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花の色はさうびにぞ



「うかつに触ると怪我をしますよ。刺がありますから」

 声がすぐ背後から生まれて思わず背筋がピンと伸びてしまった。しゃがみ込んでいた体を慌てて翻せば、すぐ真後ろにはいつの間にかしのぶが立っている。

「しのぶさん!」
「今日も頑張っているみたいですね」

 優しく微笑まれて思わず照れてしまう。しばらくは任務で留守にすると聞いていたが、炭治郎が単独任務を終え、その足で裏山を駆け回っている間に帰って来ていたらしい。

「はい。できるだけのことはやりたいです。もう、後悔したくないので」

 しのぶは炭治郎の言葉にただ笑顔と頷きだけを返してくれる。まだまだ未熟な炭治郎の決意をありのまま受け止めてくれるしのぶの優しさだと思った。笑みを返すと、しのぶの目は炭治郎がしゃがみ込んでいた垣根に向いた。

「この囲いの中は研究用によそから持ってきた植物を植えています。中には毒を持つものもありますから気を付けて」
「はい。すみません」

 草花を育てていることは知っていたけれど、こんなに近づいて覗き込んだのは初めてだった。普段の鍛錬の合間はさほど気にしていなかったが、切りをつけた時にたまたま近くに来ていた。地面や鉢に植えられた色とりどりの草花が物珍しくついつい興味が引かれたのだった。なんだか気の緩みを見せてしまったような気がして反省する。

「伊之助君はこの裏山が気に入っているようなので最初に伝えしましたが、心配要りませんでした」

 しのぶは炭治郎を安心させるようにおかしそうにこちらを覗き込んできた。美しい目鼻立ちの人なのでどぎまぎしつつ、首を傾げる。するととうとうしのぶはくすくす息を漏らして笑った。

「花が咲いたら実が成るから荒らすわけがない、と言われてしまいました。勝手に食べてはだめですよ、と別の心配を伝えましたけど」
「なるほど……俺も山育ちなので分かる気がします」

 言われてみれば。山を下りる時にふと見かけたらそれは綺麗だと思うけれど、庭先の畑で花を見たら、もうこの菜は食べれないなとかいい実が成ればいいなとか考えていた。花は季節を知る手がかりみたいなものだ。わざわざ育てるなんてことはしない。

「ただこの花はいい匂いがして。色もとても綺麗で」

 垣根に沿うような弦には鮮やかな赤い花が幾重にも重なって咲いていて、頭の芯をぼうっと溶かすような甘い匂いを放っていた。ふらりと引き寄せられて覗き込んでしまったが、確かによく見ると枝に刺がある。

「芍薬かと思ったんですが、刺があるんですねえ」
「いばらの花ですよ、異国のものです」
「へえ!」

 山で見るいばらの木の白い花とは随分違う。匂いの強さも全く違うが、言われてみるとほんの少し似た匂いが混じっている気もした。

「この花が好きな人から譲り受けましたけど、綺麗に咲かせるのはなかなか難しいんです。あの子たちがよく見てくれているから助かっています」
「そうですか……そう聞くと、一層綺麗に見えますね」

 これほど綺麗な花なのだ。手間暇がかかるというのは説得力がある。再びしゃがみ込み、布のように滑らかな花弁を感心して眺めていると、しのぶはまたふふふと笑った。不思議に思って目を上げる。瞳が木陰の中で優しい曲線にほどけていた。瞳の色のせいで藤の花を見上げているみたいに見えた。

「すみません。その人もそう言うだろうなと思いまして」

 ぼうっと呆ける鼻の先に少しだけ寂しい匂いがいばらの匂いと混じっている。もしかしたらその人はもう会うことの叶わない人なのかもしれない。炭治郎の顔が変わったせいだろうか、しのぶは笑みを苦笑に変えて炭治郎の隣にしゃがみ込む。

「病にかかりやすく手がかかります。咲くと鮮やかですが、枯れるとこうして俯いて、色が褪せていきます」

 鮮やかな色が茶色に褪せて皺だらけになった花のひとつに、しのぶは殊更優しく愛しげに触れた。そして笑みを炭治郎へと戻す。

「けれど綺麗ですから、絶えずに咲かせたくなりますね」

 炭治郎たちの住む家は山の中なので、街からやって来るとそれなりに大変だ。幾つも連なる山と山の間を縫って、獣道を地道に登って来なければならない。だから頻繁にとはいかないけれど、それでも色々な人が訪ねて来てくれる。その度に炭治郎は自分の生まれ育った山の中を客人と共に散歩することにしている。この山を下りて出会った、慕わしく大切な仲間たちにそれを知ってほしいと思うからだった。

 ここをまっすぐ行くと沢があって、その向こうにフキがよく取れるところがあって、いつもは賑やかに案内するけれど、今日は黙って木漏れ日を浴びている。隣を歩く客人がもう何度かこうして訪ねてきてくれた人だからだ。差し迫った状況に追われたり、大きな目的を抱えたりするわけでもなく、ただのんびり目指す所もなく二人でさくさく山を歩いている。初夏で湿った首筋を涼しい風が撫でていき、穏やかな匂いがして横目で窺えば、まつ毛の先が下を向き目が心地よさそうに細くなった。この沈黙が好きだなあと思った。

 いくらかまた歩いて、ふと藪の隙間を抜ける時に足が止まった。不思議に思って覗き込めば、木陰で濃くなった蒼い瞳がじっと足元に楚々と咲く白い花を眺めている。左手の指がゆっくり動くので慌てて口を開いた。

「義勇さん」

 久々に生まれた人の声にまつ毛がぱたりと上がり、驚いた様子で炭治郎を見返す。物音に驚いた鹿みたいだと思ったけれど、失礼かもしれないので慌ててそう考えるのをやめた。

「いばらです。刺がありますよ」

 言って、なんとも言えない懐かしさが胸へ唐突に押し寄せてきた。以前にもこんなことがあっただろうか。胸の内だけで生まれた大波に戸惑うけれど、うまく説明できそうもないのでまごついてしまう。それを不思議そうに見つめていた蒼い目が、ふとまた細くなった。

「そうか。だが、綺麗だな」

 ありがとう、優しい声だ。白い指は花に触れることなく戻っていき、またさくさく足音が生まれる。ああ、そうか。記憶の中で花のように美しい笑みが蘇る。そうですね、しのぶさん。あの時よりも一層強い共感があって、炭治郎は胸の内で頷きを返した。

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