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歩むべきはいつも艱難の道



 つい先ほどまで暖かくて光に溢れる場所に居たはずなのに、気づけばあたりは全て一分の光も差さない暗闇に包まれていた。右も左も、天地さえ分からなくなりそうな静寂と暗闇に無性に心が寂しくなる。力なくその場にしゃがみ込むと、ひとりでに両の目から涙がぼたぼたと滑り落ちて頬を滑り膝を打った。ひくひくと喉が震え、みっともなく鼻水をずるずる啜る。

「あらあら、そんなところに独りで。ほら、おいで」

 ひょい、と抱きかかえられ、ぎゅっと両手に包まれる。その声の、温もりの、匂いの懐かしさに益々涙が止まらなくなり、ついに堪えられなくなってわあわあ声を上げて泣く。

「炭治郎」

 しかしどんなに泣いても炭治郎を抱き上げたこの人──母は優しい笑みを崩さない。どこか愉快げにも見える笑みで背をぽんぽんと叩かれた。珍しいわねえ、こんなに泣くなんてと眉を下げてくすくす笑う。

「もう泣かないの。お兄ちゃんでしょう」

 「お兄ちゃん」、その言葉にはたと気づく。なんだかものすごく恥ずかしいことをしている気がして、きょとんと目を丸めて母の顔を見つめる。母はまたくすくす笑いながら炭治郎の体を持ち上げた。ぽすりと体が大きな腕の中に納まる。

「炭治郎」

 気づけば炭治郎は地面に足を付けていて、その背を背後に立つ人──父に預けてその柔らかな笑顔を見上げていた。両肩を大きな手で力強く包まれている。

「歩けるな?」

 穏やかな声には炭治郎がどんな答えを持って帰ってきても全て受け入れてくれる優しさがある。だが同時に、答えがひとつしかないことを知っている目で厳しく包まれてもいる。そういう人だった。いつも正しい道が何かを心の奥底から沁み込ませてくれる。深く頷くと、父は目を細めてにっこりと笑った。

「行っておいで」

 背をトンと押されて前に出る。振り返ると父に並ぶ母も満面の笑みだった。

「行ってらっしゃい」

 はい、大きく返事をして片手を挙げて答えた。目元を袖口で乱暴に拭って、もう振り返らずに大股でずんずん暗闇を進む。だがふと不安になった。歩いて行かなければならないことは分かるのだが、こうも暗くては東も西もない。果たしてこの方向で合っているかどうか。暗闇をぐるりと見回しても何も分からない。

「兄ちゃん!」

 どす、と脚にぬくもりの塊がぶつかってきた。慌てて見下ろすと、六太が炭治郎の脚に両腕を回して目を輝かせていた。六太と名を呼ぶと、兄ちゃんと答えて歯を見せて笑う。抱き上げてやろうとした腕をぐいと引かれた。

「こっちだよ、こっち!」
「もーお兄ちゃんどこ行ってるの?」
「兄ちゃんっていつもそうだよなあ、しっかりしてるようでボーっとしてるって言うか」

 茂と花子だ。その後ろには呆れ顔の竹雄も居る。それぞれの名を呼んで触れようとするが、それよりも先に四人の小さな手が炭治郎の背に触れて前へと押し出した。頑張れ、行ってらっしゃい、口々に行って手を振る姿から目を離せないでいると、着物の裾をつっと引かれた。

「お兄ちゃん」

 いつの間にやら禰豆子が真横に立っている。結い上げた黒い髪、つやつや光る黒い瞳に、水仕事で少し荒れているけれど桜色をした丸い爪。

「先に行ってるね」
「禰豆子」

 その腕を掴もうと手を伸ばしたが、それより先に指がするりと離れていく。傾げられた笑みには慈しむような優しい光が灯っていて、暗闇でも明るく輝いていた。

「大丈夫、みんなちゃんと見てるから」

 禰豆子が前を向く。すると、その動きに合わせるように結い上げた髪がぱらぱらと解けて流れていった。炭の火が灯ったような赤みのある髪の先が揺れる。禰豆子、思わずその名を呼ぶと鋭い犬歯を見せた笑みが振り返る。

「こっち!」

 まるで野兎のように駆け去っていくその背を呆然と見送って、そんな場合じゃないとまた大きな一歩を踏み出す。どこに向かうべきか妹の禰豆子には見えている。長男の炭治郎がそれを一人で行かせるわけにはいかない。ずんずんと禰豆子の示した方向へと進む。匂いが追えるうちは良かったが、次第にそれが薄れてきて困った。まっすぐ進んでいるはずだから大丈夫なはずだ、大丈夫だと自分に言い聞かせて歩く。

「おい!」

 突然強い力で腕が掴まれて肩がびくりと跳ねた。思わず右手が腰の刀に触れる。

「フラフラどこ行ってんだあ?そっちじゃねえぞ」

 真横に立っているのは伊之助だ。いつもの猪頭を被って、びしりと炭治郎の鼻先に指を突き付けている。思わずほっと安堵して体から力が抜けた。びっくりしたあ、とついでに声も漏れ出た。

「何も見えないから。伊之助はよくどっちか分かるな」
「ああん?そんなことも分かんねえ奴は山で生き残れねえぞ」

 炭治郎だって山の育ちなのだが、やはり伊之助の獣のような鋭い勘にはなかなか敵わないということだろうか。匂いひとつしない暗闇を当てもなく歩いていくのは途轍もなく難しいし、途方もなく苦しい。

「しっかりやれよな、炭治郎」

 腕を組んで唸っていたが、思わず伊之助の猪頭を凝視してしまった。名前をちゃんと呼ばれることなんてほとんどない。伊之助、と名前を呼び返そうとしたが、それより先に背中を思い切り叩かれてよろけた。

「ギャーッ!!」
「うわあ!って、善逸か」

 そしてものすごい悲鳴を浴びせかけられて飛び上がった。一体何事かと思ったが、涙目でぶるぶる震えている善逸が目に入ってなるほどと思う。暗闇で突然炭治郎とぶつかったから善逸も驚いたのだろう。

「もー!こっちでもないだろ!?そっちだよそっち!」

 伊之助にぷりぷり怒りながら善逸は炭治郎の背をぐいぐいと押した。どうやら善逸にも行くべき先は分かっているらしかった。強い力で押されながら戸惑った目で善逸を見つめると、音で炭治郎の疑問を悟ったらしい善逸が不思議そうな表情で首を傾げる。

「なんだか珍しいな。炭治郎っていつもは一人でポンポン先に行けちゃうだろ?」
「そんなことないぞ」

 どうしてもその言葉を聞き流せず、口が勝手に動いていた。善逸の手を振り切ってその正面に体を翻す。

「二人が居なきゃ、俺はここまで来られなかった。上弦の鬼だって斬れなかったよ。二人のおかげだ。俺が前に進めるのはいつだって」

 炭治郎は長男だ。禰豆子にたった一人残った家族だ。だから、誰に頼れなくても一人でやり遂げる覚悟でいた。でもきっと、それだけだったらすぐに息切れを起こしていただろう。この二人が最初に一人じゃないと教えてくれたから、どんな鍛錬もどんな敵にも立ち向かえた。

「ほんとお前ってさーあ!俺が居ないとダメだよなあ!!」
「仕方ねえ子分どもだぜ!!」

 ウィヒヒと機嫌よく笑う善逸に両肩を掴まれ体の向きを戻された。どうやらそちらが前らしい。バシン、先ほどより強く伊之助に背を思いっきり叩かれる。よろけて一歩踏み出した。

「行け!走れェ!」
「待ってろよおー!俺たちもすぐ追いつくからなー!」

 分かった、叫んで駆け出す。背中が痛い。ヒリヒリ痺れているのできっと赤くなっている。だが何故だか頬が勝手に緩んでいた。よしと気合を入れて全速力を出し、そしてそれを唐突に止められた。襟首を掴まれて首が締まる。

「ぐげっ」

 蛙みたいな間抜けな声を上げて目を上げると、そこには燃え盛る炎があった。いや、燃え盛る炎をそのまま瞳に、髪に宿したみたいな人だ。

「竈門少年」

 炭治郎が大きく目を見開いたのを見て、杏寿郎は目元に笑い皺を刻んでにっこりと微笑んだ。

「相変わらず元気一杯だな!感心感心!」
「でも、そんなに全速力で迷っちゃダメですよ。炭治郎君」

 杏寿郎に襟首を掴まれたまま身動きを取れないところに、ふわりと花の香のような甘い匂いが近づく。くすくすと至近距離で笑みが傾けられて、炭治郎は思わず赤面するほかない。どうやら行く先を全力で誤っていたらしい。

「す、すみません。見えてなくて、何も」
「がむしゃらも悪くはありませんが、見極めることは忘れないでくださいね」

 しのぶの笑みはいつも優しくて柔らかい。でもその瞳はいつも抜き身の刃みたいに真剣だ。黎明の中天でほんのり滲む紫のような美しい瞳が、炭治郎を、その覚悟を至近距離でじっと覗き込む。

「進むべき道を、最後まで」

 何故か込み上がる涙に阻まれてうまく言葉が出ない。深く頷いて、はいとなんとか返事をした。その頭に大きな手がポンと乗る。瞳に炎を揺らめかせる杏寿郎のあたたかな手だった。

「誰でも、経験したことのないことの前では足が竦む。俺もそうだった」
「煉獄さんでも、ですか?」
「うむ!ガクガクだったぞ!!」
「が、ガクガクな煉獄さん……」

 想像してみようと試みたが、武者震いくらいしか思い描けない。炭治郎の中で杏寿郎はいつも勇壮で、清廉で、頼もしい遠い背だ。しのぶが私もそうでしたよとくすりと笑う。そうか、安心したぞ!杏寿郎が明るく返す。掛け合いの軽妙さに炭治郎も思わず笑ってしまった。いや、笑ったつもりだったが、ひやりと頬が冷えた。知らず、涙を零してしまっていたらしい。

「大事なことは、諦めないことだ。決して」

 杏寿郎もしのぶも、ほんの少し困ったような匂いをさせて笑っている。頭に乗せられた手が優しく撫でる動きに変わり、しのぶの袖口が炭治郎の情けない頬をそっと拭ってくれる。

「ありがとう」

 思わずぽかんと見上げた杏寿郎は心底嬉しげな笑みだった。だが、礼を言わなければならないのはいつも炭治郎の方のはずで、何故突然礼を言われたのか分からずに狼狽えてしまう。

「君はいつも俺たちを想ってくれる」

 止めなければ。情けない。しのぶの袖口がびしょ濡れになってしまう。そう思うのに、どれだけ力を込めても涙はもう止まらなかった。

「違います。俺の、俺のほうこそです、いつもありがとうございます、いつも、いつもいつも、俺の心を奮い立たせてくれて、ありがとうございます、本当に、いつも」

 竈門少年、言い募る炭治郎を杏寿郎は優しく止めた。頭を最後にポンポンと優しく二回叩いて大きな手が離れていく。しのぶもそっと袖口を引いた。

「行っておいで」
「応援してますよ。もちろん、一番」

 二人の両手が背を押したので、炭治郎は袖口で涙を拭い拭い暗闇を歩き出す。鼻が行く先の匂いを掴みつつあった。だが涙のせいでうまく鼻が利かない。ずび、と鼻を啜る。

「炭治郎」

 ひょっこりと顔を覗き込んできたのは、森の薄霞をそのまま瞳に閉じ込めたような、ビー玉のような丸い瞳だ。

「泣いてるの?」

 掴みどころがないぼんやりした匂いの中に、からかうような匂いがある。恥ずかしくなって目を伏せると呆れたように笑われる。

「だめだよ、泣いちゃあ。技の精度が下がるから」
「分かってる。だけど、情けないけど止まらないんだ」

 柱稽古であんなに誉めてくれたのに、これじゃあ台無しだ。炭治郎より年下の無一郎のほうがよっぽど大人びている。きっと炭治郎の心はまだまだ未熟なのだ。無一郎のように想像を絶する鍛錬で精神が研ぎ澄まされていない。

「ま、しょうがないか」

 けれども無一郎は、失望した風もなくあっさりそう言ってにっこりと炭治郎を覗き込んできた。

「俺たち、そういう炭治郎が好きだから」

 そうして、「ね」と隣に立つ大柄な男を見上げる。無一郎の視線を追いかけた先にあるのは、不機嫌そうに顔を逸らした玄弥の顔だ。

「まあ、そういうことにしとく」
「素直じゃないなあ、玄弥って」

 半天狗と戦う以前が嘘のように、無一郎はくすくす笑って玄弥を困らせている。一緒になって炭治郎も笑っているはずなのに、涙はちっとも止まらない。ふう、とため息を吐いた玄弥が拳を突き出してきた。額をコツンと小突かれる。

「大丈夫だよ、炭治郎なら」

 はにかんだような優しい笑み。そうそう、隣の無一郎が深く頷いた。それから炭治郎の肩に手を置いて体の向きを変える。背に玄弥の手が触れた。

「僕たちはいつも傍にいる」

 うん、返事をした。大きく息を吸って、思いっきり吐く。それを三度繰り返して大股で歩き出した。腕も大きく振る。泣いている場合じゃない。色んな人が炭治郎の背を押している。その肩に触れて、前を向けと言ってくれている。

「分かってます」

 暗闇から手が伸びて、炭治郎の左手をぐっと握った時、炭治郎は咄嗟にそう言っていた。手首の先には黒い隊服、臙脂の羽織。

「俺は、俺はもう分かってますから」

 知っている。この人が一番炭治郎の弱くて情けないところを知っていて、きっと心配をかけている。呆れられている。思えばこの人は最初に炭治郎に行く道を示してくれた人だった。なのにこうして手を引かれることは初めてだったことに気が付く。それがなんだか不思議でおかしい。

「どちらへ進むべきか、何をするべきか。もう、迷いません。俺は」

 顔立ちや気配の涼しさからは想像できなかったあたたかい手を一度ぎゅっと強く握って、そっと離そうとした。しかしそれに追い縋るようにするりと指先が触れ合って、指が絡んで手がまたぎゅっと握られた。

「炭治郎」

 水が流れるように心の一番柔らかいところを通って染み入る声。炭治郎をいつも、行くべき道に戻してくれる声が、今日はほんの少しだけ違う匂いを纏っている。

「これきりだ」

 その言葉で気づいてしまった。この人もまた、知っていた。

 この人は炭治郎のような鼻や善逸のような耳を持っているわけでもないのに、きっと炭治郎が胸の奥に秘めていた気持ちをいつからか知っていたのだろう。そしてそれを今、この時だけ受け入れてくれたのだと知る。もう泣かないと決めたはずなのに、どうしてだか炭治郎の目元はまた熱くなってしまう。流麗な技を繰り出す長い指の、節くれだった分厚い手のひらがしっかりと炭治郎の左手を掴んでいる。

「夢なのに、どうしてこんなにあたたかいんでしょうか」

 ここは夢だ。炭治郎の記憶や願望を綯い交ぜにした水鏡でしかない。戦いに一刻も早く戻るために体が鳴らしている警鐘に過ぎないはずなのだ。でも確かな質量や熱が、思いがけない言葉や気持ちが、どこまでも優しい匂いがあって炭治郎の背を力強く押す。胸が潰れそうなほど繋いだ右手の熱が愛しい。

「分かってるんだろう」

 義勇が立ち止まった。今まで嗅いだ中で一番優しい匂いがする。声も一番柔らかい。腕を引かれ、とんと背を押されて光の中に押し出された。顔を見上げることは許されなかったが、きっと笑っているなと思った。

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