※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=24650259
※椿さんとか色々捏造しています。
意識が光の中に放り出されたような感覚ですっと瞼が開く。カーテンが漏らす光が充満する部屋で今日もまた目が覚めた。灰色の天井をぼんやり見つめながら、眠りから呼吸をゆっくり巻き取って、吸う。無意識に首が横に倒れた。広いベッドには空白が横たわっている。その毎日の確認にもはや何の感動も抱かずに吸った息をそっと吐く。
肘をつき、ベッドサイドから眼鏡を引っ張り出して起き上がった。鯨が水面に上がるような、のったりした動きに合わせ、スプリングがキシキシ深海に響く声のように鳴く。毎朝、まず目に入るのは簡素なウッドデスクだ。一人暮らしを始めたばかりの頃に譲ってもらった古びた安物は、いつの間にか自分の物ではなくなっていた。今もなお自分の物ではない。書きかけのメモと、研究用の本と、数本のペンや鉛筆。書き込みだらけの五線譜。
ふー、浅く息を吐いてベッドから降りた。スリッパの渇いた音をやたらに響かせながらそっと寝室を出る。リビングには一人の生活の少し埃っぽい匂いが漂う。あらゆるところに古書や書類が積まれているせいかもしれない。片づけを忘れていた寝しなのブランデーのグラスに手をかけて、視界の隅に黒い電子ピアノを収める。やや西向きの窓から入る弱い朝陽に縁取られる黒い輪郭に、艶やかな髪の先を思い起こすけれど、やはりそこには埃っぽい匂いしかないのだった。
キッチンでグラスを洗い、新しく汲んだ水をキッチンの隅に置かれた小さな鉢に流し込む。茶色く枯れたアイビーがもう蘇るはずもないのに。研究に没頭している間に枯らせたという小さな罪悪感がいつまでも針のように胸に残っている。夜更かしがちな二人に何度も水やりを忘れられて、それでもなんとか逞しく蔦を這わせていたのに。
おはよう、直明さん。
弱い朝陽にいつもの凛とした所作が暈けて、眠そうにリビングをたゆたう姿が好きだった。インクで汚れた頬や鼻先を笑えば、子どもみたいに拗ねる姿がおかしくてたまらなかった。
「おはよう、椿」
空気を震わせているとしか思えない、いつまで経っても不思議に鮮明な声に苦笑で挨拶を返して、西門直明の朝はまた始まった。
毎朝のことなのに、一歩靴を踏み出した時の奇妙な感覚には未だに慣れない。部屋の中の静寂と、部屋の外に溢れる音とが、自分の中で世界を決定的にズレさせる気がする。異世界の中に飛び込んでしまったのではと驚いて、そんな自分がおかしくなってまた苦笑する。そうして、外の一日にゆっくりとピントが合っていく。
ここのところ続いた雨が途切れ、薄雲の向こうに青が透ける良い天気だ。雨でひやりと湿った風も、昼過ぎにはカラリと渇いて夏を思わせるような陽気になった。講義を終え、袖をまくりながら研究室に戻り、腰を椅子に落ち着ける前に窓をサッシの上でカラカラ歩かせる。爽やかな風と共に、昼休みを満喫する学生たちの声が流れてきて目を細めた。世界は平和な音で満ちている。
積み重ねた資料を風で飛ばさないように、いつかの学会の記念品であるオブジェを文鎮にしつつ、オフィスチェアに腰かけた。ノートパソコンを開くと、締め切りを今日の昼休み終了までと定めたレポートが雪崩れ込んできて笑みで吐息が揺れる。研究の時間が割かれることを嫌がる教授も居るが、自分にとって学生のレポートはこの仕事のやりがいの一つだ。素直にたどたどしくまとめられたレポートは、似たような内容でもどこか日記のような趣を感じられて面白い。
コンコン、コン……消え入りそうなノックの音に顔を上げた。あーあ、もう……呆れたような声には聞き覚えがある。「どうぞ」、笑みを深くして入室を許可した。
「し、失礼します……」
ドアを細く開け覗き込んできた顔にはまるで意気消沈という文字が貼りつけてあるようだった。ステージ上で魅せる威勢はどこへやら、セットされた前髪までもがしなびて見える。まずは自分の腕時計を確認し、それからドアの上に掛けている時計を見上げる。いつの間にか1時を回っていた。
「やあ、朱雀野く」
「すみません! レポート遅くなりました!!」
ガバ、と風を切ってアレンの頭が下がったおかげで、その後ろで気まずそうなアンと会釈を交わすことができた。とりあえず入っておいで、と廊下から研究室に招き入れる。背を丸めて委縮しきったアレンと、まるで自分のことのように申し訳なさそうな顔のアンがそろそろとデスクに近づいてくる。その様子があまりにも哀れを誘うので、自分の腕を少し上げ、そこにある時計の盤面を見せてやった。時計の針が10時半過ぎで止まっている。うっかりいつもの習慣を忘れて巻かずにいたようだ。
「止まった針が君を逃がすなら、私も目を逸らすかな。朱雀野くん」
「先生……! それ、最っ高のリリックです……!!」
「じゃ、ないでしょ。センセが最高にcoolなのはそうだけど」
両手で握り締めているせいで皺が寄り始めている紙の束を救うために手を差し出した。今となっては珍しい紙での提出だけでも面白いのに、アレンのレポートにはユニークという言葉では収まらない突飛な見解や解釈があり、時には手書きの書き込みまであって他の学生とは一線を画している。正直なところ、提出が楽しみな学生のうちの一人なのだ。それを履修として評価するかどうかはともかく。
「ありがとうございます!!」
「まあ、多少は減点させてもらうよ。フォークナーくんみたいに期日を守った子たちと公平じゃないからね」
「はい!」
「減点されて何喜んでんの? もー……僕も夏準も散々言ってたのに……この調子じゃ留年して同じ学年になっちゃうんじゃない?」
「そう言えば燕くんは一緒じゃないのかい?」
名前が出て、二人をいつも愉快そうに見守っている澄まし顔が無いことに気がついた。別の講義か何かだろうと予測した軽い問いだったが、何故か正面の二人に気まずさが戻ってきている。首を傾げた。
「どうしたんだい?」
「いえぇ、あのぅ……」
「その、先生は多分許してくれるだろうから、結果が分かっているので面白くないって……」
「アレン!」
思いもしない返しに虚を突かれ目を丸める。しかし、バトルを通じて交流を重ねた今では本人の声さえ鮮明に思い描けるようだ。声を上げて笑ってしまった。
「これは、相変わらず手厳しい。確かに、締め切りを守ってもらうことも教育だ。イベントのエントリーだって時期を逃せばそれだけで失格だろう?」
「それは大丈夫です! 絶対に!」
「君はそうだろうね」
取り繕うという言葉を知らない素直なアレンと、せっかく逃れた難をわざわざ取り戻しにいこうとする言葉に頭を抱えているアンの対比が面白い。喉を鳴らして笑いながら、「それで」と言葉を繋げた。二人の目がきょとんと丸まる。
「どうして遅れてしまったのかな。一応、聞いておこう」
隣り合った目が打ち合わせでもしていたかのように同じタイミングで瞬きをする。かと思えば視線を交わし合い、こちらには分からない牽制が行われているようだ。そして、賑やかさが堰を切って溢れ出す。
「いつも通り、曲のアイディアがーとか言って、レポートどころか寝るのも食べるのもぜーんぶ忘れてたもんねえ」
「いや、はは……でも、テーマが! すごく面白くて! 俺、他の講義は正直あんまりなんですけど……先生の講義にはこう、色々刺激されて! レポート書いてる時も段々リリックとか曲に繋がっていく感じというか……俺も、整理されてる感じっていうか」
「書きかけのレポート、途中からリリックになってんの、あれさあ……!」
「あれは勝手に読んだからだろ! あとでちゃんとしようと思ってたんだよ!」
「ほんとにぃ? 言わなきゃそのまんまだったんじゃないの」
アンに笑われて拗ねたように反論するアレンの瞳は、それでも窓からの日差しを受けてきらきらと輝いている。自分の体くらいではとうてい収まり切れない情熱を、理想を、夢を、どうにかこうにか表現しようともがく姿が、記憶と重なる。
面白い論文を読んだと言ってから、数日丸々上の空だなんてこともよくあった。ピアノと机との往復だけになるその姿に、呆れと寂しさ、そして何より愛しさを感じていた。彼女は姿かたちだけではない。その生活すべてが彼女だった。肩にかけてやったブランケットを胸元に引き寄せながら、コーヒーを気まずそうに小さくなって飲む姿を思い返す。「椿」、名前を呼んで上目遣いの瞳に微笑みを返せば、花が綻ぶように笑う。
あのね、直明さん。
内緒の話でもするような囁き声と、少女みたいな無邪気な瞳。納得いくまで自分の研究を突き詰める凛とした厳しい横顔とは全く違うのに、どれも雪の中に灯る花のように鮮やかだ。
音ってね、心に染み込むっていうより、心に『芽を出す』んだと思うの。
椿の言葉は感覚的だ。それが難解で、パズルのように謎解きを楽しむ時もあれば、渇いた土が雨を吸うように体にすっと染み入る時もあった。そして彼女の言うように芽を出して色とりどりの花を付ける。幸せそうに、寝不足の目がきゅっと細くなった。
あなたに名前を呼ばれて、それに気づくのよ。
「センセ?」
雪の中で艶やかに光る花ではなく、春に咲き乱れる花を思わせる華やかな顔が眼前にあって驚いてしまった。すぐに意識が逸れていたことに気づく。心配そうな瞳が四つ、情けない自分に苦笑する。
「いや、仲がいいのはいいことだと思ってね。和んでしまっていたよ」
「すみません、騒がしくしちゃって……もう行きますね」
「本当に、すみませんでした! 次はちゃんと間に合わせます!」
「そうしてくれると、私も君の頑張りをきちんと評価できるから嬉しいかな」
礼儀正しく頭を下げる二人に手を振って見送った。ドアがパタリと閉じると部屋の中には静寂が残る。無理をするなと一言言ってやるべきだったのかもしれない。最後には取り返しのつかない終わりが待っているかもしれないことを知る大人として。
だが、肩を並べて歩いた時、隣に並んで座った時、抱きしめた時、横になって見つめ合った時、どの瞬間を思い返しても、何かが変わったとは思えないでいる。凛と芯の通った人だった。その輝きを愛していた。無理に引き留めてその輝きを殺すことを選ぶ自分を想像できない。
けれど、本当にそんなふうにしか生きられなかったのだろうか? 結果からただ言い訳を連ねているだけなのではないだろうか。本当はもっと良い方法が。諦めずに足掻けば、BAEやcozmezのように。
ざわ、と喧騒が風に乗ってハッとした。講義が終わったらしい。次のコマはゼミでの演習だ。使用する資料を手に取り、閉じたノートパソコンの上に重ねる。窓をガラリと急いでスライドさせて閉じた。異世界のように感じるのなんて当然だ。それまでは全てに彼女が在った。生活に、思考に、一音や息遣いにさえ。酸素がない世界で生きている自分に不思議を感じないほうが難しい。
夕暮れの光が街の輪郭を黄金で滲ませている。不思議と、故郷とも住まいとも違うこの街の駅に足を下ろした時、一番心が落ち着く。それでいて同時に、胸をかきむしりたくなるような懐かしさがどっと押し寄せるのだ。一歩、一歩、アスファルトを踏みながらその気持ちを軽くしていく。それができるのは、きっと、足の向かう先に「家」があることを知っているからだ。四季はもう帰っただろうか。リュウが寂しがったり退屈がったりしていないといいが。匋平はトラックを練りたいと言っていたな。そのまま泊ったんだろうか。ふ、自然と緩む頬をそのままに重い扉に手をかけた。キイ、と鳴る蝶番もリリン、と踊る鈴も軽やかだ。
「……うえ」
ところが、店の中で待ち受ける男の顔は軽やかとは言い難かった。誰かとどこか少しだけ似た印象の艶のある整った顔が思いきり顰められている。本人に言うと益々その顔が歪みそうなのでいつも言わないでいるのだが、一目見た時からこの男には人目を引く華があると思っていた。もっとにこやかにしていればともったいない気もするが、嘘のない率直な表情もこの男の魅力だ。
「何かやってしまったかな。入るなりその反応は、少し傷つくね」
「よく言うぜ。俺の言うことなんざなんとも思ってねぇくせに」
「そんなこと」
「はいはい。とりあえず座れ」
「だが、着替えを……」
「座れ」
くわえていた煙草を灰皿に押し付けた匋平は、口角を不本意そうに引き下げたままケトルに水を入れて火にかけた。水洗いしたネルをハンドルにセットする。どうやらコーヒーを淹れてくれるつもりらしい。
「そんなこと」無い、ということはよく分かっているはずだ。それだけの間、信頼のおける相棒として肩を並べ背を預けてきた。だが、少し体調を崩しがちになったことで軽く揉めてから、どうも匋平の虫の居所は簡単に悪くなってしまう。参ったね、苦笑しつつ大人しくカウンターチェアに腰かけた。これがこの情深い男の愛情だと知っていると、申し訳ないが反省する気持ちが薄れてしまうのだ。
「調子がいいよ、最近は」
「そーかよ」
匋平こそこちらの言葉を真に受ける気は更々無いらしく、返事は適当だ。こだわりのブレンドの香りが店内に広がって漂う。プルースト効果、というのだったか。匂いは埋もれていた記憶を呼び起こすと言うが、この香りに紐づく記憶はあまりにも多い。静寂という額の中に、様々な色をしたピースが気まぐれに置かれていく。完成してしまったらきっと感情に吞まれるだろうから、敢えて心の中で手を止める。
「……調子のいい奴の顔かよ」
セピア色の沈黙の果て、吐き捨てるような呟きに目を伏せた。信念をここぞという時のために貫けるように、普段は無理しないよう努めている。体調にもそれなりに気を付けているつもりだ。だが、最近どうにも昔のことを思い返す瞬間が増えている気がする。これがメタルから来ているのか、衰えから来ているのか、時期的なものなのか、よく分からない。日常に多くの隙間を見つけては、気づけば足を止めているのだ。
リリン、少し重みを増した沈黙を、涼やかなドアベルの音が簡単に散らした。前傾姿勢で転がり込んでくるリュウと、それに驚いた様子の四季がスーパーの袋をガサガサ揺らしながら続く。
「たっだいまー! 時空のヨコっ腹から転がりこんできました〜! おっ、ぼすはっけーん! ここで一句ぅ、空、逆向いてた。雲が下にいて、リュウくんは上を歩いてた。つまりもうこれは着地成功の音ってことでイイ? イイ!?」
「はは、リュウは元気いっぱいだ。おかえり。四季も、買い物ありがとう」
「あっ、はい! 戻りました、オーナー。マスター、遅くなってすみません」
「こんなもんだろ。リュウを引っ張ってくるの込みだからな。ご苦労さん」
駆け寄ってきたリュウの服が土で汚れていることに気づき、軽く手で払ってやる。言動から察するにどこかで転んだのかもしれない。幸い怪我は無さそうだ。後でそれ自分で掃除しろよリュウ、と言葉はそっけないが、声の近さから身を乗り出して同じように怪我を確認していることを察する。
「北斎くんと一緒に遊んでたみたいで……」
「猫じゃらしが宇宙船で、ダンボールがワームホールで、にゃんこたちは神話の精霊たち……ふーちゃんこそ、猫惑星から来た使者で間違いないのです……あ、そーだ!」
訳知り顔でうんうん頷いていたリュウは、突然ぱっと顔を輝かせ、冷蔵庫へ向かう四季の隣に駆け込んだ。ビクリと身を縮ませるその姿を全く気にせず、マイペースに袋に手を突っ込み、何かを握ってこちらへ戻ってくる。
「はい、ぼす!」
その手に握られているのは花だ。大輪でも、咲き連なるわけでもない、慎ましやかで愛らしい小花が4つ。少し紫がかったペールブルーが瑞々しい。スミレではないだろうか。
「しっきーがねえ、ぼすのwifiが圏外で、バッテリーがしおしおって言うからチャージャーをゲットしたのだ……ぬふふ、これでぼすも最強合金DXぼす……」
「なに言ってんだよ」
「可愛い花だ。ありがとうリュウ」
満足そうなリュウに微笑み、視線をカウンターの隅で小さくなっている四季へと送る。四季、できるだけ優しく名前を呼んだが、スーパーの袋を匋平に強奪され、身の置き所が無いのか益々背を丸めてしまった。
「すみ……ません」
「どうして謝るんだい?」
両手を胸元で握り締めている四季は、ひとつ息を吸う。それからおずおずと顔を上げ、こちらに一歩身を乗り出した。長い前髪の下、深い藍色の瞳が夕陽に照らされて柔らかく光る。
「オーナー、元気がないような気がして……でも、それは、僕の気のせいかもしれないから。だけど、気のせいじゃないなら……嫌、でした」
心配をかけた申し訳なさや情けなさより前に驚きが来た。四季が「嫌」という彼にしては強い言葉を敢えて使ったのが分かったからだ。もう一歩、四季が前に出る。
「その花、リュウくんが北斎くんの家で一緒に見つけたそうです。TCWカラーだね、って」
「桃太郎ハウスはどーんとラージサイズ~!」
手元の花にまた目を戻した。二人の想いを知って、もっと丁寧に観察したい気持ちになったのだ。蝶のように花弁が広がり、そのカーブに添って青が滲む。ああ、このままずっとここに留めていたい、そんなことを思った矢先に横からにゅっと手が伸びて花たちを攫って行ってしまった。
「貸せよ、枯れちまうだろ」
つっけんどんに言って、匋平がカウンターの向こうからグラスをひとつ取り出した。水に茎を立たせ、そのままピアノの上に置いた。椿の花の隣にスミレが並ぶ。四季は掃除、リュウもさっさと着替えて手伝え、頼もしいマスターの号令で時計の針が再び動き始める。けれど、自分だけその流れからまだ取り残されていた。無意識に抗っているのかもしれない。今この手の中にある、何か尊く壊れやすいものを押し流してしまいたくなくて。カウンターに背を預け、ピアノの上の花々をぼうっと眺めている。
「少し、似てるよな」
カウンターの向こうから聞こえる穏やかな声につられ、首を回した。匋平もピアノを眺めているようだった。この情深い男が最も愛情と憧憬を注ぐ相手。二人に余計な言葉は必要なく、何が言いたいか通じ合っている。
「だが、椿は……」
椿の花を飾り始めたのは自分だが、それを習慣にしたのは匋平だ。これ以上に似合う名は無いと思うくらい、芯の強さと鮮やかな印象を象徴する花なのだ。匋平は顔を少し傾けて、皮肉っぽく笑った。穏やかな目と目が合う。
「まあ、そうだけど……こういう花も似合う人だったよ」
しかし、あまりにもじっと見つめるので居心地が悪くなったのか、すぐに目が逸れて行ってしまった。コーヒー器具の掃除に取り掛かっている。
「たまに、違うとこであの人見つけるのも悪くねぇだろ」
その言葉で、コーヒーの香りのようにふわりと舞い上がる記憶があった。喪失の虚しさや後悔だけでない、穏やかな言葉と笑み。
「匋平は……」
「なんだよ」
自分なんかよりもよっぽど、彼女の美しさや在り方を理解しているのではと思う時がある。でもきっと、そんなことを口にすれば彼の矜持や愛に砂をかけることになる。ただ、ここに帰ってくる理由にこの男が居る。リュウや四季が居る。それを自分ひとりの胸中で分かっていればいいだけだ。
「いや。君の感性が好きだなと思ってね」
「あぁ?」
からかわれたとでも思ったのか、せっかくの整った顔がひどく歪むので笑ってしまった。露骨な照れ隠しだ。
それまでは全てに彼女が在った。そして今も彼女は居る。生活に、思考に、一音や息遣いにさえ。道端でふと美しい花に目を引かれたり、良い匂いに鼻をくすぐられるのと同じだ。そうやって彼女をまた新しく見つけることは悪いことではない。四人並んで歩く道の中にある人生の楽しみ──小さな幸せだ。