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絶対に間違える話



 炭治郎にとって人はまず匂いだ。いい匂いがするなあと思う時もあれば、ちょっと苦手な匂いだなと思う時もある。その人自身の体からする匂いももちろんあるが、好きだとか苦手だとか思うきっかけになるのは感情だ。感情に伴って変わる匂いは大体皆よく似ている。よくよく考えてみると、そういう感情自体がいい匂いなのか、好きだなと思う人がそういう匂いをさせていたからいい匂いだと思うのか、どっちが先だったかよく分からないけれど。

 ただ、匂いで何もかも分かるわけじゃないから、次にはその人を為すものに近づきたいと考える。隣に座って話してみれば匂いなんてころころ変わっていくものだ。最初に嗅いだ匂いとは全く違う匂いがその人らしい匂いだと知ることもある。ううん、ここでも結局匂いだな。生まれた時から付き合っている鼻なので仕方ない。

 そうして最後にやっとその人を鼻以外で知ることになる。もちろん目が見えないわけじゃないので、その人がどんな成りをしているか匂いと一緒に知っているつもりだ。でも炭治郎は鼻がよく利くから、やっぱり匂いが先でその他は後になるんだろう。どうしてそんなことに突然思い至ったか。それは隣に座る冨岡義勇という人が青空の色よりもほんの少し暗い、蒼さの滲んだ目を持っていることにたった今気がついたからだった。祖母の手伝いで初めておはぎを作った時のことを楽しく語っていた時、ほんとうに唐突にあっと思い、言葉が全部解けて砂利の上にぱらぱら散らばっていった。炭治郎と同じように膝を折り曲げて砂利の上に座る義勇は、表情を動かすことなくじっと炭治郎の言葉の続きを待っている。癖があって脇に流れる髪の隙間に下向く睫毛、夕暮れの光が影を落とす目。これが蒼い。

「義勇さん、綺麗な目ですねえ!」

 それまで話していたことを全部放り出してしまったことを、炭治郎は素直に白状した。木々の影が落ちる湖面に空の色が染め入った目の色。奥行きがありそうだった。目の向こうに蒼い世界があって、うっかり覗き込むとどぶりと沈むかもしれない。

「吸い込まれるかと思いましたよ」

 義勇はまずその言葉を変わらぬ表情で受け止め、それから考えるように片眉を上げ、眉間に一本皺を作って首を傾げ、ぱたりと重たそうに睫毛を一度上下させ、じゃらりと砂利を鳴らした。足を開き、炭治郎に体ごと向き直ってあぐらを掻いている。ひょっとして気分を悪くしたのかと心配になったが、義勇はまた静かな表情に戻っていた。膝に手を置き、ただじっと炭治郎の顔を見つめる。それきり動かない。言葉もない。

「……あのう」

 炭治郎が声を上げたのを聞いて、じりりと小さく砂利が鳴る。少しだけ義勇が炭治郎と距離を詰めた。感情があまり大きく波立たない人なのか、義勇の匂いは人より薄い。落ち着かない心地で鼻から息を吸うが、竹林の青い匂いのほうが強いくらいだ。ただ風に乗って穏やかな気持ちの匂いがする。炭治郎に対して嫌悪も警戒もよそよそしさもない、角のない丸い匂い。蒼い目が先ほどより近くなって炭治郎をそっくり映す。

「義勇さん、何か」

 だめだ、と思って声をまた上げた。何がだめなのかは分からないが、とにかく黙っていたらだめだと思ったのだ。何か、炭治郎の言葉を鸚鵡返しして不思議そうに首を傾げた義勇に何故かほっとする。

「もっとよく見たいのかと思った」

 違ったのか、なんでもないことのようにポツリと呟いて、義勇はじゃりりと砂利を踏んで立ち上がった。じゃら、じゃら、軽い音を立ててすたすた歩き始める。後を追わなければ、頭では分かっているのに体が動かない。だめなのは俺だ、という大声が頭の中に響いた。よく分からないけど俺は何かを決定的に間違った。顔が真っ赤になって熱くてしょうがない。

 と、まあこれが大体二年くらい前の話で、その後の戦いの過酷さと失ったものの大きさに隠されて埋もれていた。どうしてそれを突然思い出したか。それはたった今、足を使って竹籠を編む炭治郎の隣に腰かけている冨岡義勇という人が青空の色よりもほんの少し暗い、蒼さの滲んだ目をじっとこちらに向けていたからだ。炭治郎はやっぱり匂いが先なので、久々に訪ねて来てくれた義勇が健やかで穏やかな匂いに取り巻かれていることばかり気にして喜んでいたし、相変わらず寡黙だけれど、ぽつぽつ近況を話してくれる低い声を耳で楽しんでもいて、まったく油断していた。採れた山菜や栗を提げて帰ってもらおうと急遽竹籠を編む横顔を、こんなに近いところで見つめられているなんて思わず、相槌も忘れてその目をまじまじ見つめ返してしまう。

 夕陽の中にあった瞳は今、秋のよく晴れた空の下にある。山から見下ろす湖面にやっぱりよく似ていて、天気の良い日に望むときらきらと輝きを返し、青空をそっくり映して透き通る。冷たくて気持ちがいいだろうな、その中にどぶりと沈み込んだら。

「義勇さん、何か」

 だめだ、いつかも思ったようにまた咄嗟に声を上げたけれど、まずい気がする。以前もそうして何かを間違ったような。けれどあの時何を間違ったか未だにはっきりしないから、どう打ち返したらいいかも分からない。

「赤いな。お前の目」
「えっ」

 しゃがみ込んだ膝に子供みたいに頬杖をついて炭治郎を覗き込む義勇は、炭治郎の動揺を気にしたふうもなく表情を変えずに呟いた。ひとまず事態が動いたことに緊張が解けて、ぎこちなく竹ひごをもじもじ重ねる。一度気づいてしまった視線が相変わらずごく近くから注がれて横顔を焦がしていた。

「最近、気にしてなかったことがたくさんあったと気づくよ」
「……そうですか」

 なんだ、と今度はよく分からない内に安心する。言葉通り、義勇はたった今炭治郎の瞳が赤っぽいことに気が付いて口にしただけだ。柱として多忙を極めて駆け回っていただろう人に訪れた穏やかな暮らしに炭治郎がたまたま触れただけなのだ。安心とともに心が温まり、笑みを上げてまた間違ったことに気が付く。

「綺麗だな」

 義勇も笑みだった。人を吸い込んで水底に心地良く沈める目を細めて、炭治郎の瞳を嬉しそうに眺めている。慌てて首をまた下ろした。竹ひごをぎゅっと引いて編み目を詰める。

「そう、ですかねえ。俺は義勇さんの目のほうがずっと綺麗だと思いますけど……」

 いつも人より薄い義勇の匂いが確かに鼻に触れた。不満そうな匂いがする。以前水の呼吸を極めないことを怒っていた匂いと似ているようで似ていない匂い。炭治郎、呼ぶ声は匂いに対してひどく優しい響きだ。

「もっとよく見たい、そう言ってる」

 竹ひごを引く力が強くなりすぎて籠がべしゃりと潰れた。あっと声を上げると、同じように驚いた匂いの後、ふふふと控えめな笑みが隣から湧水のように生まれた。よく考えなくてもこれは俺が決定的に間違ってる。やっぱり俺はだめだ。顔が真っ赤になって熱くてしょうがない。

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