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昼下がりの敗走



 武藤遊戯という男は、大体どの点においても平均以下のものしか持ち合わせていない。まずその間抜け面を見るに――端麗な相貌というわけでもなく、童顔で、おまけに髪には珍妙なクセがある。背丈にも恵まれておらず、短い手足を使って歩く様は「みっともない」の6文字がよく似合う有様だ。人は見かけによらず、などという無責任な金言を引っ張り出してきたとしても、下から数えた方が早い奴の成績順位を見れば玉砕せざるを得ないだろう。
 唯一、たったひとつだけ海馬が遊戯を評価することと言えば、決闘――ゲームの腕についてだけだった。以前はそれすら認めてやるほどのレベルでは無いと考えていたが、もうひとつのジンカクだか古代人のタマシイだか――ともかく理解するどころか話を聞くことさえ不愉快な経験を経てこの目の前の『遊戯』は海馬の好敵手となった。

「海馬くん?」

 何の衒いも無く名が呼ばれる。少し視線を動かすと、不思議そうな顔がそこにあった。比喩でなく雲ひとつない青空を、軽々しげに背負って立っている。指先が冷えるほどには冬を意識し始めた空は、水を打ったかのように透き通っていた。

「どうしたの?」
「……何がだ」
「黙ってる。考えごと?」

 考えごとと言うのも馬鹿馬鹿しい、取り留めの無いことだ。我ながら随分無駄なことで脳細胞を浪費している。だが取り立てて厳にそれらを排除する必要も今は感じられなかった。この学校という気が抜けるほど呑気な空間には精々似合いだ。

「オレはいつもと変わらん。必要と思えば口を使う」
「そう?……確かに、いっつもボクばっかしゃべってるかも」

 何がおかしいのか遊戯は小さく笑った。
 ほんの最近まで、海馬の言う『遊戯』は目の前のこの男では無かった。同じ名前と容姿を持ちながら、確かに違う人間を倒すべき宿敵と見ていた。大きく、強く鋭い、剛の剣を秘めた男だ。あの男との戦いは、今思い返しても足の裏や背筋にゾワゾワとした痺れが走るほど血が騒ぐものだった。だが今あの男は居ない。そして目の前のこの『遊戯』が海馬の現在の好敵手、倒すべき敵である。それだけは明確だ。

「最近よく学校に来るんだね」
「悪いのか」
「……すぐそんな風にさ……。ボクは嬉しいよ、分かるでしょ?」

 その反論など存在しないだろうと信じきった顔が腹立たしい。この男を優柔で軟弱な男と見ると必ず後悔する。『あの男』が剛なら遊戯は柔の剣、どんなに硬い物と相対しても折れることは無い。

「それに、そうじゃなかったら君をこの、ボクの取っておきなんかに連れて来たりしないよ!」

 遊戯が軽く両手を広げる。それが合図とでも言うように小さく世界の風が動いた。ひやりと冷気が鼻の先を撫でてすれ違っていく。
 そこは特筆することも無い校舎の屋上だ。平常閉鎖されているはずが、扉の鍵が壊れていて自由に出入りできるようになっているだけの場所である。各所に散ったゴミやタバコの吸殻などから、そこが遊戯だけの『取っておき』でないことは明白だった。
 だが遊戯にとって『取っておき』ならば、それは『取っておき』なのだ。

「気持ちいいでしょ?」

 遊戯には何も無い。富も無い。頭脳も無い。容姿も無い。あるのは幾許かの名声、それに見合った一点の実力、それから何の含みも無く無邪気に浮かべるその笑み。

「ほらあれ、見えるでしょ。海馬コーポレーション。やっぱり目立つねえ。ボクの家はあの辺かな……。さすがにボクの家は見えないぜ。海馬くんちは見えるんじゃないかな、大きいもんね。ええっと……」
「……遊戯」
「ん?」

 わずかに首を傾げて、遊戯が海馬を見上げてくる。それは遊戯にとって、何気ない当たり前の動作なのだろう。だが海馬からすればそれは信じられないほど無防備で油断だらけだ。海馬が何かしら攻撃を仕掛けることは全く予想されていない。例えば今海馬がコルトを引き抜いてそれを乱発させたら、遊戯は走馬灯さえ見ずに地に倒れるだろう。

「海馬くん?」
「うるさい」
「あはは、ごめん」

 少し前のこの男なら、縮み上がって沈黙したに違いない。だが遊戯は苦笑するだけだ。憤慨も物怖じもせず、気持ちよさげにフェンスの隙間から入る風を受け止めている。

「貴様は何がしたい」
「……何がって?」
「オレに構う暇があるならさっさとオトモダチのところへ帰るんだな。オレに馴れ合う気は無い」
「帰るも何も、ここだからなあ」

 色々と省かれている言葉に数秒理解が遅れた。あまりに能天気な言葉の真意に辿り着いて体ごとしかめ面を遊戯に向けると、さすがに焦ったのか遊戯も慌てて海馬に向き合う。だがそれだけだった。謝罪も弁解も無い。ただじっとこちらの顔を見上げて言葉を待っている。

「……のうのうと」
「あ、ちょっと……」

 海馬が身を翻し、出口に向かって三歩進んだところでチャイムが響いて聞こえてきた。海馬の行動を咎めるわけにもいかなくなって遊戯は黙る。足音だけが後方から控えめについて来ていた。だが何を思いついたのだろう。海馬がドアノブを握る寸前に、駆け込んできてドアの前に立ち塞がってきた。

「海馬くん、次体育だよ」
「何だと?」
「今から行ったって間に合わないよ。それに好きじゃないんでしょ、体育」

 いっつも出てない、遊戯は少し拗ねたように続ける。体育が嫌いなのはこの男の方だろう。俊敏な動きができる人間にはとても見えない。半分は余計な世話という押し付けがましい親切心、半分はあわよくば自分もサボってやるという薄い策謀だ。見え透いている。

「くだらん」

 ここで押し問答をするのも、教室に一度戻ってから外に出るのもひどく億劫だ。遊戯を一瞥してから塔屋の側面に腰を下ろすと、許可も取らずに遊戯は横にすとんと座った。腹立たしいほどの笑みだ。冷たい風に吹き晒されたコンクリートはひどく冷たいくせに、空から受ける惜しみない陽光は暖かい。
 いつもはこちらをチラチラと窺って隙を見つけては言葉を出そうとする遊戯がやけに静かだ。少し気になって視線を横に流すと、あぐらをかいた遊戯は海馬をじっと見つめていた。まただ。何も持たない遊戯は、それを武器にして時々こういう風に透明な槍を突き出してくる。

「あ、ごめん。気になった?」

 慌てた様子も無い。

「……決闘する?」
「しない」
「しないの?」
「今はな」

 常ならば絶対に逃さない機会だ。遊戯もこれにはさすがに面食らっている。実のところ、こうやってくだらないぬるま湯の水槽のような場所に来るのも、ほとんどは決闘のためだ。社の業務に決闘は組み込まれていない。

「そっか……残念」
「今だけだ。常ならば逃がさんぞ。貴様が無様に倒れ伏すまでは地の果てまで追い詰めてやるわ」
「そっか、楽しみ」

 遊戯の笑みは柔らかでいて挑発的だ。こんな表情ができるのはきっと、世界でもこの男ぐらいのものだろう。そんな器用なことができるなら、それを日常の生活でも発揮すればいいものを。全てを苦々しく嘲りながら、海馬は後方のコンクリート壁に背を預けた。それから少し傾く。不快な奇声が聞こえてきて眉根を寄せる。

「か、海馬くん?」
「疲れた」
「……何に?」

 仕事で肉体が疲労したなら休養すればいい。だが難解な問題に挑むことに疲れたならどうすればいいのだろう。諦めるなどという無様な選択肢は当然ながら持ち合わせていない。が、本来は忌むべき言葉だが、残念ながら確実にこれは――負け戦なのだ。

「動くな」
「ええ、ひょっとして君、寝るつりじゃ……風邪、」
「動くな!」
「はい!」

 この寝付けそうにも無い狭い肩の持ち主は、二足歩行のものならば手当たり次第に投げ縄を引っ掛けて、『友』と呼んでは喜ぶ奇怪な人種なのだ。海馬に太刀打ちできる程度の愚かさではない。だから海馬すら手に余るものを、この男が扱えるわけがないのだ。

 何でもかんでも、馬鹿のひとつ覚えのように受け止めてみせるような顔をするから悪い。

 きっとこの男は海馬が目覚めるまでじっとこの場を離れないのだろう。その確信に、敗戦の苦汁を忌々しく噛み締めながら海馬は目を閉じた。

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