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もう充分、聞こえてますよ



 言葉にすることが肝要だと、誰しもが言う。時に心配そうに、時に呆れたふうに、時に怒ったように義勇に投げかける。言葉にしなければ分からない。伝わらない。意味がない。きっと確かにそうなのだろう。だが言葉にしたところで何が理解されるのか。この指の先まで冷える怒りが伝わるのか。そこに一体何の意味があるのか。義勇にはよく分からなかった。だから言葉にする必要を感じてこなかった。

「いいですよ」

 しかしこの炭治郎という男は、けろっとした笑顔で義勇にそう答えた。先ほどまで真っ赤な顔で両手をわたわた動かしながら「義勇への想い」とやらを捲し立てていたのが嘘のようだ。その理由は本人から自己申告があり、「言えたらすっきりしたので」ということらしい。俺への想いは厠にでも流されたのか。少し複雑だ。

「義勇さんが持ってないなら、俺は」

 答える言葉を俺は持ってない、義勇は炭治郎にそう答えた。それが義勇の限り限りの誠実だ。胸の奥で静かに横たわる心から言葉が転がり出てこない。息があるのかさえ分からない。ただ黙って炭治郎を見つめるほかにできることがなかった。しかし炭治郎は他の誰かのように義勇に言葉を求めていないらしい。あっさりそれを諦めて、満面の笑みでただでさえ近い膝を詰める。

「その代わりすごく匂いを嗅ぎます!」

 膝先を触れ合わせ、炭治郎は勢い良く右手を挙手した。その瞳をじっと見下ろす。あたたかい炭火の灯る黒い目がきらきらと輝いていて、その眩しさに瞬きをした。

「すごく」
「はい、すごく!」

 すごく、とは。普通に嗅ぐのと何が違うのだろうか。思案する義勇を急かすことなく炭治郎はにこにこと両手を膝に乗せて行儀よく待ち構えている。許しを待たれているのだとやっと気が付いて、くれてやれない言葉の代わりにその程度ならと思う。両腕を軽く持ち上げた。

「どうぞ」
「どうも!!」

 待ってましたと言わんばかり、炭治郎は勢い良く義勇の胸に飛び込んできた。反射で思わず受け止めてしまったが、一体何が起きているのかよく分からない。いや、状況は分かっているのだ。義勇は炭治郎に匂いを嗅がれている。鼻先を首筋に押し付けられて、すごく。ただ炭治郎が何を考えているかを推し量るのはとてもじゃないが難しい。何か楽しいのだろうか。

「どんな匂いがする」
「俺の好きな匂いです!」

 沈黙。すう、と深く吸い込む呼吸の音。何故だかそれが居た堪れない。

「……そうか」
「はい!」

 そういうことを聞きたかったわけではなかった気がするが、では何を聞くつもりだったのかと問われればやはり返せる言葉がない。義勇は大人しく納得し、炭治郎も素直に元気な返事をした。それから「すごく」の言葉通り、犬のように鼻をすんすん鳴らして義勇の肩口や胸元に鼻を寄せる。

「ふ、く」

 思わず吐く息が揺れる。服の上に軽く触れる鼻先と、体勢によって脇腹をぎゅうと掴まれたり離れたりする手がくすぐったくて体の力が抜けた。脱力とでも言えばいいか、気を張ることが不思議に難しくなり炭治郎を胸に乗せたままどさりと後方に倒れてしまった。

「わ、」

 おかしな奴だなと思う。炭治郎は自分が原因のくせに目を白黒させてそんな義勇を見下ろしていた。

「こそばゆい」

 それを見上げているとまた閉じた口の隙間から呼気が零れ出てしまう。堪え切れずにふふふと揺れる唇を己の手の甲を当てた。

「は、え、ぎ、義勇さ、」
「お前が羨ましい」
「えっ?」

 「すごく」匂いを嗅ぐのを中断して、畳に手を付いたまま炭治郎はまだ固まっていて、素っ頓狂な声を上げる。その幼さの目立つ表情を好ましく思って指を伸ばし、その小ぶりな鼻先をきゅっと摘まんだ。

「俺もそれが欲しい」

 ぱっ、と炭治郎の頬が真っ赤に染まった。摘まんだ指の先で鼻がぴくりと動いて口元がきゅっと引き締められる。この表情豊かな男がどんな想いで言葉を臓腑から作り出したのか、どんな想いでこんな顔をするのかを、義勇も正しく知れたらどんなに面白いだろうか。

「……いいですよ」

 少しの沈黙の後、炭治郎は義勇の指をそっと遠ざけた。それから緊張したような硬い面持ちから「はああ」と大きなため息を吐いて、また大きく吸う。義勇の指はぎゅっと炭治郎の手のひらに握られたままだった。熱い。

「俺は全部全部、言いますから」

 柔らかい笑みだ。だが目に溜まる炭火が少し強くなった気もする。どうやら義勇はそれをただじっと見上げているだけでいいらしい。そんな楽な話があってもいいはずがない。

 初めて少し理解した気がした。こういう時にこの男に理解される、伝わる、意味のある言葉が出せたらきっと何かが満たされる予感がする。もどかしい。眠ったまま動かない心が寝言くらい零さないものか。

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