※Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=13006935
※2020-02-16に出した本「あなたはいつも終わりにいて、」の前日譚です
カランと店のドアにかけている古い鈴が鳴ったので、小学校へ行く前の手伝いで焼き立てのハムエッグサンドを店に出していた炭治郎はトレーから顔を上げた。長い髪をひとまとめに括った男性がぬっと店内に入ってくる。
いつもの人だ。
すぐにそれが春先からの常連だと分かったのは、その男性にいくつか目立った特徴があるからだった。まずその長い髪だ。どうやら癖毛で、更には外見にこだわるタイプではないのか、あちこちに無造作にはねている髪を無理にひとつに括っている印象があった。外見にこだわりがなさそうなのは毎日変わらず着用しているジャージにも表れている。それから匂い。来店するのは早朝なのに、いつもどこか疲れた匂いを漂わせている。それで、大丈夫かなあと思わず目を引かれて気づいたのが、その男性の顔だ。黒目がちの瞳にきりりと形の良い眉、つんと通った鼻筋のすぐ下にある小さい口元。テレビドラマや映画に出てきそうなくらいの凛々しさだった。けれどその顔にはどこか疲れが見えるような気がして、炭治郎は見かける度に「もったいないなあ」と思っていた。この春から見かけるようになった客なのだが、この人にはこういう顔は似合わないと何故か思う。ずっとそれが頭に引っかかる。
「いつもありがとうございます」
なので、トングをトレーに乗せてとうとう炭治郎は男性に声をかけた。この男性のもうひとつの最大の特徴、いつも買っていく4枚切りのレーズン入り食パンの袋を空いた手で持ち上げる。まさにこちらに向かおうとしていた男性は炭治郎を見下ろして、ぱちりとひとつ瞬きをした。そこで気づいたが、まつ毛がすごく分厚い。目の周りにくっきり線が引いてあるように見えるのはこのせいらしい。
「いつも食パン買ってくれますから!」
男性がじっと炭治郎を見下ろしている。表情は変わらないが、疲れた匂いに少しの驚きと困惑が混じっていた。見つめ合って初めて気が付いたが、男性の瞳はただの黒ではなかった。何故だか懐かしい色だなと思って、炭治郎は心の中で首を捻った。
「……ああ」
納得してくれたのかどうか今ひとつよく分からない匂いと声だ。ここ一か月で初めて聞いた男性の声は顔立ちによく似合った落ち着いた声だった。格好良い人は声まで格好良いんだなあと感心しつつ、レジまで大股で進むと男性も大人しく後に続く。
「朝ごはん用ですか?」
店のロゴが入った紙袋に食パンを詰め込む。毎朝食パンを買っていく人というのは少し珍しい。朝食用に昼下がりから夜にかけて買っていく人が多いので、ずっと聞いてみたかったことだった。一度家に帰って食べるのかな、そんなわけないか。夜に忙しいから朝買うのかな。本当はすぐに食べるのが一番美味しいんだけどなあ、などとお節介とは分かっているがついつい考えてしまうのだ。
「いや、昼に」
カルトンに代金を置いた男性を見上げて、炭治郎は首を傾げた。それを代金の間違いだと思ったらしい男性の目が炭治郎の顔とカルトンとを往復する。慌てて丁度ですね、と声を上げる。仕込みに忙しく客もそんなに多くない朝早い時間は母に代わって炭治郎もレジを触っていいことになっているので、慎重に金額を打ち込んだ。
「毎日ですか?」
「ああ。これが一番量が多い」
思わずぽかんと面食らってしまった。確かに量は多いだろう。これに匹敵するパンと言えばフランスパンくらいだ。だがだからと言って毎日食べていたらさすがに飽きないだろうか。腹が膨れたら何でもいいと言われているようで、悲しいような、心配なような、なんとも言えない気持ちになった。それが顔に出ていただろうか。男性も少し首を傾げ、それから何かに気づいたように小さく口を開いた。
「それに、他で買うより美味い」
男性は何でもないことのようにそう呟いて袋を持ち上げた。すたすたと歩き去ってあっと言う間にカランとドアの鈴を鳴らして出ていく。歩くのが速い。
「ありがとう、ございます」
おかげで、呆然から脱してやっと言えたお礼の言葉が全くその背に追いつかなかった。
「おはようございます!」
カラン、と古い鈴が鳴り、いつもの疲れた匂いが鼻先を掠めたので炭治郎は食パンを袋詰めする手を止めた。4枚切のレーズン入り食パンの内2枚を袋詰めしたものを手にカウンターから飛び出して、男性に駆け寄る。男性はまた分厚いまつ毛をぱたりと一往復させて炭治郎を見た。もしかしたら寝起きのせいもあるのかな、と気づく。禰豆子も朝はどこかぼんやりしている。
「これ、おすすめです!」
何も答えない男性に構わず、笑顔で指差したのは「焼き立て」のポップを付けたチーズブールだ。母に何か腹持ちするパンを出してあげたいと相談して焼いてもらったものだった。成型は炭治郎が手伝った。
「量も多いし、チーズは腹持ちしますから!」
もちろん片手に持った袋を掲げるのも忘れない。チーズブール一つだけでは足りないかもしれないと思ってこちらも母に頼んで事前に準備していたものだ。戸惑ったような匂いをわずかにさせながら黙り込んでいる男性を満面の笑みで見上げていると、ふいと目が逸らされた。
「じゃあ、それで」
「ありがとうございます!」
一瞬要らないと言われてしまうかと心配したが、無事買っていってもらえるようで声が跳ねる。男性に代わってトレーにチーズブールを取ってレジに持って行くと、少し眉を下げた母がレジで待っていた。すみません、ご迷惑でしたか、袋詰めしながらのその言葉にどきりとする。どうしても食パン以外のパンも美味しいことを知ってほしい一心だったから、これがこの男性への迷惑になるということに全く思い至っていなかった。おろおろと男性を見上げると、男性も炭治郎を見下ろしていた。
「いえ、助かりました」
答えて、おつりを受け取った男性はまたすたすた鈴を鳴らして去っていく。そして炭治郎はその背をまたぽかんと見送るだけになってしまうのだった。
「おはようございます、冨岡さん!」
季節は春から秋になっていた。夏の暑さもあるせいか、男性──「冨岡さん」がいよいよ深めていた疲れた匂いはほんの少し弱くなっている。それに少しだけほっとした。相変わらずあいさつは返ってこないけど、その代わり深く頷いてくれるようにもなった。
名前を知ったのはひょんなことからだ。商店街の呼びかけで炭治郎の店も配ることになったスタンプカードを作るように勧めた時、カードの名前の欄に達筆で「冨岡義勇」と綴られた。別にその場で書き込まなくても良かったし空欄でもいいくらいなのだが、これ幸いと思うことにしてそれからは名前で呼びかけるようにしている。
「今日は、これとこれ、これがおすすめです!俺が焼きました!」
意気揚々とトレーを取って、トングで焼き立てのポップを付けているパンを指していく。来年は中学校に上がるからと色々と厨房の仕事も手伝わせてもらえるようになっていた。そしてついに昨日、レーズンパンを店に出すために焼いた。練習は何度もやってきたが、店に出すものの焼き上げを手伝ったのはこれが初めてだ。炭治郎の店では未だに古い窯でパンを焼くので火加減を見るのがとても難しいのだが、レーズンパンは我ながら会心の出来だった。ずっと真剣だったし、ずっと考えていた。このパンをいつも来てくれるお客さんたちに──冨岡さんに食べてもらいたい。
勧めるまま義勇はパンを買って行って、そして今日だ。
「そうか」
ほんの一言。匂いはいつもの疲れた匂いだけ。迷惑そうな匂いがしていないことはありがたいけれど、どういう気持ちなのか今ひとつ分からない。今日も炭治郎が焼いたパンでいいのだろうか。やっぱり──当たり前だろうが、母が焼いたほうが美味しかっただろうか。トングを持ったまま動かない炭治郎を義勇は不思議そうに見下ろす。そして小さく口を開いた。
「昨日のも美味かったから、それでいい」
やっぱり義勇は何でもないことのように「そういうこと」をぼそりと呟く。炭治郎が思わずトレーとトングを放り出して飛び上がりたいくらいのことを平気で言うのだ。
「はい!ありがとうございます……っ!」
いつものようにすたすた去られてからでは遅いから慌てて大声で礼を言って、炭治郎はにこにことトレーにパンを放り込んだ。それから、ずっとこの人はそういう人だったよなあと思って、「ずっと」っていつからだっけと考えたが、義勇を見送った後に客がどっと増えたのですっかりそれを忘れ去ってしまった。
「義勇さん、おはようございます!」
「おはよう」
春と炭治郎の卒業が目前に迫った頃、義勇はとうとう炭治郎のあいさつにあいさつを返してくれるようになった。カランと鈴を鳴らすと、まっすぐにカウンターにいる炭治郎の元まで歩いて来てくれる。
「これ、今日の分です!」
「ああ」
既に紙袋に納めているパンを手渡して、代金を受け取る。最近益々忙しいのか、義勇に頼まれてそうしていた。触れ合う時間が少なくなって寂しい気もするが、中身に何を入れられるかを全く心配していない様子が嬉しくもある。ふふ、と笑うとぱちりとまた義勇が瞬いた。
「なんだ」
「良かったなあ、と思って。去年の今頃、義勇さん、毎日すごく疲れた顔をしてましたから」
最近の義勇は朝の禰豆子のようにぼんやりしていないし、疲れた匂いもほとんどしない。格好良い顔立ちによく似合う凛とした匂いをさせて、ピンと背を張って店を出ていくのだ。それを見送ることができるようになってとてもうれしいと思う。炭治郎の言葉に目を少しだけ見開いていた義勇は、それを思案するように伏せた。少し、何かを恥じるような匂いがして不思議に思う。
「……慣れないことが多かった。だが、今は少し勝手が分かってきた」
「そうでしたか」
春はいつも何か新しいことの始まる季節だから、去年の義勇にとってもそうだったのだろう。それが一年経って落ち着いてきたということだろうか。だったら心底良いと思う。「義勇さんらしさ」が戻って良かった。知り合って一年も経っていないのにそんなことを思う。
「お前にも助けてもらったな、炭治郎」
紙袋を持ち上げて小脇に抱えて、体を翻しながら義勇はあっさりそう言った。えっと思う間もなくまたすたすたと背が遠くなる。
「いつもありがとう」
カラン、鈴が鳴った。炭治郎はまた礼を言い逃している。次の客がまた鈴を鳴らすまでぽけっと突っ立ってしまっていた。明日もまた来てくれるよな。来てくれたらすぐにお礼を言おう、心にそう固く誓う。父が居ない心細さの中、炭治郎も嬉しい気持ちを毎日もらった。もっともっと、義勇のことを知れたらいいなと思う。この朝のほんの数分じゃ全然足りないな。
そうして春が訪れて、キメツ学園に入学した炭治郎はあっと驚きの声を上げることになるのだった。