昔は大抵のことが外にあった。この感覚をどう説明するのが一番いいのか分からないが、何もかもが譜面の上に整頓されていて、記譜されていない音はすべてノイズとして扱われた。G線からスケールを奏で、狂いなく音を正しい場所に置く。日々はステージの上で誰よりも正しい音を評価されるためのウォーミングアップとして過ぎていった。
物心つく前から音楽に関わるあらゆる人びとと交流してきて、そこで何をやったかは鮮明に思い出せるのに、何を思ったかはまるで思い出せない。自分のことのはずなのに人の記憶を覗いているみたいだ。心を揺さぶるような音や言葉もきっとあったはずなのに、両親の手が隅まで丁寧に塗り潰し、大抵のことはアレンの外へ押し出されていった。「好き」とか「触れてほしい」とか、そういうことを言われたことも、一応はある。けれど、眼前に突き出されたそれを自分のこととは到底思えなかった。弦を押さえる指の感覚が変わったら困るな、くらいは考えたような気がする。心をさらけ出して近づいてくれた人を傷つけるようなことを言わなかっただろうか。今振り返ると恐ろしい。
「アレン……」
「わっ」
耳元に流れ込んできた熱い吐息に飛び上がったせいで思考が転げ落ちていった。抱き留めた肩に預けていた頬が離れ、ベッドサイドの橙色のライトの影になっている瞳に覗き込まれる。口元も目元にも笑みがあるのに、何故だか責められていると直感で分かる表情。
「考えてませんでしたね?」
首が傾げられた。触れると柔らかいと知っている髪が流れて少し動く。呆れで冷え切ったいつもの声と変わらないはずなのに、甘くて湿った熱が滲んでいて咄嗟に言葉を返せない。様々な意味で常識外れな男なので考えていることまで読まれたのだろうか。退屈でくだらない思い込みに閉じ籠っていた過去の自分を嘲笑われているみたいな気分がする。
「ボクのこと」
けれど、続く言葉はもっとシンプルで、はるかに「らしい」言葉だった。そりゃそうだ。いくら夏準でもアレンの思考や記憶を克明に読めたりしないし、今は遥か後ろに転がっている残骸のひとつひとつになんかきっと興味も持っていない。薄暗がりで赤みを濃くしている瞳の中には、笑みとか、それに近い何かをこらえようとして失敗した妙な顔のアレンしか映っていない。不細工な自分の顔から逃れるようにもう一度体を抱き寄せて肩に額をつけた。
「笑いごとじゃありません」
「……ごめん」
「退屈なんですか?」
「…………そんなわけないだろ」
ぐち、と湿った音がする。わざと聞かせているのだろう。未だにこの準備の時間をどうやり過ごせばいいか分からないアレンのことを分かっていてからかっている。いつも言葉もキスも次第に差し挟むタイミングが分からなくなって、細い吐息に耳を刺激されるだけの時間になっていく。何も触れられていないし触れていないのに、羽の先でくすぐられるみたいに煽られるのだ。「それはよかった」、ほぼ吐息の囁きに思い切り顔をしかめた。はあ、こぼした息が苦笑に変わって落ちていく。
「夏準はさ」
「응?」
いつもよりずっと柔らかい、機嫌の良さそうな相槌。これを聞きたくて、つい自分から動くのをためらって夏準の気が済むまでお行儀良く待ってしまう。脇腹に置いていた手を背中に這わせ、肩に擦り寄って鼻の先を首筋に近づける。熱で湿っていていつもより香水の匂いが強い。
「一番近くに居るよな」
「そうなんですか?」
「そうだろ」
スクールで出会った当初は、他の誰とも変わらない「外」に居たはずなのに。たった一晩でアレンの心臓の真ん前にぴったりついてそのまま離れなくなってしまった。おかげで少し身じろぎされるだけでもくすぐったい。どんな小さな息遣いでも拾ってしまうところにいつも居る。
「だから……それはそれで、心配になるっていうか」
HIPHOPにこじ開けられた隙間から、今、アレンからは絶えずに溢れ出るものがある。外だとか内だとかそういった境界はぶっ壊されて、全てが音になってアレンを中心にして漂う。拾い上げたものがリリックやトラックになって思うがまま飛び立たせていくのが楽しくて仕方ない。
「なんですか、それ」
ふ、と馬鹿にするような吐息が首にかかり、また弱い刺激になってくすぐったい。笑ってる場合じゃないのにな、と思う。止まらない音を、熱を、思いを、全部一番最初に浴びているのは夏準だ。ただでさえ近いのに、時々、まだ足りないと思う。境界が分からなくなるくらいの近さで、穏やかな声も出せないくらい待たずに何もかもぶつけてしまいたいと思う時があって、夏準を塗り潰すんじゃないかと心配になる。触れた指の感触も、触れるほど変わる声も、全部アレンのほしいものだ。運指や弓がめちゃくちゃに乱れても構わない。
「やっぱり……ボクのことを考えていませんね」
「そんなわけな」
顔がまた肩から離れた。かと思えばすぐに唇が重なって、緩く唇を挟むように弄ばれる。近すぎると表情が見えないので、やっぱり我慢は大事だなと思ったりする。
「もういいですよ、面倒くさいです」
投げやりなお許しだが、やっぱり声は耳に甘くてクセになる音をしている。