二〇≫
ごうと風が逆巻く音が耳を打ち、髪の先を乱暴に掻き弄っていく。空も山も見渡す限り真っ白だ。絶え間なく目端を横切る雪を眺め、炭治郎は息を吐いた。生ぬるい白い息が首元にまとわりついて流れていく。まずいなあ、もう少し早く帰るつもりだったんだけど。禰豆子たちも心配しているに違いない。せっかくの年越しならと毎年ついつい遠くまで買い出しに行ってしまい、知り合いと一年のことを語り合ったり片づけを手伝ったりしてやる内に遅くなってしまうのだ。
あの人はああだった、あの人はこうだった、会えた人々の笑顔を思い描きながら一歩一歩に体重をかけて山を登る。考えることをやめてはならなかった。考えることをやめたらたちまち十三歳のあの日に帰ってしまう。もう人の命を奪う鬼は居ないし、禰豆子には善逸が付いている。どこへ行くにもくっついていたがるから危ないことなど何もない。そう分かっていてもあの日嗅いだ匂いがじわじわと胸の奥から染み出してくる。昨年みたいに皆で買い物に出かけたら良かったかな、と思う。けれど昨年は大所帯だったからどこへ行っても喜ばれて長居してしまい、麓の村で年を越し初日の出を拝みながら家に帰ることになったのだった。それはそれで楽しかったけれど。
ぐっと籠の肩紐を握り込む。十三のあの頃に比べれば背は随分伸びた。無惨との戦いで癒えない傷は負ったが、それでも鍛錬は続けている。あの時とは何もかも変わっているのに、幼い子供みたいに漠然としたものに不安を覚えている。心がまだまだ弱い証拠だ。ひとつ目を閉じると鱗滝さんが喝を入れてくれた。ああそうだ、そしてあの日この雪の中ではあの人も。惨めったらしく地に這いつくばるなと叱られたのだ。
あの日のことを義勇はあまり覚えていないと言った。柱として休みなく鬼を斬り人を救ってきた人だ。炭治郎と禰豆子もその内の二人に過ぎない。けれど炭治郎は鮮明に覚えている。幸せが壊れた苦しい記憶と共に、刻まれた恐ろしさや悔しさは炭治郎が死ぬまで失われない。そして今になって分かるあの言葉と行動の大きな意味も絶対に忘れない。
それを伝えると、義勇は少し戸惑ったような、妙な匂いをさせて小さく笑ったのをよく覚えている。どうしたんですか、そう問うと、二十一の年は何もかもが変わった、忘れられない年だった、と答えた。炭治郎にとっても十五の年は激動だったので、そうですねえと分かったふうに相槌を打ったのだった。義勇は笑みを深めてまた口を開いた。
何か違うと思えば、絶対に忘れない。
ふと、何かの気配を感じて首を巡らせた。鼻を鳴らすが危険な獣の匂いはしない。しかしごうごうと渦巻く白い風の向こうに何かが見える気がする。黒い何か、縦長なもの。人じゃないだろうか。吹雪に弄ばれているのは長い髪。後ろで括られた長い黒髪。刀に手を置き鋭くこちらを覗う立ち姿。
「義勇さん?」
思わず身を乗り出したら、そこは張り出した枝に雪が積もり地面に見えていただけの場所だったらしい。うわっ、と間抜けな悲鳴を上げて吹雪の中に身を投じてしまう。籠の中身が飛び出さないよう抱えながら受け身を取ると、雪の中に仰向けで埋まり込んでしまった。まるで禰豆子を支えきれずに滑った時みたいだ。ぽかんと間抜けに真っ白な空を見上げる。開いた口に後から後から雪が入ってくる。
「お兄ちゃん!?」
ちょうど思い出したところで飛び込んできた声に首を持ち上げると、禰豆子が身を乗り出してこちらを覗き込んでいる。兄よりも遥かに賢いこの妹は、近くにある大きな木を慎重に伝って駆け寄ってきた。
「大丈夫!?」
「……うん、雪で助かった。滑ったのも雪だけど」
「もう!遅いと思って見に来たら!」
ぷっくり頬を膨らませた禰豆子は炭治郎の額を指で強く弾いた。なかなか痛い。早く起きないと風邪引いちゃう、助け起こすように手を添えられたが、炭治郎はすぐには起き上がらなかった。
「お兄ちゃん?どこか痛いの?」
「いや、大丈夫。禰豆子、あれ」
寝ころんだまま右手を上げると、抱えていた籠がころりと転がったので禰豆子が慌てて受け止める。それから炭治郎と一緒になって空を見上げた。炭治郎が足を滑らせた木の下に庇われるように低い木がある。その細い枝の先には雪が乗っているが、炭治郎が転げ落ちた時にいくらか振り落とせたようだった。氷雪に縁取られるように薄紅の花が咲いている。
「えっ、花!」
「うん、初めて見た」
「何の花かな、こんなに寒いのに」
「ううん……梅、じゃないか」
すう、と思い切り胸を膨らませると雪の匂いと禰豆子の匂いに混じり、幽かに花の香がする。十三歳のあの日に見た義勇がここに居るわけもないけれど、雪の下に隠れた花はどうやら本物らしい。今年は冬にしてはあたたかい日も多かったからうっかり咲いてしまったのかもしれない。
「あれを見つけて落ちちゃったの?」
禰豆子が呆れたように言うが、表情は愉快そうで優しい。いつまでも子供みたいな兄を笑ってくれる禰豆子に炭治郎も笑みを返す。
「うん、多分。綺麗だったから」
きっと義勇はあの日のことを忘れてなんかいなかったんじゃないか。今やっと気づいた。
明日、年が明けたら炭治郎は二十一になる。どんな年になるかはまだ何も分からない。きっと今年と同じ、忘れたくない嬉しいことがたくさん詰まった年になるはず。ただ二十歳の最後はこの梅だ。白い雪の中こちらを凛と見返す姿を絶対に忘れない。