休日の夕方。一瞬すら逃さずに楽しいことを詰め込みまくった満足感と、そんな一日がゆったり眠りに向かっているほんの少し寂しい感じと。そんなチルな時間がアンは大好きだ。ソファの角を占領しヒールに疲れた足を延ばした先、一面に張られた窓の向こうは何故だか懐かしさがくすぐられる赤と紫のグラデーション。もう一枚写真を撮ってリールの締めにエモい一文でもうっかり添えてしまいそうだ。そんな美しい空模様をバックグラウンドに、抱えたクッションの上へ立てたスマホに詰め込んだ宝石をスライドしていく。つい、好きな曲を口ずさんだ。機嫌が良いときの定番鼻歌プレイリストは当然、アレンが作ったメロディばかりだ。
「アレン」
そんなことを考えていると、タイミングよく夏準の声が聞こえてきて指を止めた。いつもなら大して気にせずスマホから目を離さないのだが、今日は無意識に首が回った。髪の毛をずりずりソファに擦り付けながらキッチンのほうに目をやる。
当然そこに居るのは先ほど夕食の準備を始めたばかりの夏準。そして何故かその横に居るのは夏準のテリトリーの中で居心地悪そうなアレンだ。これこそアンの興味が引っ張られた理由である。こんな調子で、今日のアレンときたら夏準の傍を離れない。夏準が立てば後に続き、座れば隣を陣取り、歩けば大股を踏み出して肩を並べる。赤ちゃんの後追いみたいだが、そのくせ何も言わず、不機嫌と困惑をマーブルにした顔でじっと夏準の横顔を見つめているだけなのだ。
「口を開けてください」
「えっ」
見てるほうは面白かったけど謎だったんだよねえ、ようやくツッコむのかあ、なんて思ったし、アレンもきっとそう考えていたのだろう。しかし夏準はアレンの不審な行動には全く触れず、表情に笑みを滲ませてティースプーンを差し出した。戸惑って上げた声で口が開いたので、容赦なくスプーンを押し込まれている。きっと今日のおかずのひとつだろう。先ほどから野菜を切る音とごま油の香ばしい匂いがリビングに漂っていた。
「ああ、感想は結構です。頼りにしてませんから」
ふ、小さく笑うと、夏準はまた手元の作業に視線を落とした。ザッとスプーンを水洗いする音がする。なんとも言えない表情でもにゅもにゅ口を動かしているアレンは、もはや赤ん坊を超えて雛鳥みたいだ。前髪もそんな感じだし。
「夏準」
何を作らせても美味しい夏準の料理の味見役がせっかく回ってきたのに、ちっとも味わう素振りもなく呑み込んで、ようやくアレンは唸るように声を上げた。お、とうとう始まる? アンはクッションを抱えたままもぞもぞ体の向きを変えた。ソファの背もたれにあごを乗せて観戦モードに入る。休日の夜らしくなってきた。サッカーやらラグビーやら、特別好きなチームがなくても横目に置いておくと休日が終わってしまう寂しさを賑やかに彩ってくれるものだ。その例えで言えばこれはまさにホームチームの試合。コーラとホットスナックが無いのが悔やまれる。
「なんですか?」
夏準の視線は手元に落ちたままだ。何かを混ぜているのかカラカラ、と耳に心地よい高い音がする。そんな手元をアレンも所在なく見つめているようだ。
「怒ってない……よな」
「ボクが怒るようなことをしたんですか?」
「してない! と、思うけど……」
語尾がどんどん弱くなる。HIPHOPに熱中すると周りが見えなくなる、と両脇から散々言われて自信が無くなってきたのだろう。ま、それいいとこでもあるからしょうがないんだけどさ。
「なんか、ずっと……なんて言うか、変だろ」
「アナタみたいなクレイジーな人にそんなことを言われるなんて、光栄ですね」
ここまで言葉に心がこもらないことってあるんだ。アンは素直に感心した。しかし、夏準の顔色はまったくいつもと変わらずケロっとしている。アレンとの会話を楽しむような余裕さえ口元の笑みに滲んでいる気がした。もしいつものようにお小言モードなら、見えない圧で部屋の空気が床にへばりつくのですぐ分かる。アレンが感じているように、怒っているわけではなさそうに見えた。
しかし、納得がいかないらしいアレンは口元をもごもごさせている。今も、とアンに聞こえるギリギリの低さで口を尖らせた。
「全部流されてるっていうか……ちゃんと聞いてないっていうかさ」
「聞いているから返事しているんでしょう?」
「……俺、とうとうお前にとってつまんない奴になったんじゃないかって」
何かを切る音が止まった。笑みを消し、目を丸めた夏準の顔がゆっくりとアレンへ向けられる。その視線から逃れるようにアレンの目が逸れていった。その後頭部を夏準はじろじろ、初めて見た変わった生き物みたいに眺めている。
「アレンって……本当に馬鹿ですよね」
「おっ、はあ?」
さすがにカチンときたのか、アレンの視線が夏準に戻ってきた。そして、そこにある笑みが言葉と正反対の柔らかさをしていたのですぐに戸惑ったようだ。思ったよりも見ごたえのある展開に、アンも身を乗り出して背もたれに肘をつく。ちら、と夏準の目が観客席に向いた。
「その話、ここで続けて大丈夫ですか?」
「……続けてダメな理由無いだろ」
「そうですか? まあ、アナタがそれいいなら」
ふう、ひとつ息を吐いて包丁がまな板の上に寝かされる音。手を洗っているのかまた水音がする。
「アレンはボクのことが好きじゃないですか」
そんなさりげない生活の音の隙間、なんでもない風に夏準は言った。トン、と水が止まり、手と布が触れる音。それから夏準は体を少しだけアレンのほうへ向けた。ぽかんと間抜けな表情で固まっている顔、その額へ長い指の先を伸ばしてトントンと叩いている。
「本当に……苦労したんですよ? HIPHOPしか詰まってないその頭にボクのことを刻むのは」
指が離れ、アレンはようやく我に返ったようで、真顔で自分の額に手のひらをぶつけている。ドッ、と痛そうな鈍い音がした。その勢いに一瞬きょとんとした夏準は、クッと喉を鳴らして笑う。
「ですから、達成感……とでも言えばいいですかねえ。何をしても、何を言っても、ボクのことを好きだと思うと気分が良くて」
ふふ、心底おかしそうに吐息をこぼす夏準が体を傾けて身を乗り出す。それと同じだけアレンも身を引いた。なんという名試合。アンも固唾を吞む。
「面白いですよ、ずっと。ボクのことを気にしているアナタは」
おお、決まった。額から外せないアレンの手の甲にキスが。思わず感嘆の声が漏れて手を叩けば、そこでようやく観戦席のことを思い出したアレンがくずおれてキッチンの向こうに見えなくなってしまった。今日のMVPが機嫌良さそうに手を振り返してくれている。
まあ、夏準の言った通りなんだよね。ここ最近ずっと機嫌良かったし。
アレンがちょっとかわいそうかも、という気もするが、色々考えすぎて動けなくなっていて、そんな姿をアレンに見せられなかった姿ごと知っているアンとしては心からの拍手喝采を送ってやりたい。ついでに、今日も手が込んでいて豪勢だろう夕食に感謝の気持ちをしっかり乗せておいた。