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365日、毎日どこかで花は咲いている



「じゃあまた明日な!」

 ジッ、とファスナーを勢い良く滑らせ、円堂はエナメルバッグを持ち上げた。それは既に薄汚れており、角などはエナメルが剥がれてしまっている。黄ばんだストラップの肩当て越しにずしりと馴染んだ重みが肩にかかる。三年間、ほぼ毎日感じてきた重みだ。円堂がこのチームに感じてきた重みに少し似ている。そう思うと、どこか心地良い感じさえする。あまりにも体にしっくりと馴染んでいて、明日が終わればもうこのバッグを背負うこともないということが不思議でしょうがなかった。

「あの、キャプテン……明日は……」
「少林、オレはもうキャプテンじゃないってば」

 いつものハキハキした動きはどこへ行ったのか、そろりと声をかけてくる少林に苦笑する。三年生最後の試合を終えてこの部を引退してもう数ヶ月は経つというのに、後輩たちはみんな円堂のことをキャプテンと呼ぶ。円堂にとっても肩にかかる重みと同じように当たり前のものになってしまっているから、ちゃんと気をつけておかないと注意もせず返事を返してしまう。

 雷門は変わる。新しいキャプテンと世代を迎えて変わるのだ。先輩として、円堂はそれを精一杯応援してやりたいと思う。

「みんな! 今日もよく頑張ったな! この調子で明日もガンガン行こうぜ!」

 はいっ、部室に響く返事の中で一際大きい声が真横からしたかと思えば虎丸だ。大きな瞳をきらきらと輝かせているので円堂も自然と笑顔になる。思う存分自分の力を発揮できる仲間を得たのが嬉しくてたまらない、というこの顔が円堂は好きだ。虎丸に限らず、仲間たちや相手のチームにだってこういう顔をさせたい。そういうサッカーをしたいといつも思っている。もちろん、あいつにも。

「キャプテン……いつものキャプテンっす……」
「キャプテンはキャプテンじゃなくなってもキャプテンでヤンスねえ……」
「栗松はキャプテンになっても栗松だけど……」
「何か言ったでヤンスか?」

 二年生たちが部室の隅で小突き合っているのを愉快な気持ちで眺める。その笑顔のまま、部員で溢れる部室を一度ぐるりと見渡した。それだけで胸に何か熱いものがぐっと詰め込まれる感じがする。うん、ひとつ頷いて片手を挙げた。一年生の頃とは比べ物にならない数のまた明日を交わして外に出る。本当に、それだけのことが嬉しい。

「キャプテン、もう帰っちゃうんですかっ?」

 戸をゆっくりと閉じると、外で仕事をしていたらしい音無が身を乗り出す勢いで声をかけてくる。それをまた笑いながら、帰るわけじゃないよと手を振って歩き出した。

 頬に触れる風はひやりと冷たいが、西に傾く日差しは柔らかい。校庭に並ぶ桜の木にいくつか蕾も見つけている。もうすぐ春がやってくる。そうしてまた、花が咲く。

「いつものとこ!」

「……『いつものとこ』」
「そう!」

 夕暮れの帰り道、円堂の言葉をぽつりと拾った豪炎寺に円堂は深く頷いてみせた。ついこの間までは迷惑そうな目を向けられるだけだったのに、今ではタイミングが合えばこうして肩を並べて歩いたりする。あの豪炎寺とだ。それがなんだか不思議で、とてつもなく嬉しい。弾んだ気持ちがそのまま声に乗る。

「それでいつもの特訓をやるんだ! フットボール・フロンティアの予選に備えてさ!」
「『いつもの』」
「そうだよいつもの! 他のやつも来ると思うぜ。いつものやつらがさ! それでいつもみたいに……」

 ふと、豪炎寺がしかめ面で円堂を見つめていることに気がついて、それまで続いた言葉のドリブルをふと止めてしまう。以前しつこいと言われたことをとっさに思い出した。ひやりと背中に冷たい汗が流れる。

「……すまん円堂。話が全く分からない」
「へ?」
「いつもの、ってのはつまり何なんだ」

 しばらく豪炎寺の言った言葉の意味を考えるために黙り込んでしまった。すると豪炎寺の表情は益々曇る。一見するとそれは不機嫌にも見えるけれど、どうやらその表情は円堂の言葉に対する疑問やそれが伝わらない申し訳なさを表しているらしい。なんだかほっとしていつの間にか入っていたらしい体の力が抜けた。

「えーっと、そっか……そうだよな。いつものとこって言うのは……」

 豪炎寺が円堂たちとサッカーを続けることを決めてくれたことに舞い上がっていた自分が少し恥ずかしく、説明する口調は自然に早口だ。鉄塔広場での特訓や、それに付き合ってくれる仲間たちのこと。それからそいつらと行く馴染みのラーメン屋の名前とそのうまさ。豪炎寺はまだまだそれを知らないのだ。知りたいと思っているかどうかも分からない。

「お前も来ないか? もちろん、お前が良ければ……だけど!」

 でも円堂は豪炎寺に「いつもの」を知っていてほしいと思う。他の仲間たちと同じように色んなものを一緒に見て、触れて、ボールを蹴って試合がしたい。

「そうだな」

 豪炎寺の返事は短くてあいまいだ。ただの相槌のようにも聞こえる。堪らずそろりと目を動かして真横の豪炎寺の顔を窺うと、そこにはそんな円堂をおかしそうに見つめる笑みがあった。

「今日からはオレも、お前の『いつもの』か」

 ふ、と豪炎寺が小さく息を漏らして笑う。円堂の言葉を受け入れて、あの豪炎寺が笑っているのだ。何がなんだか分からないが、今日の夕焼けよりもあたたかくて色鮮やかな気持ちがふわりと円堂の中に生まれた。まるで心の中に名前も知らない花が咲いたみたいだ。

「豪炎寺!」

 名前を呼んだ。とにかくそうしたかったし、国語のあまり得意でない円堂にはそれしか言い表せる言葉がない。豪炎寺は切れ長の黒い瞳でじっと円堂を見つめている。その目も髪も頬も夕焼けの色をして、円堂の言葉をひたすらに待っているらしい。

「へへ、豪炎寺!」
「なんだ、何度も」
「なんでもない!」

 戸惑うような表情だが、豪炎寺はそれでも笑顔だ。それに安心する。本当はなんでもなくはない。言いたいことや伝えたいことは山ほどあるのに、名前を呼ぶくらいしかできなくて、それが一切伝わらないのがもどかしくて仕方なかった。

 急ぎ足が不意に止まってしまったのは、グラウンドが目に入ったからだ。ついさっきまで仲間たちと駆け回っていて、毎日飽きるほど眺めてきたはずだった。でもそこで繰り広げられるゲームや思い出は毎日違う。だからこうして今日もグラウンドを飽きずに眺めてしまう。

「あっ、円堂くん!」

 声のした方向を振り返ると、雷門サッカー部を影で支え、一緒になって戦ってくれた馴染みの顔が並んでいる。駆け寄ってくるのが秋で、その後ろで目を丸めているのが夏未、その横に並んで手を振っているのが冬花だ。

「見に行ってたの? 部活」
「ああ。頼まれてさ。オレも明日に備えて体動かしたかったし、丁度良かったぜ!」

 円堂の言葉を満面の笑みで聞いている秋の手の中には小さな段ボール箱がある。見れば秋の後を追う夏未と冬花もそれぞれに荷物を抱えていた。

「そっちは?」
「まったく……呑気なんだから。明日の準備で忙しいの」
「私たちはそのお手伝い」
「最後だから……私も何かしたくて」

 最後、冬花のその言葉に秋と夏未の顔がふと暗くなり、しかしすぐに笑顔が戻ってくる。円堂もそれに飛び切りの笑みを返した。「またねの季節」がまたやって来て、多くの人々にこんな顔をさせている。だけどそれでも、新しい明日が来ることを喜んでいたいと円堂は思っている。

「そっか! 楽しみだよなあ、明日!」

 秋は夏未を、夏未は冬花を、冬花は秋をと視線が一巡した。それから三人はほぼ同時に噴き出して呆れたような笑い声を上げる。

「変わらないね、円堂くんって」
「本当に。全然変わらないわ」
「サッカーの守くん、だね」

 誰かと笑いあうのは嫌いじゃないが、女子三人に笑われていると、なんだか照れも出てきてまた明日なと片手を挙げる。手伝ってやれないことを詫びて再び急ぎ足を踏み出した。

「そんなに急いでどこに行くの?」

 背中にかかった夏未の声に振り返ると、表情は自然と笑みになる。世界中に宣伝するくらいの気持ちで円堂は声を張り上げた。

「あいつのとこだよ!」

「豪炎寺!」

 きっちりとセットされた後頭部を校庭の木陰に見つけて、円堂は思わず声を張り上げた。小さく肩が揺れたのが遠目に分かり、嬉しくなってスピードを上げる。

「豪炎寺、やっと見つけた!」

 木陰に腰掛けている豪炎寺は円堂を驚いた様子で見上げているだけだ。立ち上がる素振りもない。なんだかいたずらに成功したような気持ちになって笑みがこぼれそうになる。

「何かあったか」
「へ?」

 しかし見開かれた豪炎寺の瞳がすぐに鋭くなり、木にもたれかかっていた背を身構えるように正したので、円堂は間抜けな声を上げてしまった。そんな円堂に豪炎寺の表情も戸惑うようにあいまいになる。

「オレを探していたんだろ。何か用事があったんじゃないか」

 豪炎寺のその言葉で、円堂はやっと自分の行動が豪炎寺に何か悪い想像を持たせたことを理解した。そういうんじゃないよ、と慌てて両の手のひらを豪炎寺に開いてみせる。それでも豪炎寺は難しい顔で円堂のことを黙って見つめ続けている。それなら一体何故ここに、と問われているのは言葉がなくたって痛いほど伝わってきた。あちこちに視線を飛ばし、なんとか言うべき言葉をかき集める。

「えーっと……ただ、どこに居るんだろうって思ってさ。どこに行ったのか見当もつかなくて。それで……ええっと、豪炎寺はここで何してたんだっ?」

 豪炎寺はまだ黙っている。けれどそれは円堂を無視しているわけじゃなくて、円堂の言葉の意味をしっかり理解しようと時間をかけてくれているのだと思う。それでもやっぱり、眉間にしわを作った難しい表情が変わらないことに居心地の悪さを覚えて、とにかく何か声をかけようとした。しかしそれよりも先に豪炎寺が小さく口を開く。

「オレがどこで何をしていようが円堂には関係ないだろ」

 どきり、と心臓が跳ねた。豪炎寺に対してときどきこんな気持ちを覚えることがある。ピーッと鋭く審判の笛が鳴った時のような気持ちだ。審判のジャッジはオフサイドというところだろうか。プレーに無我夢中になり過ぎて、相手の陣内深くに一人踏み込んでしまったことにまで気づかない。

「そーだよな……ごめん」
「別に責めてるわけじゃない」

 豪炎寺の顔を見ていられなくてわずかに目を伏せる。だが豪炎寺は言葉の通り円堂に怒っているわけではないらしかった。円堂の膝のあたりをぽんぽんと叩いて座るように促してくる。少し迷ったが、大人しく豪炎寺の隣に腰掛けた。同じ目線になって見る豪炎寺の顔は、怒っているというより困っている。

「なんでそんなことが気になるのか、分からなかっただけだ」

 オレこそ悪かったと続けられて、いやオレのほうこそと返す。そんなことを何回かやって、終いにはお互いに笑ってしまった。なんだかほっとして木の幹に背を預ける。

「なんでか……そうだな……」

 初めは、ただどこにいったんだろうと不思議に思っただけだった。昼休みにやることも無かったし、休みに入ってすぐどこかに行ってしまった豪炎寺に気づいたから、居そうなところを自分なりに考えて当たってみることにしたのだ。しかし数ヶ所探し回っても見つからず、広い校内をさまよううちに、絶対に見つけたいという気持ちばかりが強くなった。引き返そうなんて気が少しも起きなかった。

「なんでだろ、とにかく知りたかったんだ。もっと分かりたいって思った。お前のこと」

 同じ学校の中にいるっていうのに、すぐに豪炎寺を探し出せないことが無性にもどかしい。豪炎寺がどういうつもりで、何を思って円堂に声をかけているのかすぐに分からないままなのがなんだか悔しい。

 豪炎寺はまた、しばらく黙っていた。感情の分からないまっすぐな目で円堂をひたと見つめる。それからそれを不意にふっと緩めて笑った。

「日当たりいいだろ、ここ」

 五月の初めの晴天は夏の気配すら感じる強さだが、木陰の下には春の名残もあって風が通っていくと清々しい。豪炎寺はそれを円堂に教えるように腕を上げた。シャツの半袖は影の中にあり、そこから伸びる腕には青々した葉っぱのまだらな影が模様をつけている。手のひらは強い陽射しを受けて白く輝いて見えた。

「うん! 気持ちいいぜ! サッカーしたくなる天気だなあ!」

 円堂の言葉に豪炎寺はまた笑った。そうするとまたひとつ、胸の奥のほうで花がふわりと綻んで開くのが分かる。このまま花が咲き続けたら、円堂の心の中は花畑にでもなってしまうのだろうか。それもいいな、と思った。そうなったらいいな、と。

「鬼道!」

 校門をくぐり、いよいよスタートダッシュを切った数十メートル先に、見知った背中を見つける。すぐにそうだと分かって疑う気持ちも起きないのは、数え切れないくらいその背中をゴールから頼もしく見つめてきたからだ。円堂の言葉に足を止め、振り返ったのは案の定呆れたような笑顔を浮かべた鬼道だ。腕組みをして円堂を待ち構えているのでスピードを上げて隣に並び立つ。

「お前も今帰るのか?」
「ああ……俺は急な転校だったからな。いくつか再確認することがあったんだ。今更の話だが」
「そうだよなあ、今じゃすっかり『雷門の鬼道』、だもんな!」

 口の中にしっくりと馴染むその言葉の響きが嬉しくて、口の端を思いっきり横に引いていひひと笑う。そうすると鬼道もつられたように笑みを深めてくれるのを円堂は知っていた。

「何をしていたのも、どこへ行くのかも、顔を見れば分かるな」

 その場で駆け足を続けていた円堂の背を鬼道は軽くぽんと叩いて歩き出した。そのゆっくりとした歩みに合わせて小幅の駆け足で前進する。

「お前も来るか!」
「いいや、今日はやめておく。好きなものは最後までとっておく主義だ」

 ニヤリ、と音がしそうないい笑顔だ。明日式を終えたら、久々に仲間たちみんなを集めて試合をする予定になっている。鬼道もそれが楽しみで仕方ないのだろう。だが円堂はだからこそ、今日もサッカーに、雷門の仲間たちに触れておきたいと思うのだ。そうすれば楽しみも喜びも今日の分だけ増えるじゃないか。円堂の言葉を、鬼道はまた呆れたような笑みで聞いている。

「円堂はいつでも円堂だな」

 それは今日、色んなやつらから何度も聞いた言葉だった。呆れたふうだったり、愉快そうな笑顔だったり、表情や表現は様々でも悪い意味で言われたわけじゃないことはよく分かっている。だがそう何度も言われるとどうにも気になってしまう。雷門中サッカー部は特訓で体を鍛えて、色んな必殺技を覚えて、仲間と助け合いながら苦境を乗り越え心を強くし、少しずつ少しずつ成長してきた。円堂はそれをこの目で見てきたのだ。円堂にとってこの三年間は、毎日が変化の積み重ねだった。

「俺ってそんなに変わってないかなあ……」
「ああ。だから皆……お前のことが好きなんだろうな」
「そう……かなっ?」

 でもちょっとした弱気や不安なんて、仲間の一言ですぐにどうでもよくなってしまうのもよく知っている。照れ笑いをごまかしたくて大きく一歩を踏み出した。まるで気持ちが体を浮き上がらせているみたいに足が軽い。

「じゃあ明日な!」
「今日あいつは来てなかったはずだが……」

 明日のリハーサルのために今日は登校日になっていたが、少し特殊な進路を選んだ「あいつ」は休みだった。円堂ももちろんそれは分かっている。約束なんてしていないし、互いにどんな用事があっていつ終わるかなんていちいち話したりしていない。それでも、自信があるのだ。心に咲き乱れている花のひとつひとつがそれを知っている。

「大丈夫だよ!」

「たまたまだ」

 すぐ隣にぽつりと落ちた呟きを拾おうとしたが、ちゃんと見てろと豪炎寺に視線を前方に押し戻された。見下ろす河川敷のフィールドには幼い子供たちが所狭しと駆け回ってボールを奪い合っている。

「まこ、その調子だ! めげずにチャンス作れー!」

 ああ、とゴールチャンスを逃し落胆の声を上げたまこに間髪を入れずに声をかけてやる。先ほどまではKFCのメンバーと一緒になってボールを追いかけていたのだが、橋の上から河川敷を見下ろす豪炎寺を見つけたため、今は芝生で小休止だ。豪炎寺の言葉は、河川敷に降りてきたところに円堂がかけた言葉に答えたものだろう――珍しいな、ここ普段は通らないんだろ。

「どっかの帰りなのか? 今日、終わるの早かったもんな」

 そろそろ疲れで動きが鈍る者が出始めたのを見かねて、円堂は休憩の号令をかけた。それから、今度こそは豪炎寺のほうを向いて話を続けることにする。しかし豪炎寺はフィールドを睨み付けるように見つめたまま動かない。西へ少しずつ傾く太陽が豪炎寺の横顔を茜色に照らしている。円堂もそんな豪炎寺の返事を焦るでもなくじっと待った。

「すまない。本当は、たまたまじゃないんだ」

 豪炎寺は円堂をちらりとも見なかったが、それでも円堂の粘りに折れてくれたらしい。思わぬ言葉に何と返事をしてもいいか分からず目を瞬く。

「お前はその手だろ。ただでさえオレたちに付き合って無茶な特訓を続けて来たんだ。今日はいつものところじゃないと思った。でも時間はあるから、まっすぐ家に帰るとも思えなかった」

 今日は野生中との試合を終え、雷門中まで戻ってからそのまま解散ということになった。いつもならまだ練習をやっている時間だ。当然鉄塔広場での特訓を考えたが、野性中の激しい攻撃を受け続けた手では普段通りの特訓は難しそうだった。でも今日はこの目で、壁山と豪炎寺の努力が実るところを見ることができたのだ。大人しく家に帰って休む気になんてならなくて――全部、豪炎寺の言った通りだった。

「ここなら居るだろうと思って来た」

 ほら、もう練習再開でいいだろ、豪炎寺が手を伸ばして円堂の視線を遮ろうとしている。しかし今の円堂はそれどころではないのだ。ふわり、ふわりと心の中で花が開いていく。何かくすぐったさにも似たもので胸の辺りがむずむず騒いだ。それに突き動かされるように身を乗り出す。

「豪炎寺!」

 やっぱりその他に言うべき言葉が見つからないのがもどかしい。でもそれに返事をするようにやっと豪炎寺が円堂と目をあわせ、微笑んでいるのを見ると言わなくてもいいような気がしてくるから不思議だ。もっと知りたい、分かりたいと豪炎寺も考えてくれているように見えた。

「ああ、円堂」

そんなふうに豪炎寺が円堂の名を呼ぶと、そんな気持ちはいっそう強くなる。そうしてまた、円堂の胸の中に新しい花がふわりと花びらを広げるのだ。

「円堂」

 この二年ですっかり聞き慣れた、低く落ち着いた声が円堂の名を呼ぶ。そうしてまた、円堂の心に小さな花を灯す。笑顔で横に並ぶ豪炎寺に目を遣ると、豪炎寺も電灯の白い光の中でほのかな笑みを浮かべている。穏やかな笑みだった。太陽が沈むまで時間を忘れてボールとタイヤに向けていた、あのワクワクの笑みとは少し違っている。

「どうした。黙り込んで」
「明日のこと考えてたんだ! 楽しみでさあ、なんたって明日は卒業式なんだぜ!」

 円堂の言葉に豪炎寺はふ、と息を漏らして笑みを深めた。

「お前はいつも変わらないな」

 その言葉は、今日出会った仲間たちが、親しげな笑みや気安い呆れ、普段から寄せてくれる信頼や好意を込めて円堂に何度も贈ってくれたものだ。きっと円堂のことを褒めてくれているということは分かっている。でもそれを豪炎寺に言われるのは、なんだか変な感じがした。

「……ううん、そんなことない。変わったさ。いや、変わってるんだ」

 それをどうしても伝えたいと思った。豪炎寺は笑みを消して円堂の言葉のシュートを真剣に受け止めようとしている。だから円堂も、ゆっくりと時間をかけて放つべきボールを選ぶことができる。

「毎日、毎日。お前と出会ってから、毎日ずっと。ずっとだぜ?」

 豪炎寺が夕暮れの河川敷でボールを蹴った。その日から、円堂の心には毎日、毎時、毎秒違う色の花が咲き続けて風に時々揺れては匂いを立てている。この気持ちを知らない以前の自分と、今の自分とが同じものだとは円堂にはとても思えなかった。胸に手を当ててひとつ頷く。

「そうだな、俺も」

 隣から不意に生まれる豪炎寺の声はいつも通り静かだ。けれど胸の奥にいつも持っている熱い気持ちを感じさせるような芯の通った声にも聞こえる。西にわずかに薄紫が残っているだけの薄暗い空の下、それぐらいでは消えない炎を潜めている瞳と見つめ合う。豪炎寺も円堂に答えるように頷いた。言葉が無くても、それだけで嬉しくなる。これが花の咲く時の気持ちだ。

「あのな、豪炎寺」

 ただでさえゆっくりだった歩みが更に半歩分遅くなった。あと街灯三つと信号を一つ超えたら、豪炎寺とは別の道を行くことになる。豪炎寺は黙ったまま円堂の言葉を聞き、円堂に歩幅を合わせている。

「ずっと、何日、何ヶ月、何年経っても……何があっても、何が起こっても……」

 車の行き交う音がだんだん近くなり、円堂と豪炎寺の足音がどんどん聞こえなくなっていく。万が一にも掻き消されないように、円堂は大きく息を吸った。足を止めて豪炎寺を見つめる。

「俺と、サッカーしよう」

 限られたロスタイムでは躊躇わない。言葉を選んでいる時間は無いから、思っていることを直接声に出すしかない。けれどじっくり考えたってきっと、円堂には同じ言葉しか出てこないと思うのだ。豪炎寺はすぐにうん、とひとつ頷きを返した。円堂と目を合わせる。

「うん、円堂」

 たったそれだけの答えなのに、それはどんな言葉よりも円堂の欲しかった答えにぴったり当てはまってしまう。はは、何故だか自分でも分からない笑みが漏れた。こんなに嬉しいのに目元のあたりがぎゅっと熱くなるのは何故だろう。

「いつでも俺は円堂と同じチームに居る」

 これから先、円堂と豪炎寺が同じチームとして戦うことがあるか、相手チームとして戦うことがあるかさえも誰にも分からない。それでも円堂と豪炎寺はこれからもずっと、同じチームの同じ仲間だ。何があっても信じているし、困っているなら必要なだけ手を貸してやる。間違えていると思えばボールを蹴っ飛ばしてでも止めるし、応援したいと思えば何をおいても駆けつける。例え遅くなってもだ。それを円堂と豪炎寺は言葉の外で分かっている。そうしてまた、分かれ道に向けて臆せず歩き出す。

「じゃあ明日な」

 豪炎寺が笑顔で片手を挙げ、さっと体の向きを変えた。大きく右手を振り返して、円堂も笑顔でそれに答える。

「うん! 明日もな!」

 明日も、明後日も、その先も、多分いつまでも円堂の中に新しい花は咲くだろう。そんなふうに種をまけるようなやつと知り合えるのはきっと、何よりも最高なことだ。円堂はそれを嬉しく、心から誇りに思う。

 円堂と豪炎寺の間で、365日、毎日どこかで花は咲いている。

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