当然と言えば当然なのだが、アレンと夏準とでは考えていることがまったく異なる。生まれも育ちも全く違うのはもちろんのこと、一緒に暮らしていてもライフスタイルがことごとく違う。HIPHOPがあるからこそ、辛うじて重なる部分が色濃く塗り重ねられているだけだ。
そこで何が起きるかと言うと、すれ違いである。胸がぎゅっと締め付けられるようなもどかしさ、などというロマンティックなニュアンスではない。単純にタイミングがすれ違うのだ。何のタイミングか──毎日一緒に居れば大きなとこから小さなことまでさまざまある。ちょっとした伝言や物の貸し借り、当番や約束などなど。
単純にそういうすれ違いをカウントしたとしよう。すると肩透かしを食らった累計は明らかに夏準のほうが大きい。だがそれは、アレンが夏準をないがしろにしている、ということを意味しない。HIPHOP以外は何も考えていないように見えて、アレンは案外夏準やアンの言動や記念日をよく覚えている。二人との約束を「明言した場合」、大抵はきちんと覚えているし、守る努力を惜しまない。
しかしこれが、「わざわざ言うようなことでもない場合」だと、明らかな差になってしまうのだ。そして燕夏準という男は、そんな不公平を見逃してやれるほどの堪え性が無い。しかもだからといって「わざわざ口に出して甘える」ような素直さも無いのである。そういうわけで、すれ違いポイントは夏準の小さいスタンプシート上すぐにいっぱいになる。
「お。おかえり」
スタンプシートが引き換え券に変わっていることに気づいていないアレンは、大抵お気楽に夏準に声をかける。徹夜明け、曲の方向性がようやく固まったことでスッキリさえしていたりする。重い瞼をしぱしぱしながら、歯ブラシ片手にぽやっとランニング帰りの夏準を迎えたりするわけだ。
対する夏準も、それに緩い笑みを返す。不満が頭のてっぺんまで到達していることを素直に出したりはしないのだ。これが陰険腹黒ドSの名をほしいままにする男の姿である。ただ、長年の付き合いから、アレンはこのあたりから既に不穏を感じ始める。ちょっとだけ寝て起きないとな、単位落とせないよなあ、などモゴモゴ殊勝なフリをしつつ玄関を覗いていた頭をサッと洗面所に引っ込める。が、無論、スタンプカードは強制引き換え制なのだ。
夏準は何も言わずにアレンの後を追って洗面所に滑り込む。毎朝の習慣のシャワーを浴びるため、では当然ない。慌てて口をゆすいでいるアレンを鼻で笑いながら、その肩をぐっと掴んで振り返らせた。そして、間髪入れず水で濡れた唇に唇を重ねる。驚きで油断している緩い口元に舌を滑り込ませるのはひどく簡単だ。洗面台に腰を抑えつけるように足を踏み込んで体重をかければ、舌の隙間から抗議のような唸り声が漏れて少し不満ポイントが消化される。
「……ミントですね」
じゅ、と爽やかさのかけらもない湿った音と舌の熱さに反し、口内にはスッとした清涼感に満ちている。愉快そうに囁く夏準に、アレンはなんとも言えない気持ちで眉を寄せるしかない。足の間に割り込まれた腿には、このままでは眠れない熱が伝わってしまっているだろう。
「……夏準」
普段、薄い膜のように香水の匂いを漂わせている夏準から人間の熱を感じさせるような匂いを嗅ぐ機会は限られている。今日のような運動のあと、ライブのあと、それから。いつかなんでもないタイミングでおかしなことを考えるようになったらどうしようか、とアレンは時々怖い想像をする。香水とはまた違う甘さがあるからタチが悪い。
「朝から……」
「へえ、あったんですね? 夜に、タイミング」
HIPHOP以外に熱を注ぐアレンの姿が面白くてたまらなくて始めた遊びには、それなりの準備がいる。そしてその準備は、無駄になった時にひどい徒労感と虚しさを伴う。美しい笑みで無理やり抑えつけられた不満が棘になり、アレンの良心をチクチク刺し、そしてよくない熱を体の奥に灯す。
「すみません、気づかなくて」
空気と笑みで湿らせた囁きとともに、夏準の長い指がアレンの胸元をゆっくりと辿った。縦に長い体が折られアレンの足元にしゃがみ込む。後に何が来るかが分かって、アレンは思わず顔をしかめてしまった。余裕なんてとっくに無くなっている。
「埋め合わせが……要りますよね?」
何も言えず、ただ見下ろすしかできない、アレンの必死な瞳に夏準は笑みを傾けた。もちろん夏準の言葉は皮肉である。謝るのも埋め合わせも全部アレンがすべきことですよね?──そんな声を視線から読み取って、アレンはなす術もなく顔に手を当てた。
さて、そんなこんなで、夏準の極狭スタンプカードはリセットされるわけだが。するとそこには避けがたい反作用が生じる。当然、アレンにだってすれ違いカウントは存在するのだ。
そもそも、アレンにとって見れば夏準の不満はハイコンテクストが過ぎる。前述のとおり、朱雀野アレンは大切な仲間が明言したことを誰よりも大事に尊重したいと思っている男だ。多少気恥ずかしいのは当然認める。だがだからこそ、率直に口に出してくれれば──まあ作曲がノリにノっていれば多少は引きずるかもしれないが──素直に嬉しくなるはずだし心から楽しめると思う。
そう、アレンは夏準とのことを楽しんでいる。最初は感情が溢れて体が暴走し、うまく制御できないことに悩んだりもしたが、今思い返せばそんな自分に呆れてしまうし、そんなアレンの不器用をオモチャに好き勝手に遊んでいた夏準にこっそり不満スタンプを貯めてきた。
マメに貯めに貯めたスタンプカードを、今は少しずつ引き換えている最中なのだと思うことにしている。
「アレン?」
そういうわけで、モデル仕事から戻ってきた夏準を運よく玄関先で捕まえたアレンは、夏準の腕を引き、壁にその背を追いやった。そのままそっと腕を腰に巻き付け体を寄せる。首筋にあたる鼻先にはいつもと違う香水の匂いが触れた。これも仕事のうちなのか、夏準自身のこだわりなのか。写真に写らないというのに。
すう、と大きく息を吸うアレンに、壁に押さえつけられた夏準は早くも嫌な予感を覚えている。アレンはしばしば、良くないハメの外し方をする。それがHIPHOP関連なら呆れつつも笑えるが、最近そうでない時が増えてきた。そしてその「そうでない」時、夏準はうまく笑みを保っていられなくなってきている。駆け引きができるような男ではないはずだが、わざとかと疑いたくなるくらい、タイミングをずらされている気がするのだ。
「気が済んだら退いてください。シャワーを浴びたいので」
無理やり体の間に腕をねじ込んで押し返そうとする、そんな夏準の顔をアレンは子供のような笑みで見上げた。当然気が済んでなんかいない、と言葉もなく伝えている。首筋から手が沿って後頭部の髪を指が撫でた。ちゅ、と軽い音がするだけのキスを数度重ねる。はは、アレンは表情を笑みに崩した。あからさまに夏準が嫌な顔をしているからだった。
「……なんの準備もしていませんけど」
「うん」
意味なんてないただの相槌。シャワーに送り出す気などさらさら無いことを伝えるだけの音だ。
「嫌なのか?」
少し首を傾げて夏準の目を覗き込む。アレンは気づいたのだ。明言が無いなら、言わせればいいということに。そうすればアレンはうっかりタイミングを逃すこともないし、心からこの熱を楽しんで注いでいられる。
しかし、この解決策はひとつ大きな問題を抱えている。夏準がタイミングというものに執着する男であるということである。タイミングを外した、思いもしない瞬間であればあるほど、見せたくないものを曝け出している気がして気に入らない。しかしアレンの問いに笑顔でYESを突き返せない時点で、どうあっても無駄な足掻きだ。小さなスタンプカードにまた新たなスタンプを増やし、屈託ない笑みを睨み下ろしながら重い頭に手を当てた。なす術もなく溜息を吐く。
当然と言えば当然なのだが、アレンと夏準とでは考えていることがまったく異なる。しかしなんだかんだ、そこそこうまくやれている。