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冬は駆けてゆく



 冬を細かく砕いたものが霧になり、息を吸う度肺を綺麗に冷たくする。体に懐かしく残る習慣の通り、今日も夜明け前に目覚めて外へ出る。踏み出した草履の下でぎゅうと雪が鳴った。昨晩はそれほど降らなかったようなので雪下ろしはまだ必要なさそうだ。ううんと伸びをして白い息を吐き出し、同じ色をした煙を吐き出す窯へと近づく。焚口を覗き込んで火の様子を確かめ、薪を足し空気を入れ火を守る。ぱちぱち火のはぜる音を聞きながら黙々仕事を続けていると、ふと気配を感じて振り返った。木々の隙間が朝日で輝いている。眩しさに目を細めて立ち上がった。雲が少なく風もない、良い朝だ。

 今日が始まったなあ。

 胸の内で呟いて、それまで体は動いていてもまだ寝ていたのかもしれないと思った。心がやっと緩やかに目覚めた気がする。体は起き出せばまず窯の火を気にするものだけれど、心が目覚めた時に決まりは無い。山の天気のように唐突にあらわれる。そういうわけで、炭治郎はその日まず心に浮かんだ考えに首を傾げることになったのだった。

「義勇さんに会いに行こうかと思う」

 ほかほか湯気を立てる朝餉の雑炊を片手にした時、大抵は今日何をするかの話から始まる。天気もいいし散歩でもしない?そんな調子でニコニコ禰豆子に話しかけている善逸に炭治郎が続くと、居間がしんと静まってしまった。なんとなく理由は分かっている。炭治郎の口ぶりがどこか心許なくたどたどしいせいだ。

「何かあるの?」

 禰豆子が少し不安げに箸を置いたので、炭治郎も箸を置いて手をブンブン振った。何か悪い報せを受けたわけではないことを教えてやると、安心したようで小さく息を吐く。その隣の善逸も気を取り直したように椀を取り口を開いた。

「いんじゃない?行けば」
「えっ」

 思わず上げた声に善逸が首を傾げる。なに、と不思議そうに問われて口ごもってしまった。てっきり皆一緒に行くものだと思っていたのに。目を伊之助に向けたが、義勇に変わりが無いことを知ったら後は興味を失ったのかガツガツ雑炊を掻き込んでいる。何故か助けを乞うような気持ちになりつつ禰豆子に目を向けた。しばらくじっと互いを見つめ合う。

「お兄ちゃん、なんで会いに行こうと思ったの?」

 それが、炭治郎にもさっぱり分からないのだ。ただ今日は霧が出て寒く、しかし雲も風も少なく、美しい朝焼けだった。それだけだった。言葉に迷う炭治郎がもしかしたら何か誤解を与えたかもしれない。沈黙の末、禰豆子はどこか母の面影がある優しい笑みを浮かべた。

「今日は留守番するね。どんなふうだったか、ちゃんと教えてね」

 山を下りて道に雪が見えなくなっても澄んだ青空はまだ続いている。とつ、とつ、こんな調子じゃ二日も三日もかかるんじゃないかと思うくらい歩みが遅い。空は晴れ渡っているのに、炭治郎の心にはまだ朝に吸い込んだ朝霧が貼りついているかもしれなかった。背の籠で炭がぶつかり合い鈴が鳴るような音がする。冬の山では大した手土産も無いので背の籠にとにかく炭を詰めたのだが、すれ違う家で呼び止められ売ってくれと懇願され、半分くらいに減っているのだった。その時に炭治郎は自分の迷い、のようなものを自覚した。

 義勇は、禰豆子以外の全てを失った炭治郎に初めて追うべき背を見せてくれた人だ。炭治郎にとって人がどこへ向かうべきか知っている人なのだ。その人に何の理由もなく思いつきで頼まれてもいない炭を抱えて会いに行く。決して気が進まないわけではない。ただ、妙だと思って戸惑っている。なんで自分がそうしたいのか分からない。足が進まないのは心と体とそれを繋ぐ納得があべこべなせいだ。型だって集中があってこそ研ぎ澄まされて強くなる。考えろ。なんでそうなったんだ。もしかして自分でも気づかない悩みがあって、それを打ち明けたいと思っているのでは。

 ううん、ううん、唸ってとつとつ道を進み、最近の自分の至らぬところを考え込んでざくざく山に入り、義勇のことをあれこれ思い返しながらぎゅうぎゅう踏んだ雪がまた道から見えなくなった頃、気の早い冬の太陽はもう傾き始めていた。いつの間に。畑の続く開けた景色の際に滲む茜色に驚愕する。だめだ、考えている場合じゃない。幸いここまで来れば義勇が居を構えている村まではあと少しだ。肩紐をぐっと握り、籠をりんりん鳴らしつつ駆ける。そもそも、会いたいという気持ちにいつも理由があるわけじゃない。ふとした時にあの人はどうしているかな、元気かな、会いたいな、と思い立つことの何が妙だというんだろう。義勇は優しい人だ。そう親しくない時だって炭治郎が唐突に訪ねてきても真摯に対応してくれた。何を一体悩んでいたんだ。思い切れば後は早い。

 橙色に優しく包まれた空の籠の底に夜が透け、星粒がうっすら光っている。その下に人影を見つけた時、炭治郎はうっかり足を止めてその場に転びそうになった。なんとか足を動かし続け、むしろ一層速くしてその黒い影の前に駆け込む。

「義勇さん!」

 無意識にすう、と冷えた空気を吸う。ほんの幾月か前に会ったばかりなのにもう匂いが懐かしい。注意深く嗅ぎ分けるけれど寒そうな様子は見えない。

「寒くないですか!」

 勢い込む炭治郎に驚いた匂いを滲ませた義勇は、炭治郎の姿を確かめるように目を上下に動かして最後に口元で笑った。

「寒くない」

 義勇らしい、必要なことだけが返される答え。何故かそれを阿呆のように受け止めるだけだった炭治郎は、はっと我に返った。慌てて頭を下げる。こんにちは、お久しぶりです、挨拶には頷きが返ってきた。

「朝出たと聞いたが、遅かったな」

 炭治郎の頭からはすっかり事前の報せなどということは抜け落ちていたから、気を利かせた禰豆子あたりが鴉を飛ばしてくれたのだろう。それを受けた義勇は炭治郎を今日一日待っていて、遅いと思って外にまで出ていたのだ。寒そうな匂いはしない。けれど、着物からは冬の蝋を溶かして塗り付けたような冷たい気配を感じる。色々な気持ちが湧き上がってきたが、そのどれにも名前が見つけられず、炭治郎はただ大きく口を開けた。喉の奥がひやりと冷える。

「義勇さんは」

 何も無いわけがない。この人に会いたくて何も無いわけが。義勇はただ波立たない水面のような穏やかな目で静かに炭治郎を見下ろしている。

「義勇さんは、好きですか。俺のこと」

 出てきた言葉は自分にも予想もつかない言葉だったけれど、頭を介さないで腹の奥から直接飛び出ているから止めようもない。見上げる義勇の睫毛の先がピンと上を向き大きく目が開く。

「俺はいつもこんな調子ですけど、多分この先もずっと」

 いつも誰かに助けてもらって、優しくしてもらって、それでなんとかいつも前へ前へ駆けていける。もどかしく思うことがまだまだ山ほどあるし、今だって自分のことさえ分からない。痛い程分かっているのに、自分にも追いつけない唐突さで炭治郎は義勇に頷かれたかった。朝陽の中で思い立ったのはどうやらこれだったらしい。

「俺は何かしてしまったか」
「えっ」

 炭治郎を凝視している義勇の匂いは驚きから不安そうなものに変わっていた。白い面にも少し影が落ちて見える。驚いて一歩距離を詰めると何故だかすまないと謝られてしまった。

「何か間違ったんだと思う。お前を嫌うわけがないのに、そう思うなら」

 また無意識に息を吸ったのに、肝心の頭が働かなくてただ息を止めただけになってしまった。大きく膨らんだ胸の中には先ほど生まれた色々な気持ちが所狭しと詰め込まれている。破裂するかもしれないと恐ろしくなって息を吐いた。わあ、と半分力の抜けたよく分からない声も一緒に出た。義勇は炭治郎が何を考えているか分からない様子で目を瞬いているが、炭治郎自身にも何がなんだか全然分からない。

「これ炭です!少なくてすみませんが!」

 ひとまずできることからやろうと背から籠を下ろした。勢いがあったため地面に下ろした瞬間にりん、と涼しい音が弾ける。

「今日は帰ります!駆けて帰ります!明日も朝から窯を見るので!会えて良かったです!義勇さんは間違いなんてないですよ!嬉しくてホワっとしました!帰ります!ありがとうございます!」

 頭をできるだけ深く深く下げてから顔を上げた。顔がどう頑張っても満面の笑みになってしまう。滝のように腹から湧き出てくる言葉を正面から浴びていた義勇は、ぱた、ぱたゆっくり瞬きをして、最後にまた微笑んでくれた。

「そうか」
「はい!」

 とにかくじっとしていられない気分で、右手を大きく振り上げながら身を翻し、行きのことなどすっかり忘れて駆け出す。すると数十歩もしない内に黒い影が隣に飛び込んできた。驚いて振り向けば愉快そうに緩んだ笑みがある。

「禰豆子たちを驚かせてやろう」

 炭治郎よりも長い時を鍛錬と戦いに費やしてきた背はやっぱり速く、あっさり追い抜かれてしまった。それを全力で追いかけながら炭治郎は思いっきり腹から返事をする。夕日はもう西の果てに辛うじて手を引っかけているくらいで、冬の夜空が一点の曇りもなく星を輝かせていた。心も体も眠らない夜の道には慣れている。もう人を食う鬼もいないから、あっという間に家に辿り着いてしまうだろう。

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