スイッチを入れると、ターンテーブルがゆっくりと回転を始める。ストロボの赤い光を見下ろしているだけで心が弾み頬が緩んだ。ふ、と笑みを零しながら、そっと針をレコードに下ろす。パチ、とレコードからノイズが鳴り、その後にズンと腹に響く重低音がスピーカーを叩く。かつて世界中のクラブを湧かせた名曲が手で触れられそうな質感で空気を震わせる。音や言葉を全身で浴びているみたいだ。無理やり繋いだヘッドフォンでコソコソ聞いている時には到底感じられない音圧。スピーカーの振動を一番気持ちよく受けられる場所から動けずに立ち尽くしている。ビートに乗って体を揺らしつつ、好きなフレーズを口ずさんでみたりする。
理由は、多分ない。探せばいくらでもあるけど。
何がそんなにいいんだ──ある時は鋭い刃で傷つけられるように。どうしてそんなに好きなんだ──ある時は雑談の延長線で退屈そうに。問われた時、体の奥底からいくらでも情熱と言葉が溢れ出てくる。HIPHOPというジャンルが抱えるひとつひとつがアレンの心を揺さぶる。それをいくらでも語って聞かせてやれる。けれど、その一番最初のきっかけ、好きで好きでたまらない感情の核が何なのかまで問い詰めていったとしたら、多分理由はない。出会ったその時に、好きだと思った。それがすべてだ。
カチャ、部屋に満ち溢れた音が無機質なほんの軽いノイズに突き破られた。無意識に背筋が伸びる。勢いよくドアを振り返り、少し怪訝そうにも驚いたようにも見える微妙な表情と目が合う。しなくてもいい過剰な反応をしたことに遅れて気づき、なんとも言えない苦味が込み上げてきた。ごまかすように苦笑する。顔を覗かせる夏準も表情を呆れたように緩めた。ドアの隙間を広げ、コンコンコンと叩いて見せる。ノックしたんですけど、というところだろう。ん? 眉を上げて目だけで用件を聞こうとしたが、そんなアレンの横着に夏準は当然付き合わなかった。
レコードから鳴る音の隙間を泳ぐように、そっと長い体が滑り込んでくる。何か話があるのか。レコードを止めたほうがいいだろうか? ターンテーブルに手を伸ばそうとしたが、夏準はアレンの背後を通り過ぎ、ベッドにスタスタ歩み寄った。そのまま、当然のように腰を下して足を組む。先ほどまでのアレンと同じようにターンテーブルを眺め、少しもったいない位置で曲を聞いているようだった。
ひょっとして音漏れに誘われて来たのか。にんまり口角を引き上げ、機嫌よくスピーカーの向きを変えてやる。すると、夏準はまた呆れたような表情を浮かべたが、そこにも笑みが滲んでいる。ふふ、言葉もないのに面白くなって笑みが漏れた。ベッドにパタパタ歩み寄り、隣に腰を下ろした。手を自分の腿に付いて見上げる。
「どうしたんだよ」
「音漏れがうるさくて」
う、と思わず眉根が寄った。せっかくHIPHOP談義に持ち込もうと思っていたのに、まさかクレーム付けに来ただけだったのか。逆に説教を聞かされるハメになるのだろうか……狼狽えるアレンを夏準は鼻で笑う。
「さぞかし上機嫌なんでしょうね、と思っただけです」
邪魔する気はなかったんですけど。激しいビートの下敷きにされる低い囁きには、ほんの少しの後悔が滲んでいる気がする。珍しくそんな弱い苦笑を見ると、情けない反射を見せてしまったことが逆に申し訳ない。
「それだけか?」
再生を止めろとか、音を小さくしろとか。そんな卑しい雑音を聴くなとか、正しい音楽に戻れとか。当然、夏準はそんなことを言わない。アレンがいいと思うものに、初めて頷いてくれた奴だから。少し体を屈めた体勢のアレンに、夏準は体を傾けて目を合わせた。
「要ります? 理由が、それ以外に」
社会への怒りや、自分の過去への憎しみ。レコードから飛び出す鋭いリリックの裏に甘い囁き声が沈み込んでアレンの足元に落ちてくる。
「理由なんて無いですよ」
夏準にとってはきっと、なんでもない言葉だろう。ちょっと気になる曲が耳について、部屋を覗いた。そこに理由なんてあるわけない、と言われたらそりゃそうだと頷くしかない。
けれど、つい数分前に考えていたことがまずかった。好きな曲で部屋が満たされているのが悪かった。どれだけ世界に対して冷ややかでも、アレンの本当に大切にしているものには興味を持って覗き込んでくれるカラーグラス越しの瞳が良くない。
なんでもない言葉をそうでない風に聞いてしまって顔を上げられなくなったアレンを、夏準の怪訝そうな声が呼ぶ。もう少しだけ。せめてお気に入りのレコードが回りきるまで。その後はちゃんと立て直して、絶対にHIPHOP談義に引きずり込もう。