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年年歳歳花相似たり



 息を切らして少年が駆けてくる。それを見下ろす桜まで辿り着くと、幹に手を当てて立ち止まった。もう昼下がりだからか、春の近い寒空の下でも少年の息は白く曇らない。

「はあー……」

 ほぼ言葉に近い大きなため息をついて、少年は幹に背を預けてその場に座り込んだ。しばらくは呼吸を整えるような音と遠方のざわめきしか校庭には存在していなかったが、少年がその片手に持っていた細長い筒を地に放る音が新たに生まれた。カララ、と筒は少し向こうに転がる。少年はその動きじっと見つめていた。

「そつぎょう……卒業かあ」

 思考と実際の発声との境界があいまいなぼんやりとした言葉が柔らかい日差しに紛れていく。その恩恵に預かっている少年は、わずかに微笑んでいるように見えた。

「色々あったなー」

 朝方より随分丸くなった風が梢を揺らす。それに気づいたわけでもないのだろうが、少年はふと顔を上げた。あ、蕾だなどとのんびり呟いている。珍しいことだ。春とは違って、冬を耐える桜に見向きする人間は少ない。

「本当に、色々……。でも今思えば楽しかったんだって思えるよ。悔いとか無いもんなー」

 今度は目の前に誰か相手がいるかのような口ぶりだ。この学校という場所は、入れ替わり立ち代わり人が流れていく。この少年はきっともうここに二度と訪れないのだろう。悔いは無いと呟くわりに、懺悔のような独り言だ。

「悔いなんてさ」

 一足早い春の陽のように優しく微笑んで、少年は瞳を閉じる。しばらくそうやって静かな呼吸を桜に伝えていた。

「海馬くん、」

 早朝にここに立っていた男のように、少年はそこに姿の無い人間の名を小さく呼ぶ。そしてやはり彼のように目を閉じたまま沈黙を噛み締めていた。それは全く異なった時間に存在しているのにも拘らず、触れ合っているかのようだ。
 そんなことを考えるのは、桜があまりの悠久を繰り返しているせいかもしれないが。

「海馬くん……」

 立ち上がって少年はもう一度桜の幹に軽く触れた。少し上方を見上げ、ためらうような間を振り切って口を開く。

「さよなら」

 少年が踵を返して遠くなっていく。駆けてきた友人たちと途中で合流したようだった。騒がしい声がこちらにまで伝わってきている。少年が去ったのを見計らったように枝先にスズメが止まった。

 人は桜とは違って何かと目まぐるしい。幾度か春を重ねれば、あんな小さな少年たちのことなんて年輪にも刻まずに桜は忘れてしまうだろう。だから呼ばれた名も、告げられた別れも、誰も知らないままなのだ。誰も知らないまま、春が来れば桜は花をつける。

 清々と澄んだ冬の早朝の空気に、何の息遣いも感じられない固形のような夜が終わろうとしている。東の果てから空は暖色に緩み始めた。季節柄寝坊がちな太陽が気だるげにその身を起こす。足元に長く伸びる影を見てなんとなく悟った。春が近い。

 昨日よりも一段と柔らかい風が螺旋を作って貧相な梢を揺らして駆けていく。どこかむず痒いような違和感を不審に思っていれば、蕾だ。あとほんの少しでも待てば、暖かい春日影を彩る晴れ着が身に纏えるだろう。校庭の隅で静かに佇む桜は、繰り返される季節に悠然と思いを馳せた。時折落ち着きの無い鳥たちが羽を躍らせては、楽しそうにさえずるのを聞く。いよいよ春を呼ぶ声だ。

 次第に意識の外に、遠いざわめきが感じられるようになってきた。もうしばらくすればそれも段々と大きくなって、この寂しい校庭からでも人間の姿が望めるようになるだろう。

 そう考えた矢先のことだった。

 水を打って洗い流したかのような浅縹の空を背負うように、ゆっくりとした歩みで校庭を横切る人影がある。それはまっすぐに桜に向かって近づいてきており、やがてその白い吐息まで判別できるようになった。日差しは柔らかくなってきたが、朝はまだ寒いのだろう。

 睨むように桜を見上げるのは背の高い男だ。制服を身に着けているから学生だろう。その色はあまり見かけない白だったが。知らぬうちに思わぬ不興でも買ったかと考えるが、その人間はたまに心無い者がそうするように蹴ったり傷つけたりはしなかった。睨むのをやめて背を預けてくる。

 男は瞳を閉じたまま微動だにしない。組んだ腕の右手には細長い筒が握られていた。あれには見覚えがある。春が近づくと必ず、あれを片手にした学生が溢れる日がやってくる。

 枝に止まっていたヒヨドリが甲高く鳴いて空を駆け上がっていった。

「……遊戯」

 男が低く呟く。しかしそれは朝の清浄な空気にすぐ溶けて消えてしまった。桜と一体化してしまうのではないかと心配になるほど動かなかった男は、幾ばくかの沈黙を挟んで目を開けた。それから何の未練も無いように早足に歩き去っていく。

 桜はいつまでもその背中を見送っていた。

 ぱらぱらと机の上のプリントが床に舞い落ちた。入学したばかりの4月、ただでさえ書類が多いのだ。春風を誘い入れた窓辺を恨みがましく睨みやると、申し訳なさそうな顔をしたチビが突っ立っている。

「悪いけど、閉めていてくれないかな」
「えっと……そのぉ、ごめん」

 御託はいいからっさと閉めろとその愚鈍ぶりを指摘してやりたかったが、その労力さえ惜しい。のろまには何を言ってものろまだ。

「拾おうか?」
「いいよ、もう終わる」

 それより早く窓を閉めろ。
 苛立って、プリントの束を片手に窓辺に歩み寄った。こうなれば己の手を使った方が遥かに早い。しかしそんな海馬に男は慌てた声を上げた。

「あ、待って!ほら、あれ」
「あれ?」
「桜だよ。綺麗だよねえ」

 屈託の無い笑顔が、無防備に海馬に向けられている。その単純さに、胃の奥が疼くぐらい寒気がした。もう付き合っていられず、窓をピシャリと閉める。

「君は普段からそんなくだらないことしか考えていないのかい」

 嫌味がつい口をついて出た。胸中に積もる本音を出さなかっただけマシだろう。落胆したような表情が煩わしくさっさと席に戻る。桜が綺麗だから誰が得をするというのだろう。プリントは飛ぶわ、それに苛立ちはつのるわ、むしろ大損害だ。

 気を取り直してプリントを鞄に仕舞い込む。どうせあんなに単純で愚かな人間など、海馬の人生には何の影響も及ぼさない。進級してクラスでも別れれば、さらに卒業なんてしてしまえば、すぐに忘れてしまう存在だろう。

桜の木の下、誰も知らないさよなら(ここでキスして7題-03)

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