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≫二一
休みなく裸木を次々に飛び移っていたが、気配に足を止めた。ごうごうと風の逆巻く音が耳を打ち、髪の先を乱暴に掻き弄っていく。空は分厚い雲に閉ざされ光ひとつない。神経を櫛で引っ掻かれているような人ならざる者の不快な気配に意識を傾けた。粒雪が鼻先や頬を容赦なく叩いていく。
「だあれ?」
声だけ聴けば幼い少女の拙い問いかけだ。しかし気配を宵闇に溶かす義勇をその声は狂いなく捉えている。義勇がまだ動かずにいれば、鈴を転がすようにころころ笑う。
「遊びに来たの?いいよ、一緒に遊ぼう。見てて」
ひどい吹雪が箒で掃き出されたかのように止まり、暗い視界が開けた。雪原の真ん中に立つ小さな影が両腕を振り下ろすと、鋭い風が走り正面の樅木が揺れる。枝が身悶えるように揺れれば積もった雪が弾かれて落ち、引っかかった黒い影が跳ねた。ぼた、ぼたぼたぼた……耳障りな音で雪と水が落ちる。
「ほら!こうするとね、雪が真っ赤になってきれい」
おいしそうな匂い、少女の姿を取る者は満面の笑みで振り返った。居場所を悟られており、生存している者も居ないなら潜んでいる理由もない。義勇が正面に降り立てば鬼は鋭い犬歯を見せて微笑んだが、すぐに不愉快そうに顔を歪めた。
「楽しくないの?」
鬼がまた片腕を上げる。吹雪が吹き上げ樅木を揺らし、ぼたぼたと雪と血が落ちた。木の上にはいくつもの黒い影が引っかかっているが呻き声どころか息遣いひとつもしない。ぼたり、殊更大きい音がして見遣れば刀を持つ人の腕だ。じわじわと墨汁のように雪に血が染み広がる。つい数刻前まで勇ましく剣を振るっていたのかもしれない。もう少し早く辿り着いてさえいれば加勢できたか。
「みんなそういう目で私を見る」
はあ、苛立たしげに溜息を吐いた鬼は、しかしすぐに見た目にそぐわない大人びた微笑みを浮かべた。慈しみさえ感じる目の色が不快で思わず眉根が寄る。
「かわいそう。きっと毎日楽しいことがないんだ」
意識から戯言を締め出し刀を抜いた。鬼が繰り出した吹雪の刃を打ち潮で払い落す。ざわり、殺気が鬼から昇り立ち雪と共に顔面を打ち据えた。二撃、三撃、四撃、頭上から足元から背後から縦横無尽に冷たい風が襲い掛かり、流流舞いで受け流す。
「どうして避けるの」
冷え切った低い声と共に足元の雪が大きく波打った。雪崩の如く四方から雪の塊が圧しかかってくる。構えを取ったが義勇は動かなかった。そのまま白い雪にされるがまま押し潰されていく。ひゅうう、呼吸だけが閉ざされていく空間の隙間を鋭く縫う。
「あーあ、真っ赤に染まるのがきれいなのに、白いままなんてつま」
水の呼吸、壱ノ型──水面斬り。
無防備に近寄る鬼の気配に集中を合わせ、短く息を吐き真っ直ぐに腕を突き出す。雪から飛び出してきた義勇を読み切れなかった鬼の頸がぼとりと雪の上に落ち、真っ赤な血が広がった。
「……ら……ない」
刀を納めれば頭や鼻先、肩からぼとぼとと雪が落ちる。残ったものを腕で雑に振り落とした。吹雪も鬼の術の内だったのか、忙しなく駆けていたつむじ風が足を緩めていく。血の色が分かる程度には辺りが明るい。夜明けが近い。
まつ毛に残る雪を煩わしく払っていると、ふと気配を感じて刀の柄に手を置いた。腰を据え、雪が斜めに降り注ぐ先に目を凝らす。さああ、風が走る向こう。何かがある。何か黒い影が見える。殺気は無い。ただじっとこちらを見つめ返しているように思える。
「冨岡様!」
強い風がざっと白く走り、瞬きすると黒い影は気配ごと消え去っていた。目を凝らしても痕跡すら見つけ出すことはできない。小熊か何かがねぐらから顔を出していたのか。鬼の気配ではなく、殺気も無かった。柄から手を離して声のする方を振り返る。
「申し訳ありません、到着が、遅れまして、新任が多く」
肩で息をしているのは隠だ。それなりの高さの山、吹雪の中義勇を追い駆けてきて息切れしているようだった。目元だけで見分けはつかないが、確かに後から辿り着いてきた隠たちはあまり経験を重ねていないようだ。樅木を見上げ悲鳴を上げ動揺している。しかし声をかけてきた隠もそれほど年嵩には見えない。
「後はこちらで。冨岡様は麓で休、」
隠が言葉を止めたのは、鎹鴉が任務ジャ、任務ジャと舞い降りてきたからだ。最近は任務の伝達に誤りが無いよう文を託されることが多い。足元に結ばれた文を解き、震えている体を懐に入れてやる。暗闇の中では中身を確認できないと思ったが、ぱっと辺りが明るくなった。雪の乱れ飛ぶ白い視界の向こう、黒い木々の隙間にぼんやりと橙の陽が透けて見える。
「年が明けましたね」
文を素早く確認する傍ら、隠がぽつりと呟いた。次の任務は更に北東。雪山を抜けて行かなければならない。隊士が幾人か戦い、深手を負い鬼を見失ったとある。今度は加勢になるか──そうか、年が明けたのか。義勇は文を折り畳んでこれも懐に納めたが、あまり意味は無いだろう。指先も服も雪にまみれているので、次に取り出した時は読めなくなっているかもしれない。
「辺りに他の鬼は居ない」
「はい」
隠が慌てた様子で葛籠を探るので見下ろしていると、手拭を引っ張り出し差し出してきた。そしてその両手より深く深く頭が下がる。
「ご武運を」
頷き、雪を蹴って白一面の世界に飛び込む。年が明け、義勇は二十一になった。ただそれだけが昨日と違う。ただそれだけが明日と違う。