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「お前のおかげで」
そう言った時、炭治郎はそれまで忙しなく開閉していた口をぽかんと開けたまま固まった。
義勇の中で炭治郎はいつも賑やかな少年だった。どこで誰と何をどうした、それを楽しげに語って聞かせる。義勇が二言三言零した言葉も心底興味深そうに拾い、これはこうですか、それはああですねとたちまち満天に風呂敷を広げる。義勇はそれにここのところ尊敬すら覚えていて、いつの間にやらその感嘆が呟きになって転げ出ていた。
「お前は話すのが好きなんだな」
しかし、言われた炭治郎の反応は想像と違っている。近くで人に会ったついでと立ち寄ったらしい炭治郎は、いつものように身を乗り出す勢いで世間話を繰り出していたが、ぴたりとそれを止め困惑するように瞬きをした。正面に落ちた義勇の言葉をすぐには拾わず、遠巻きに見て様子を眺めるような感じだ。何かまずいことを言ったのかと眉根を寄せると、慌てて違います違いますと否定が返る。相変わらず便利な鼻だ。
「いえ、ただ、確かに俺、義勇さんにすごく話しているなって……」
妙な言い方だなと思う。義勇の見る限り炭治郎はいつでも誰にでも賑やかだ。楽しげに大口を開けて笑ったり、神妙に頷いたり、時には涙ぐんで口元を引き結んだり──考えてみると、賑やかなのは表情だっただろうか。息を吸う間すら埋め尽くされそうな程話す姿は言われてみれば珍しいのかもしれない。
「自分でも全然、気づいてませんでした。すみません、俺ばっかり」
「いや。迷惑でないのは分かってるだろう」
へへ、義勇の言葉に照れながらも心底嬉しげな笑み。それを微笑ましく思い義勇も笑みを返す。
「ううん、何でしょうね。義勇さんを見ると、話さなきゃなあっていう気持ちになるんです。何か……あっ、そうだ!お館様に前言われたことがあって」
「お館様」
「はい。義勇さんに前を向いてほしい。そのために話してほしいって」
現在の産屋敷家の当主は輝利哉だ。しかし鬼殺隊が解散した今、その肩にかかる数百年越しの重責からはいくらか解き放たれてもいいはずだ。そんな願いのような気持ちが生き残った者たちの間に伝播しているのだろう。「お館様」よりは「輝利哉様」と呼ばれることが多い。炭治郎の言う「お館様」も恐らくは先代のことだ。何もかも見通したうえで全て許す、清い笑みが胸にたちまち蘇る。
どうしても後ろを向いてしまうんだね、義勇。
それを詰るでもなく、憐れむでもなく、寂しそうに言われたことがある。あの日、その時の義勇はきっと、その言葉をうまく受け取れていなかった。昼の後には夜が来る。そう言われたのと同じように何も感じず、一礼をしてその場を去った。
「そう頼まれたのか。お館様に」
「はい!……あっでも、話したいのは俺ですからね!義勇さんは凄く静かな人なので、何でもいいのでとにかく知りたくて。でも、思い返すときっかけはあれだったんじゃないかなあと……」
見当違いなことを言って慌てる炭治郎がおかしくて笑みが深くなるのが自分でもわかる。今もしあの場に居れば、あの方はどんな顔をして義勇を見るだろうか。もうあんな顔をさせずに済むならいい。
「もう大丈夫だ」
また勢い込んで言葉を連ねそうな炭治郎を遮った。炭治郎に言ったつもりで、お館様に宣言しているような気もする。やはり産屋敷の当主は常人とは及びつかない慧眼を持っているようだ。義勇はもうきっと、後ろを向くことはない。そして今そう言い切れるのは、すべて目の前に座るこの少年のおかげだ。
ところが。
「お前のおかげで」
その言葉の後から、どうにも炭治郎の様子がおかしい。感謝と親しみと敬意と……何もかもを込めたが、心の一番上の部分から出た飾らない気持ちでもあった。さほど複雑な意味は無い素朴な言葉だったと思うのだが、義勇には不器用なところがある。何か悪い意図が誤って伝わったのだろうか。
「炭治郎?」
ぽかんと固まっている少年に声をかけた。すると炭治郎は一度口を閉ざし、それから真面目な顔でひとつはいと返事した。それで終わりだ。それまで炭治郎の言葉だけが満ちていた部屋からあっさり音が消えた。ピロロロ……遠くの方から鳥の声が聞こえるくらいか。
「炭治郎」
炭治郎と二人で居てこんなことは初めてではないだろうか。不審に思ってもう一度名を呼ぶ。はい、律儀で静かな返事。
静寂の中、炭治郎が腰を上げ、さりさりと静かに畳をにじって近づいてきた。いつもは賑やかな男の突然の沈黙に気圧されるが、どうしていいかも分からず大人しく近寄られる。光の入らない曇った瞳も、熾火を底に持つ赫い瞳も、まっすぐに義勇へ向けられているので、こちらも真正面から受けざるを得ない。
さり、さり、ゆっくり近づいてきた炭治郎はついに義勇の膝に触れるところまでやってきた。膝立ちになっているから炭治郎のほうが目線が上だ。そうされて初めて気がついたが、以前より上背がある。以前──以前とは一体いつのことだろうか。
じっと上から降るように眺められている。頸が傾いたので耳飾りがチチ、とほんの微かな音を立てて揺れた。輪郭が鋭くなり、目鼻が少し離れ大人びた顔つきに見えた。少年、ずっとそう思ってきたが、それが果たして正しい言葉だったのか分からない。
すす、衣擦れの音とともに右手が上がり、指先がしばし迷って、義勇の左肩にそっと触れる。何故かその瞬間、息を詰めてしまった。そうすると炭治郎の動きも止まる。
くっと眼前にある喉仏が動いた。苦しげに息を呑んだ炭治郎がゆっくりとまた動き出す。すす、すす、互いの着物を擦りながら腕を伸ばし身を屈めた。ぺたぺた、耳飾りが二人の頬の間で揺れる。どう、どう、鈍く聞こえるのは血の巡る音か。背に回った右腕の力がぐっと強くなり、は、と口が開いた気配がした。
「……うれしいです」
声は掠れて震えていた。先ほどまでの真剣な表情はきっと、感極まった涙を堪えていたのだろう。なんだかよく知る炭治郎が、ごく近い、まさに腕の中に戻って来た気がして体の力が抜けた。左手と右腕で柔らかく抱き返してやる。炭治郎は本当に賑やかで色鮮やかだ。黙っていても様々な音がする。