……いらっしゃい」

 部屋の片付けは完璧(徹夜で頑張った)、クーラーの設定温度も完璧(わざわざ海馬コーポレーションに設定温度を聞きに行った)、ゲームの品揃えも完璧(じーちゃんにねだりまくって新タイトルのものはコンプリートした)、それなのにどうも上手く行かない。遊戯はこういう星の下に生まれているのだろうか。痺れに顔を引きつらせながら半笑いを浮かべる。

「狭いけど寛いで」
「狭すぎるわ。こんな部屋のどこで寛げというのだ」

 大丈夫、この辺りの会話は想定内だ。謝りつつ普段は使ったことも無い座布団を手渡す。いつも広すぎる海馬の部屋を見ていれば、この部屋がいかに粗末か痛いほど分かるというものだ。もっとも、遊戯の感覚から言えば余剰のありすぎる海馬の部屋は逆に落ち着けないのだが。部屋の広さに対して、海馬の部屋には最低限度の調度しか見当たらない。というか『海馬の部屋』と括られたスペースに更にいくつもの部屋があって、正直わけが分からない。

「フン、こんなもの……」
「あ、」
「何だ。文句でもあるのか」
「な、無いけど……」

 座布団を押し返されて戸惑う遊戯を尻目に、海馬は遊戯のベッドに腰掛けた。そんな当たり前のような仕草に、どきりと心臓が跳ねる。何故それだけのことに動じてしまったのかは自分にも分からない。緊張し過ぎてどこかネジでも外れているのかもしれない。

(でも、そりゃ、緊張もするよ……)

 床に直に座ってやっと痺れの引いてきた足をマッサージしつつ、ちらりと遊戯は目を上げて海馬の横顔を盗み見た。つまらなそうな表情ではあったが、部屋を見渡している海馬はいつもより少しだけ落ち着きが無い。

「遊戯?入るわよ」

 返事も待たずに入ってきた母親をぶすくれた表情で睨み上げたが、気にした風もなく盆を手渡された。冷えた麦茶に氷が浮かんでいるコップがふたつ、汗をかいている。その横にはソーダのアイスバーが乗せられてあった。

「海馬くん、お土産ありがとうね。びっくりしたわー!」
「いえ、大したものではありませんが」
「ふふふ、ごゆっくり」

 嬉しそうな母親は、部屋を出て行く背中だけでも分かる上機嫌だ。一体何をもらったのだろう。いつも遊びに出かけているのがあの海馬の家だと知っただけで大騒ぎした母親だ。海馬が来ただけであの調子なのかもしれない。我が母親ながら無責任なミーハーである。

「海馬くん、食べる?」

 小さくため息を吐き出しつつ、気を取り直してアイスを手に取る。片方を海馬に差し出すと、不審物でも見るように目を細め、貴様が食えと首を横に振られた。

「アイス嫌いなの?」
「見た目からして安っぽい。そんなものが口にできるか」
「……おいしいのに」

 アイスを食べる海馬という構図が見てみたかったのに、非常に残念だ。だがふと何が残念だったのか分からなくなる。たかだかアイスごときで。

「どうする?ゲームでもする?」

 ゲームを収納した箱をさりげなく手繰り寄せる。だが海馬は、それを一瞥しただけで鼻で笑って見せた。海馬コーポレーションの社長からすれば、遊戯の完璧など浅くも脆かったということなのだろうか。地味に傷ついてそっと箱を隅に追いやる。

「……じゃあ何するのさ」
「ハードは……あるようだな」
「え?」

 海馬がジュラルミンケースから取り出したものを、まっすぐに遊戯に突き出した。思わずわずかに身を引きつつそれを受け取ってみると、見たことのないゲームのパッケージだ。

「これ……?」
「我が社で開発中の新タイトルだ」
「……今日ここに来たのって、これのテストプレイため?」
「他に何がある。こんな粗末で汚い部屋などに」

 それでも徹夜で片付けたんです。確かに海馬が遊戯の部屋に純粋に遊びに来たがるなど、ありえない話だろう。ただそれを遊戯が夢想してみただけという話で。不本意げな遊戯の表情が気に入らないのか、海馬も軽く顔をしかめた。

「何だその顔は。貴様に真っ先にプレイさせてやろうというのだ。光栄に思わんか!」
「え……」
「社以外の人間にプレイさせるのは貴様が始めてだ」
「ボクが……?」
「そうだ。嬉しいだろう」

 ニヤリと笑われて少したじろぐが、簡単に気持ちが浮き立ってしまったのも確かだ。改めてパッケージを確認してみる。細部まで読み込んでみたところ、恐らくシューティングゲームだろう。タイミングを計ったかのように海馬はまた何かを取り出して見せた。

「わ!海馬くんそれ……!」
「何だ……?」
「わー!こ、こんなとこでそんな、ちょっとこっち向けないでよ!」

 海馬が愉快げに人の悪い笑みを浮かべて、遊戯に照準を合わせていた拳銃を下ろした。海馬コーポレーションがお天道様の下を大手を振って歩けない側面を持っていることは少しばかり知っているが、何も今ここでそれを披露して見せなくてもいいものを。死にたくなければプレイしろとでも言うつもりなのか。あからさまにびくついている遊戯を馬鹿にした態で、海馬は手の内のそれを投げてよこした。床に落下するところを何とか受け止める。

「君っ……!」
「よく見ろ」
「へ?」
「精巧に作ってはあるが、ただのコントローラーだ」

 発売時にはもっと改良が加わって一発で贋物だと分かるようになっているだろうがな、と海馬は補足した。そうなっていないと困る。本気で本物かと思ったのだから。海馬の指示通りセンサーをテレビの上に取り付け、コードを種々取り付ける。そしてやっとのことでゲームを起動させた。

「主人公になって、敵を撃って制圧する。それだけの単純なものだ。試作だからな」
「へえ……。じゃあとりあえずイージー、っと」

 アーケードはもちろん、家庭用でも似たようなゲームをやった覚えがあるが、ここまで精巧なコントローラーだと気分も盛り上がろうというものだ。調子良くコントローラーを振り回しながら序盤のストーリーを流し読む。

「撃つ前に遊底をスライドしろ」
「遊底?」
「銃身の底だ」
「ここ、かな」

 カチン、と小さな手ごたえを感じる。弾倉が空になったら同じようにしろ、と言われて頷く。と、そこでタイミング良くゲームが始まったようだった。

「うわっ!」
「何をしている!」
「いや、だってこれ……いくら何でも数多すぎるでしょ!」

 最早照準を合わせるどころの話ではない。闇雲に、かつ必死に引き金を引く。弾切れの表示に気づいた頃には既にゲームオーバーだ。5分も保っただろうか。

「ボ、ボク、イージー選んだ……よね……?」
「ああ。情けないことにな」

 実際の運動は何一つしていないのに何故か息が荒い。この難易度で大丈夫なのだろうか。我が事ながら、遊戯にはゲームに対して多少の自信がある。シューティングゲームに関してもだ。だがその遊戯ですらこれなのだから、よっぽどコアなゲーマーで無い限り売れない気がするのだが。しかし海馬の不本意そうな視線に不安な気持ちになってくる。もしかしてボクがダメなだけなの、これ。

「……仕方ない。オレも手を貸してやるからもう一度やれ」
「え、もう一個コントローラーあるの?」
「違う。オレの指示通りに撃てと言っているのだ」

 遊戯からコントローラーを奪い取った海馬は、素早くゲームを再開させた。放り返されたコントローラーをじっとりしめった手のひらで握り締める。正直少しやめたい。

「画面を6分割しろ」
「え……これ、うちのテレビなんだけど……」
「誰が物理的にと言っているか!頭の中でだ!常識で物を言え、貴様は!」

 海馬に常識を説かれるようになるとは。ボクもうだめかもしんない、と密かに思った。だが海馬なら素手でテレビを6分割しかねない、と思い至れる彼の経緯もかなり問題があるように思う。

「左から、上段A、B、C、下段D、E、Fだ」
「ええ!?ちょっと待っ、うわ始まった!」
「言う範囲に意識を絞れ!F!」
「えっと、うわ!」

 初めは慣れずにすぐに死んでしまったが、次第に言われる記号と画面の範囲が瞬時に合致するようになった。確かに海馬の指示は的確だ。恐らく主たる開発者だからだろうが、それにしてもかなりの反射神経だ。

「あちゃー……だめだったか……。でも今度は結構行けたね」
「当然だ。このオレが直々に指示してやっているのだからな。もっとできてもいいほどだ」
「……すみません」
「フン。次は更に9分割だ」
「え?」
「それぞれ6で割った一コマを更に9で割る。左から上段1、2、3、中段4、5、6、下段7、8、9だ」
「え……ええ?ちょっと待って、それって逆に分かり辛いんじゃ……」
「そら、始まるぞ」
「うわああ!いつの間に!」
「行くぞ!A9!」

 もちろん命中率はグンと下がる。はずだったのだが、時を経るごとに逆に精度が上がってくるようになった。画面の上に海馬の指示した英数字が見えるようだ。かなりゲームを進めることができた。しかし。

「C4!B8!装填!E2!貴様、何をしている!」
「もう、勘弁してください……鬼軍曹……」

 かなりの集中力を使用していたらしく、ある瞬間に疲れがどっと出てしまった。画面にはあっという間にゲームオーバーの文字だ。思わずその場に倒れ込んで、クーラーですっかり冷えた床に寝転ぶ。恐る恐る激怒しているはずの海馬の顔を見上げたが、そこにあるのは意外にも涼しい顔だった。

「海馬くん……?」
「まあ、この程度か。喜べ、褒めてやる」
「あの……?」
「この難易度で日本で売れるわけが無いだろう。これは海外向けのハイグレードタイプの試作だ」
「へ……」
「ついでにイージーを選んでも最難関のモードでスタートするように手を加えてある。貴様の気性は知れているからな」
「な、何でそんなことしたのさ!?」

 がばりと起き上がるが、海馬に悪びれた様子は無い。組んだ足と腕の長さが、今更妙に腹立たしい。

「大体これ……本当にテストプレイ!?記録取るって感じでもないし!海馬くんも一緒になってやっちゃってるし!」
「……今更気づいたのか」
「い、今更って……!」
「いい暇潰しにはなったぞ」

 どこか満足した様子の海馬の表情に、やりきれない気持ちが込み上げる。これは完全に遊ばれていたと見て間違いないだろう。こんなに掃除して、こんなに緊張して、その実ただの実験体で、それすらも嘘だって言うし。もうわけが分からない。ひどく惨めだ。食べるのを忘れて袋の中でぐちゃぐちゃになったアイスみたいに。

「ボクが一生懸命、君に騙されてゲームやってるとこ、そんなに楽しかった?」
「……それなりにはな」
「っ、……良かったね」

 コードを多少乱暴に引っこ抜いて、乱雑にかき集める。ゲームソフトも取り出して、まとめて海馬に突き出した。

「もうボク疲れたから、今日はごめん」

 集中力を使い果たされたせいか、多少イライラしていた。それが海馬にも伝わったのかどうか、数瞬遊戯の顔をじっと見つめていたが、ゲーム類を受け取ってジュラルミンケースに収納した。そして何も言わずに部屋を出て行く。本当に一言も発さず。

「本当……なんだか、疲れた……」

 ばたり、とその場に倒れこむ。そこには海馬が先ほどまで座っていたぬくもりがあって、腹が立って場所を移動した。海馬にとっては、こんなこと何でもないことに違いない。それが歯がゆくて苛ついて仕方なかった。

『……次の日曜、空けておけ』
『日曜?あー……と、何も無いと思うけど。またテスト?』
『貴様の家に行きたい』

 他の友人たちと同じように、他愛も無い時間を過ごしてみたかった。そう思えるほどには、色んな側面を見せつけられた人物ではあった。最初はそれこそ冷たく手酷く突き放されたが、それでも少しずつ近づいて行けた。その度に嬉しくて、その度にもっともっとと思った。

 だから、その言葉は本当に嬉しかったのだ。

「おいおい、遊戯ー!そんなに暗い顔してっとよお、本当に出ちまうぞー」
「……自分で自分の首絞めてんのに気づかねーか、城之内」
「いいんじゃないかなあ、雰囲気出て。何ならボクが景気付けにとっておきを話……」
『いい!いいです!』
「とっておきの何の話かは言ってないのにー」

 夜の校舎は昼の正反対、暗く静かで不気味だ。それを腰に手を当てつつ見上げ、城之内はひとつ頷いた。うん、まったくもって気味が悪い。普段なら絶対に来ない。しかし今日はいつもと事情が違うのだ。ちらりと後方の友人に視線を送る。どこか沈んだ態で、下方をじっと睨んでいる。先日からずっとこの調子なのだ。ここは友人の自分が一肌脱いでどかんと盛り上げてやらねばなるまい。そうしてこの肝試しを提案すると「これが短絡ってやつだね」などと御伽に抜かされたわけだが。もちろん一発くれてやって強制参加させた。

「杏子が来れなくて残念だなー」
「……」
「な、遊戯!」
「……え、ああ。うん」
「聞いてたか?」
「……ごめん、聞いてなかった……」

 はあ、と大仰なため息を作る。もちろんこの肝試しは杏子にも持ちかけたが、吉森教授の一件を未だ引きずっているのか断固拒否された。あの事件で最も苦労したのは自分だと思う城之内だったが、杏子の固い決意は崩せそうも無い。おかげで華の無い面子になってしまった。まあいつも通りと言えばそうなのだが。

「遊戯くん一体どうしたんだい……あれ」

 そっと御伽が寄ってきて、低く耳打ちしてくる。ちらりと遊戯を確認しつつ、城之内は囁き返した。大体、何もかもあの男が悪いのだ。夏休みに入ってすぐ行くはずだった海も、遊戯がヒネているせいで流れたままである。

「海馬だよ」
「え?」
「か・い・ば。奴とケンカしたんだってよ。あんな奴のことなんかどうでもいいってオレは思うんだけどよお……」
「どうでもよくないよ!」

 一応注意は払っていたのに聞こえていたらしい、御伽と一緒に跳び上がる。振り返れば、遊戯は悔しそうな顔で城之内たちを見上げていた。

「海馬くんてば本当にわがままだし自分勝手だしわけ分かんないんだよ!当たり前みたいな顔でとんでもないこと言ったりさ!全然違うこと言ったりさ!どうしろって言うんだよ!」
「そ、そうだな。オレもそう思う。いつもそう思う、うん」
「そうでしょ!?」

 何だかいつもの逆だ。いつもは海馬に逆上した城之内を、まあまあと遊戯が宥めるのだが。今日は制止役が居ないせいでヒートアップしそうだ。そう思うと何故だかブレーキのかかってしまう城之内だったが。

「えーっと、ほら、今日はアイツのことなんか忘れてよ。肝試しして、んで花火しよーぜ」
「花火もだったのかよ?」
「本田くん聞いてないの?一式は一応水呑場に置いてあるんだけど」

 むっすりと黙り込んでしまった遊戯を、周囲があたふたとフォローする。これは相当キている。いつもは海馬のすることを一度は受け止めてみようとしてみる遊戯だから、本人も知らぬ内に鬱憤でも溜まっていたのかもしれない。

「あれ……正面開いてるね」
「おお、マジだ。オレ、こじ開けるつもりでバイト先でヘアピンもらって来たのによ」
「城之内、その特技人前で絶対言うなよ……」
「誰か閉め忘れたのかなあ?」
「ま、何にせよ好都合だぜ!」

 何の障害も無く玄関と下駄箱をくぐり、靴下で校舎に乗り込む。黒々とした空間に、各自持ち寄ったライトが光った。窓の締め切られた真夏の校舎は、むうっと湿って暑苦しい。汗がじわじわと染み出てくる。

「暑ィな……」
「やっぱりボクが涼しくなる話を……」
「いいって!」
「そう麺や冷麺の話かもしれないじゃないかあ」
「それって涼しいか?」

 音楽室や階段の踊場の鏡など、定番の場所を6人で巡っていく。もちろん何か起こるはずも無く、だらだらと騒いで時間だけが過ぎていく。その間も遊戯の口数は少ない。一応、皆のノリに合わせている風ではあったが。

「次屋上行くか、屋上ー」
「何だったかな。受験勉強に苦しんだ自殺者の霊だっけ?」
「げ、何だよそれ、御伽」
「女の子たちが言ってたのさ。昔……」
「……御伽くんは良くてボクはダメなの?」
「お前が言うと洒落にならん」
「洒落になったら怖くないでしょー」

 程々に盛り上がる本田たちから少し歩みを遅くして、最後尾を歩く遊戯の横に並ぶ。すぐにそれに気づいたらしく、遊戯がどうしたのと聞いてきた。

「……まだ怒ってんのか?」
「うん。……ごめん、城之内くんたちは全然悪くないのにさ」
「そいつは別にいいんだけどよ。ダチだし。オレが聞いてもらってる分の愚痴ぐれー聞くさ。でもお前、そういうのちゃんとあの馬鹿に言ったか?」
「……海馬くんに?」
「おう。お前のこーいうとこがサイテーでサイアクでムカツクんだよってちゃんとケンカしたか?」

 遊戯が考える素振りで黙り込んだ。記憶を探っているのか、何と返せばいいのか迷っているのか。遊戯はいつも海馬だって友だちだという。だが城之内から見れば、遊戯自ら海馬に一線を引いているように見えるのだ。それをわざわざ教えてやる気も無いが。

「言いたいこと言っちまえ!じゃねえと本当ストレスで死んじまうぞお前!」
「言いたいこと……」
「そうだ!オレはこうこうこーで怒ってんだから謝れ!ってな!ああいう奴は放っとくと付け上がんだよ!」

 またも遊戯は黙り込んだが、数歩進んではっと気づいたように城之内くんありがと、と漏らした。いいってことよ、とバシッと背中を叩くと小さく笑みが返ってくる。それに安堵した。

「城之内!遊戯くん!遅いよ!」
「あ、ごめん!」
「悪い悪い」
「ここから二手に分かれてそれぞれ下りてくっていうのどう?いっそ一人ずつ行っちゃう?」
「だ、だからやめろってそういうのよお……」
「でも確かに肝試しって感じしねーよな」
「おいおいマジかよ……」

 ―――パンッ、パンッ

 かしわ手のような軽い乾いた音が生ぬるい空気を揺らす。ジャンケンを始めようと構えていた面々は凍りついた。互いの顔を見合わせれば、どいつもこいつも引きつった表情だ。獏良以外。

「ねえ!これってラップ音ってやつじゃないかなっ!」
「こ、興奮すんな!いや、風かなんかだ!絶対そうだっ!」
「盛り上がってきたねえ、音こっちからかな……?」
「わー!待って待って獏良くん!」
「こらっ獏良……!」

 獏良の襟首を捕まえようと身を乗り出したところに、何かが高速で飛び出してきた。あまりの勢いに弾かれた獏良を咄嗟に受け止める。心臓がドコドコとうるさい。夜の校舎で、心許ない明かりの下、飛び出してきた黒い影、と言われて恐れおののかない奴がこの世に居るだろうか。いや居ない!

「なっ、なんだあ!?」

 素っ頓狂な声を上げて本田が手の懐中電灯を向ける。そこには、眩しさで細められた目がぎらりと光っていた。

「貴様ら……っ!?」
「海馬ァ!?」
「何だ、人間か……」
「獏良くん……」

 少し苛ついた態で、海馬は光を下ろせと吐き捨てた。見ていて不安になるような色を組み合わせたシャツとお決まりのロングコート、それからいつものジュラルミンケース。紛うかたなき海馬瀬人その人だ。ちらりと遊戯を確認すると、驚いたような複雑な表情だ。そりゃそうだろうな。

「海馬、お前何でこんなとこに……お前も肝試しなんて言わねえよな?」
「馬鹿を……、っ走れ!」
「ああん?」

 海馬が叫ぶと同時に、何やら騒がしい足音や怒号が近づいて来るのに気づいた。程なくライトに黒い服のお兄さん方が映し出され、それぞれ指を指したり銃を構えたり穏やかとは程遠い雰囲気だ。居たぞ、だの仲間と合流したのか、だの叫んでいる。逸れに対して海馬はご丁寧に誰が仲間だだのと叫び返していた。アホかコイツ。

「な、何なんだいあいつら!」
「貴様らが知っていても意味などないわ!死にたくなければ走れ!」

 一足踏み出した海馬の居た場所でまたあの軽い音が弾ける。どうやら先ほどまでのラップ音は銃声だったらしい。それを悟った皆は一も二も無く走り出した。悲しいことに、こういうトラブル事に対する免疫はかなりできている。

「どこに、走ってんだ、これ!」
「知るか!」
「知るかってお前……!」
「ラップ音じゃなかったんだ……」
「落ち込むのは後にしろ獏良!」
「こっち!」

 長い廊下を駆けて、階段を駆け上った。上の階に出たところで、ぐいと遊戯が城之内の腕を引く。それに連なるように他の人間も引きずって、遊戯が引き開けた教室のドアに雪崩れ込む。最後尾の海馬が素早くドアをスライドさせた。噛み殺す呼吸だけがどことも分からぬ教室に響く。しばしの沈黙を居心地悪く感じていれば、ドタバタという駆け足と怒号が近づき、そして離れていった。

「はー……んだよ、一体よ……」

 ピリピリとした緊張感から解き放たれて、肩の力を抜く。すぐ後ろにある壁に寄りかかった。皆して慌てて各自のライトのスイッチを落としたせいで、うす暗い室内はどうなっているのか分からない。苦労してそれぞれのシルエットが判別できるくらいか。黒い影は7つ、きちんと全員居るようだ。ここどこだ、と本田がぽつりと呟いたのが聞こえる。

「ここ、ボクたちの教室だよ」
「え?本当に……」
「後ろのドアのカギ、壊れて閉まらないの思い出したから」

 遊戯が静かに答えを返す。暗がりでパニックになったせいで自分がどの辺りに居るのか全く把握できていなかった。やはり遊戯は、こういう時にどこか落ち着いたようなところがある。

「海馬くんは、こんなところで何で追われてるの?」
「貴様らが知ってもどうにもならん」
「てめえ……!誰のせいでこんなとこに逃げ込まなきゃなんなくなったと思ってんだよ……!」
「やめときなよ、城之内。気づかれる」
「フン、本来今は生徒が居ていい時間ではないだろうが。何をしていたか知らんが、どうせくだらんことだろう。偉そうな口を叩くな」
「クッソ、テメーなんか勝手に撃たれて勝手に死にゃあいいだろ!オレたちはさっさと外出ようぜ!オレたちはコイツに何の関係も無えんだ!」
「さっさと出て行けばいい。相手がその主張を信じるような相手ならばいいがな。不本意にもこのオレの仲間などと勘違いしたようだから、人質として有効だと判断されても……オレの関知することろではない」
「……っなっにが関知するところではない、だよ!」
「ここで隠れてやり過ごせねえか」
「無駄だ。すぐに場所は割れる」
「偉そうによー!」

 どうにもこうにも、この海馬瀬人という男と会話をしようとすると、気がささくれ立って仕方が無い。表面上だけでも友好的に話そうという気がこの男には全く無いのだ。城之内にもそんな気はありはしないが。

「ここで騒いでもどうにもならないんだろ?いずれ見つかるって言うし……。だったら、今からボクの言うことに乗ってみない?」
「何か考えでもあんのか、御伽」
「三組に分かれよう。そしてまず最初に一組、目立つようにして逃げる。その次にもう一組がまた騒ぎ立てて逃げる。最後の組も同様さ。相手を撹乱してばらつかせよう」
「……フン、貴様らがわざわざ囮になってくれるというわけか」
「だ、誰が貴様の囮になんかなってやるかよ!御伽、それ却下だ!」
「落ち着いて、城之内。これはそれぞれが互いの囮になるっていうプランだ。誰のため、とかじゃなく自分のためと思ってさ」
「ッチ……」
「それには決定打が欠けているな」
「え?」

 闇の中でも分かる。海馬はきっと口角を引き上げて笑っているだろう。ごそごそと動くシルエットから、カチリと金属の音がする。ジュラルミンケースを開けた音のようだ。夜目は効くらしい。何かが正確に城之内に向かって放られた。

「このオレも事態の詳細までは想定できなかったからな。二丁しか無いが」
「な、こ、これ……銃!?銃じゃねえか!」
「馬鹿め、重さで物を言え。ただの水鉄砲だ」
「水鉄砲……で、どうするのさ?」

 御伽から不服そうな声が上がる。どこか安堵したような響きも交じるそれから察するに、もう一丁を受け取ったのは御伽か。

「眉間を狙ってやれ」
「いや……そういうことじゃなくて……」
「ついでに『例の物はオレが持っている』と触れ回れ、それでやっと及第点だ」

 相変わらずの物言いにムッとするが、このままではここに居る友人全員が全滅してしまう可能性がある。海馬を助けることになるのは城之内にとって最高に不本意なことだったが、翌朝死体と共にニュースになられるのも寝覚めが悪い。仕方ないので、よっこいせとじじくさいかけ声を上げた。

「気に入らねえが、乗りかかったケンカだからな。仕方ねえ、いくぞ本田!切り込み隊の出発だ!」
「お、おう」
「君たちは東側の階段から行ってくれ」
「じゃ、早速行くぜ!」

 ぐだぐだ考えるのは趣味ではない。間髪入れずに教室を飛び出した。ひとまず、この階の廊下に人影は無い。注意深く足を運ばせる本田の背中を蹴った。もうかなり夜目に慣れてきている。

「っだ!何すんだ城之内!」
「バーカ、コソコソ行ってどうすんだ。何のための別行動だよ」
「そりゃそうだけどよ。お前、蹴ることねーだろ。オレ丸腰だぞ!」
「オラオラ!例のブツならこの城之内様が持ってんぞー!出て来い黒づくめの野郎どもー!」
「頭脳も子供なのに体まで子供になっちまったらどうすんだよ」
「んだとテメ、」

 廊下や階段を早足で進む。その間にも、バタバタと荒い足音が近づいてきているのが分かる。しかしその響きは右往左往、今ひとつ統制の取れている感じがしない。

 ――タン、!

 本田が奇妙なポーズで硬直している。よくは見えないが顔も大層愉快なことになっているのだろう。確かに今の銃声は近かった。

「来たかよ!あっちだな!」

 追う側はこちらのことをあまり警戒していないのか、ちらりとほのかな明かりが見えた。狙いがつけやすい。やたらと本格的な細工の水鉄砲の引き金を引いた。びしゃり、という嫌な音と共に、耳障りな悲鳴が上がる。思わず体を跳ねさせた。

「な、何だよ……!」
「城之内、なんか匂わねーか……?」
「ああ、しかも目がやたら痛い気がするぜ……」

 唐辛子やらタバスコやら、形容しがたいがとにかく『辛い』ものを五感が捉えている。もったいないとは思いつつも、城之内は手近な壁に向けて引き金を引いた。本田がすぐさまそれに光を当てる。

「水鉄砲っつーか、ペイント弾だろこれ……」
「赤いな……」
「ああ、赤いな……」

 本田がそっとライトを消した。闇に目を慣らすために目を閉じる。口に出しはしないが、本田も城之内と同じ心境だったことだろう。

(え、えげつねー……)

 眉間を狙えとはそういうことか。海馬にはそういうところがあるから付いて行けないのだ。例えるなら、瞬殺より嬲り殺しといったような。それに付き合おうとして鬱憤が溜まる遊戯の気持ちが、今更ながらに実感できる気がする。よし、もう絶交しろって今度ちゃんと説得しよう。

「とにかく今は、切り込み隊の役目を果たさねえとな」
「さっきの奴の情けねえ声のおかげで人も集まってきたみてえだしな」
「いいのか、丸腰なんだろ?コソコソ逃げてくれたっていーんだぜ?」
「バカ言うな、高圧電流と殺し屋相手に比べりゃラクなケンカだろ」
「ま、そーかもな!」

 城之内は大声を上げた。こっちだぞバーカ!

 城之内たちらしい大騒ぎの余波が潜伏していた部屋まで届いて、頃合かと部屋を出ることにした。この計画には、最初に部屋を出た人間が最も高いリスクを負う穴があったが、馬鹿は殺しても死にはしないだろう。海馬の持っている『物』に探知をかけて、海馬が真っ先に発見される可能性もある。

「来い、遊戯」

 返事は無い、まあ待ってもいないからそれは問題の無い話だ。ちらりと室内を確認したが、暗がりになってよく分からない。さっさとドアをくぐる。ついてくる気が無いのかと思ったが、廊下を歩き出すと歩幅の狭い足音がついてきた。だが、やたらと静かだ。いつもは黙れと言ってもやかましいくせして。

 階下に下ったところで、騒ぎを聞きつけ駆けつける男たちに幾度か視認された。これで連絡が回って、海馬の方にも人が集ってくるだろう。角や階段の影を利用して敵を掻き回す。何度かそれを繰り返していると、ついには相手を撒いてしまった。情けない敵方に呆れつつ、歩調を緩めた。あまりに静かな後方を一度振り返る。一応、ついて来てはいるらしい。

「……海馬くん」

 やっと遊戯が上げた声は、やたらと切羽詰った色をしている。

「何だ」
「何でボクと組んだの」
「……文句でもあるのか」
「ボクね、怒ってるんだよ」

 怒っている?

 一瞬、心の底から意味が分からず足を止めかけた。確かに先日、遊戯の家を訪れた時は様子がおかしかった気もしたが、それが何だというのだろう。海馬が気にしてやるほどの何かがあったとは思えない。

「何にだ」
「……っ分かんない!?」
「全く分からん。何故オレが貴様の怒る理由などをいちいち探し出してきてやらねばならん。そしてそれを察せとでも言うのか?戯言もその辺にしておけ」
「そういうとこ!もうちょっとさ、目の前に居る人のことだって考えてくれていいんじゃないかな!ボクの家に来てくれたのだって、ボクをからかいたかっただけなんでしょ!『それなり』ぐらいしか楽しめない家でごめんね!」

 海馬は今度こそ足を止めた。よくは見えない遊戯の顔を凝視しようと見下ろす。やっぱり心の底から意味が分からなかった。

「……悪いのか」
「悪くないって言いたいの!?」
「持て余す暇があったからゲームをしに行くことは、そんなに悪いことだったのか」

 遊戯から返事は返ってこない。しかし珍しいものを見たものだ。いつもバカみたいにニコニコ笑っている遊戯のこの剣幕である。そのせいで不思議と怒りを感じない。ポケットを探った。

「これを貴様にやろう」
「へ……」
「ここで駄々をこねられて後ろから刺されてもつまらん」
「しないよそんなこと……。何、これ……?」

 いわゆるハイソだとかエグゼクティブだとか言う層の人間が競って好みそうな、石の大きなネックレスである。遊戯は戸惑うようにためらいながらも、それを手に取った。

「ええっと……?」
「首にかけておけ」

 しばし沈黙が挟まったが、遊戯はそれを実行したようだ。タイミング良く背後に足音を感知する。暗がりに紛れていることをいいことに海馬は小さく笑った。

「そこだな!海馬瀬人!」
「やはり探知を使ってきたか。……貴様一人か」
「オレだけは騙されんぞ!例の物を寄越せ!」
「貴様親玉か?ここまで強硬手段に出てくるとはな。余程うら暗い商売でもしているのか……。程度が知れるな」
「うるさい!黙って例の物を出せ!この銃が見える……動くな!」

 低く舌を打つ。言動よりは多少こういうことに心得があるらしい。懐の銃を取り出して構えようとした動きを止められた。校庭沿いの窓辺に立っているせいで、相手からは狙いがつきやすいようだ。仕方なく銃を持ったまま両手を挙げる。

「……オレは持っていないぞ」
「何!?」
「後ろの……見ろ、こいつの首にかかっている」
「か、海馬くん!?」

 見定めるように小さく男が動いた。遊戯の首元で、例の物は多少の光でも反射して光っていることだろう。やっぱり!何かおかしいと思ったんだよ!また騙された!という遊戯の叫びは聞こえない振りをする。

「フン、さすがの海馬コーポレーションの社長さんも、命は惜しい……か。面白いな。小僧の命ごとそれを差し出すなら特別に見逃してやってもいい」
「その必要はない」
「……何だと?」
「オレに見逃す気は無いからな」

 拳銃を後ろに放った。男が動揺する隙にB9、と叫ぶ。間髪を居れずに乾いた銃声が響いた。カララ、足元に転がってきたそれを拾う。先ほどまで男が持っていた拳銃だ。状況を悟って男が反転する前に、海馬は大股を踏み出した。そして男の足を払い、寝かせた上で馬乗りになる。もちろん銃口は相手の頭だ。

「……いい銃だ。フルオートか。このままトリガーを引いたままでいれば、何発でこの床まで貫くことができるだろうな……?」
「ひ……っ!」
「吐くか、吐かんか。まだ選択権はあるぞ」
「い、言います何でも言います!」

 相手方の情報を吐くだけ吐かせて、銃把の底でその額を打つ。聞き覚えのある組織と会社だ。手を焼くほど大きいというわけでもない。後で如何様にも料理できるだろう。

「フハハハハハ……!この海馬瀬人を殺して、オレの物を奪うだと?その発想からしてくだらんわ!その床で当分頭でも冷やすことだな!」
「海馬くん、聞こえてないよ……」

 水を差すような声を睨みつけると、薄明かりの下の遊戯の顔は憮然としたものだ。それが気に入らず目の力を強くする。

「何だ。また怒るだの何だの言い出す気か」
「海馬くん、君これ本物じゃないか!怒るのどうのっていう話じゃないよ!」
「やかましい!誰がそれも水鉄砲だと申告したか!」
「そういう問題じゃ無くてさ……!ボクが失敗したらひどいことになってたよ!?そっちの人にひどい傷負わせちゃったかもしれないし!海馬くんに怪我させちゃってたかもしれないし!」
「怒っている相手の身まで気遣ってどうする。相変わらずの軟弱者だな」
「そういう問題じゃないってば!」
「貴様なら外さん。分かっている事柄をどうして疑う必要がある」
「……っ、もう怒る気力も無いよ!」
「……それは怒っている内には入らんのか」

「う、うわ!来た!」

 御伽は海馬にもらった『水鉄砲』を構えた。やたら精巧に作られたそれが、ただの水鉄砲でないと判明したのがついさっき。限りなく心強い相棒ではあったが、同時に負担は大きかった。

「元々ボクはこういう肉体派じゃないんだよ……!」
「代わろうか?」
「いい!いいよ!この中じゃボクが一番マシなはずだ!」

 最後の組は肉体派が存在しないだけでなく、3人も内包しているのだ。水鉄砲を抱えた御伽にかかる責任は重い。そして予想外にも向かってくる敵が多い。

(ん……『3』人……?)

 ふと疑問が湧き上がってきた瞬間、廊下の両端から挟まれる。絶体絶命だ。左右に忙しなく首を巡らせながら獏良をかばうように背筋を伸ばす。

「く……っ、やばい、かな……!」
「だから貸してってば!」
「あ、ちょっと!?」

 意外に、弾数が多かったんだなあ。
 一瞬の内に御伽が考えられた事と言えばその程度だ。あっという間に前方も後方も目元を隠して呻く男たちで溢れている。楽しそうに水鉄砲を確認する獏良は、弾切れを嘆いている。

「いいよねー、こういうの。ゾンビ倒すのとかあるでしょ。ボクアレ得意でさ」
「へ、へー?」
「御伽くん?」

 窓から差し込む薄明かりに照らされた獏良の優しい笑顔には、返り血のごとくペイント弾の飛沫が飛び散っていた。悲鳴を上げなかった自分を誰か褒めてほしい。何だかひりひりする、と獏良はそれを拭っている。

「さ、これももう使えないし今のうちに外に出ようよ!玄関もう近かったと思うよ!」
「う、うん……」
「どうしたの?」
「いや、ボクたち……3人じゃなかった、っけ?」

 悶え苦しむ男たちを容赦なく踏みつけて(気が付かなかったらしい)、獏良は御伽をじっと見つめた。それから小さく笑う。

「あれ?御伽くん気づかなかったの?」

 存在自体がホラーってこともあるんだな、その晩御伽はひとつ知りたくない知識を得た。

「結局、これって……何だったのさ?」

 校庭に出てみると益々強調される悪趣味な細工に辟易しつつ、遊戯は首からペンダントを外した。今、校舎内は海馬に「遅い」と怒鳴られて戦々恐々の黒服たちによって片付けられているらしい。その場には全員五体満足で揃っていたが、皆一様に疲れ果てている。海馬だけはいつもの通り、背筋をピンと伸ばしての仁王立ちだったが。

「貴重な宝石とか?」
「フン、見栄だけで価値を得る石ころごときと一緒にするな」
「でも他のものには見えないんだけど……」
「データのインプットとアウトプットを他媒体に頼らないメモリだ。小型化と軽量化、何より保存性の高さと加工のしやすさが売りだ。これを応用すれば、どんな分野にも革命が起こせるだろうな」
「……それを君が作ったの?」

 肯定も否定も無いが、この沈黙は「当然だろうが」と言いたいのだろう。しかしどう見ても悪趣味な装飾品にしか見えないのだが、こんな風にカムフラージュできることも特長なのだろうか。

「この技術を狙われてたの?」
「それもあるだろうが、奴らごときにこの技術が扱えるとは思えん。それより奴らはこの中身に関心事があったようだな」
「中身、って……これに入ってる?」
「いつの間にかオレが収集した『弱み』を集めた閻魔帳、という噂が広がっていたらしい」

 噂の出所すら今は分からないが、会社から帰宅する車の運転手が相手の手先で、そこから逃亡劇が始まったらしい。学校は車から転げ落ちた地点から近かっただけだとか何とか。相変わらずハリウッド映画のような人生だ。

「でも、そんな大変なものなんだから……狙われて当然かもね……。返すよ」
「このオレがそんな細々しいことをいちいち収集しては喜ぶような男だと思うのか貴様は!それにはそんなデータは一切入っておらんわ!」
「え?じゃ、じゃあ何が入ってるの?」
「オレと貴様の決闘の戦績だ!」

 しーん、とその場は静まり返った。海馬が遊戯の手にぶら下がるペンダントに軽く触れる。そうするとホログラフのように操作画面が浮き上がった。すぐにずらずらと今までの戦績らしきものが眼前に羅列される。動画も記録できるんだね。そりゃすごいね。

「……結局最初っから最後まで海馬に振り回されただけじゃねえか……」

 城之内の疲れた悪態に全てが集約されている。
 本当に何から何まで、海馬の手のひらの上だったのではないかと疑ってしまう。遊戯の心を持ち上げたり突き落としたり、それでいいように使われているような。
 じっと見つめていると、ふと目が合ってつい慌てる。

「怒っているのか」
「怒ってるよ!」
「何にだ」
「全部!」
「全部では分からん」
「シューティングとか……君、最初から何か企んでたんじゃないの!上手く言えないけどさ……!」
「……陶冶と言え」
「え!?何!?」

 よく拾えなかった言葉を問い詰めようと一歩前に出ると、ペンダントを無言で手に取られた。激烈苛烈ないつもの調子が鳴りをひそめているせいで少しやりにくい。でもよくよく考えてみれば、遊戯の前の海馬は以前よりずっと穏やかな方だったかもしれない。

「これは要るのか要らんのか」
「今、そんな話じゃなかったよね!」
「要らんなら返せ。貴様以外には絶対に渡したくはないデータだ」

 最初は何もかも撥ねつけて返していたくせに、突然友達みたいなことを言ってみせてくれたり。
 決闘の戦績を後生大事に持ってたり、それを遊戯に渡したり。

 本当に海馬は卑怯だ。
 いくら怒ってたってどうしたって、これが嬉しくないわけがないのだ。

「返せって言ってももう遅いよ!ボクがもらったんだからさ!」
「フン」
「でもまだボク怒ってるんだからね?」
「知るか」
「知っててよ。一緒に花火してくれたら、許してあげるんだからさ」

 こうして海馬が、ポーカーフェイスの内で次は何をしようかと模索するようになることを、遊戯は知らない。

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