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明日、どこへ帰ろうか (炭義禰)



 ある冬のはじめ、よく晴れた日のこと。義勇は本宿という村の宿屋からのっそりと抜け出した。緩やかな坂の向こうには低い山の頂きが見えていて、真っ青な空と黒い山でくっきり二色に分かれている。またいらしてくださいねえ、明るい声が背中にかかった。この辺りはかつて義勇の警邏担当だったので女将にはすっかり顔と名前を覚えられている。義勇の後に続いて宿屋の戸をくぐったのは二人の男だ。一方は爽やかな笑み、一方は青く沈んだ顔、青い空と黒い山の如く対照的な顔色をしている。

「いやあ、実にいい山日和だねえ、先生!」

 爽やかな笑みを浮かべるのは見ず知らずの義勇に間貸しを持ちかけた変わり者の画家だ。「先生」と呼ばれたもう一方は画家の友人で、二人の母校である美術学校の講師をしていたらしいが、今は病を得て療養中の身だそうだ。療養というのは、心静かな環境で栄養のあるものをしっかり食べ充分に休むことだとかつて口酸っぱく言われたことがある。決して頬をこけさせた青い顔で、咳込みながら登山を敢行することではない。胡乱な目で画家を見るが、気づく素振りを一切見せずにこにこと周囲の景色を眺めている。

「あ、いたいた! 義勇さーん!」

 冬の朝の澄んだ空気に染み入る、明るくて柔らかい声に目を上げれば、坂の向こうから禰豆子を背負った嬉しげな笑みの炭治郎が駆けてくる。これから来た道を戻るような真似をしなければならないのに、少しも嫌そうな顔を見せていないことに安堵した。この男の性根は分かっているつもりだが、ここのところは厄介のかけ通しだ。今日も朝早く家を出なければならなかっただろうに。

 兄妹とも着物に羽織を重ね、動きやすいように脚絆を巻いている。今の義勇も同じような出で立ちだ。講師も体を冷やさぬよう綿入りの半纏を着込んでいる。いつもの外套を着る画家だけが浮いていた。

「やあ炭治郎くん、禰豆子さん」

 炭治郎とその背から下りた禰豆子は、気さくに声をかけてきた画家に何の含みもなく嬉しそうに挨拶をする。そしてそのまま人懐っこい笑みを講師へと向けた。

「始めまして! 竈門炭治郎です!」
「妹の禰豆子です」
「二人揃って「冨岡くんがここに居る理由」らしい」

 女優から聞いたのだろう。正すことも付け加えることもないので黙っておく。何故か炭治郎と禰豆子が突然恥ずかしそうに身を縮めているのだけが不思議だ。はじめまして、講師も咳でかすれた声で頭を下げた。画家が義勇にもしたような男の紹介をする。

「詳しいことは道々語ることにしようじゃないか。ひとまず出発しよう」

 丸眼鏡の奥に笑い皺を作って意気揚々と言う画家に、講師は青い顔を一層暗くして義勇や兄妹の顔を見回した。

「本当にいいのか」
「ああ、行くとも行くとも」

 宿屋から古い荷車を借りる手筈になっていたので、納屋のある店の横手に回ろうとすると、炭治郎がついてきた。するとその反対側には禰豆子がついてくる。

「大丈夫でしょうかね……」

 不安そうな顔で炭治郎は自分の鼻先に指を触れた。

「悪い匂いはしませんが、気が進まない匂いがしてますね……」

 それはこれまでの道中から言っても顔色から見ても明白だった。画家に強引に押し切られているのかと思うが、本人に戻る意思が無ければ進むしかない。描くのと同じくらい人が好きな人だから付き合ってあげて、禰豆子が懐に入れていた女優の手紙にはそう綴られている。薔薇が描かれた便箋に似合わない豪快で達者な崩し字だ。

 この前の埋め合わせをさせてくれ、画家の申し出を義勇はひとまず断った。決して悪い男ではないが、その男に拾われて居候している自分を含めて考えてみても、どうやら人に恵まれていない。元々それなりの商家の出だったらしく、人好きで交友も広いので、胡散臭い話に巻き込まれやすいようだった。冨岡さんっていい用心棒なのよねえ、と女優が漏らしたので義勇は自分が何故ただ同然であの家に置かれているのか知ったのだった。

 ともかく画家は諦めなかった。友人の生家で、両親が死んでからは誰も住んでいないらしいこと、景色が素晴らしいこと、雲取山ともそう遠くない山にあることを繰り返し訴える。大体は無視していたが、最後には女優が炭治郎たちに手紙を送って外堀を埋めてしまった。じゃあ檜原で会いましょうという手紙を受け取って義勇は面倒な抵抗をやめた。女優は画家の絵が好きだから好きなように描かせたいという。そのためにできることはなんでもしてやりたい、と。「絵も音楽もまるでだめ」な義勇にはよく分からないが、世話になっていることもまた確かなのだ。しかしまさか、病人を無理やり連れ回す旅になるとは思わなかった。拝島までは汽車で、その後は乗合自動車に揺られて本宿を目指したが、講師は始終辛そうだった。

 荷車に画家と講師を乗せ、炭治郎と義勇で引く。禰豆子はその隣をトコトコ歩いている。禰豆子も荷車に乗せようとしたり、炭治郎が一人で荷車を引こうとしたりで小さく揉めはしたが、結局この形に落ち着いた。

 小川の流れに沿って緩やかな道を選ぶ。狭い道はできるだけ迂回したが、岩肌に囲まれた狭い道などに出た時は、やむを得ず画家たちを下ろして荷車を縦に運んで進んだりもした。冨岡くんたちは力持ちだねえ、画家の言葉は相変わらず呑気に間延びしている。運んでもらっているのが心苦しそうな講師とはまた正反対だ。

 荷車の木の車輪が細い道をガタガタと進む。音に驚いたのか橙色の小鳥が飛び立って行った。ピイ、ピイゆっくり鳴くのは何の鳥だろう。頬に触れる空気は冷たい。時々木の根元に雪が積もっていた。ひやりとした風が吹くと山全体がさあさあ揺れ、顔に降りかかる木漏れ日も揺れる。体が冷えたのか襟巻に埋もれている講師が苦しそうに咳を始めた。

「あの、水を……」
「大丈夫だ。それより離れてくれ。うつるといけない」

 禰豆子が荷車の外から背をさすろうとするが、講師はそれを丁寧に遠ざけた。すう、はあ、苦しい呼吸をなんとか整える講師の横で、揺れるのも構わず画家は鉛筆を走らせている。

「戻らないか」
「何故だい」
「あそこはなんにも無いところだよ。何度も言うが、家も、今は誰も手入れしてないから人が暮らせるのかも……」
「行ってみなけりゃ分からないってことだろう」

 ケホ、ひとつ咳をして、講師は顔を歪めた。気弱そうな男に見えたが、今は苛立っているのが傍目にも分かる。炭治郎も禰豆子も不安そうな目を送っていた。

「街で暮らすのとは全然違うんだ。楽な暮らしじゃない」
「何を言う。街の暮らしだって全く楽じゃない」
「不便だし、人も多くない。出かける先だってほとんどありやしない」
「なに心配するな。暮らすのは冨岡くんだ」

 我関せずで車を曳いていたが、突然話が降りかかってきて思わず振り返ってしまう。講師は申し訳なさそうに顔をぐしゃりと歪めていた。

「僕が最期に一目見たいと言ったせいだろう。気持ちは嬉しいが、もう僕は死ぬばかりだ。面倒をかけたくない」
「そんなこと聞いたかなあ」

 画家が場違いなほど呑気な声で答えた後、誰も言葉を続けなかった。ガタガタと荷車が鳴り、鉛筆がサカサカ紙の上を走る音だけがする。

「俺は雲取山の育ちです」

 ちらりと横目で炭治郎を見遣ると、鼻の利く炭治郎はすぐそれに気付いて目を上げて笑う。

「昔は東京へ出かけることなんて考えたこともありませんでした。ずっと俺の山で暮らして行くんだって思っていたんですよ。村まで下りれば大抵の物は揃いますし、縁日には祭りもありますし」

 もし何もなければ炭治郎は今もそうして暮していただろうし、そうして暮していたかっただろう。けれど炭治郎はそう言わず、ただ明るく笑みを浮かべて荷車を押している。

「それに、綺麗ですよ」

 荷車の隣を歩いていた禰豆子が兎のように早足になって義勇の隣に並んだ。そして義勇の前に細い指を差し出す。その手の中でくるくる回っているのは真っ赤な紅葉だ。

「こっちのほうはまだ紅葉が残ってるんですねえ」

 雪も降ってそうなのに。無邪気に言った禰豆子は荷車を振り返り紅葉を差し出した。受け取ったのは画家のようだ。

「……今は誰も居ない家なんだ。何も無い家だ」
「それでも、帰りたくなるから不思議ですよね」

 炭治郎が振り向かずに言うと、講師は黙り込む。それから後は画家を止めることも無かった。時折苦しげな咳をするので、陽の当たるところで車を止めて休み休み進んだ。画家が気分が悪くなったと言ってへばってしまったせいでもある。ただ荷車に乗って絵を描いていただけなのだが。

 大岳山の麓を横切り御前山の中腹に入ったのは昼過ぎだ。半日は歩いただろうか。時々車に乗っていたとはいえ、禰豆子もよく歩いている。本当なら炭治郎が背負って走れば一刻の距離だ。歩くのは好きですけどくたびれましたねえ、陽気に笑っているのでらしいなと思う。

 狭かった道が急に広くなった。枯草に覆われているけれど人の手で均した道だ。講師があっと声を上げた。坂道の向こう、小高いところに一軒の小さな茅葺の家がある。止めてくれと言われたので立ち止まると、講師は足をもつれさせながら荷車を下りた。ああ、深くため息を吐いて家に引っ張られるように歩き出す。荷車を引きながらその後をゆっくり追った。

「学校へ行くために養子に出してもらって、それきりなんだ。死に目にも会えなかった」

 誰に言うでもなくそう呟いて、講師はよたよたと小さな家に近づいていく。とうとう閉ざした戸に触れた時、家の横手から鎌が飛び出してきた。反射で体が動き鎌の柄を蹴って弾き飛ばしてしまう。ヒイ、と悲鳴を上げたのは若い男だ。青い顔で尻もちをついている。

「う、うちに何の用だ!」

 声を聞きつけてか戸が開いて、ほっかむりをした若い女が顔を覗かせた。庭から駆け込んできたのは義勇の腰ほどの背丈の兄弟だ。何故すぐに背丈が分かったかと言うと、父ちゃんをいじめるなと腰に突進してきたからである。

「この人はこの家の主だから、帰ってきたんだよ」

 講師を手のひらで示す画家の言葉に若い夫婦はたちまち真っ青になった。二人は慌てて地に膝を付けたが、義勇だけがいつまでも少年たちに体当たりされていた。炭治郎は止めようとしてくれているようだが、幼い子供に乱暴もできず事情も分からずで困惑しているようだった。

 庭には物干し竿と小さな畑があって、カブらしき菜っ葉が青々と冬の陽の光を照り返している。火鉢が置かれた縁側で画家と講師は写生帖を片手に熱心に鉛筆を走らせている。病を気にして自分には近寄らないでほしいと申し伝えていたが、子供たちは画家たちの絵が気になって仕方ないらしい。庭を駆け回っては画家たちの前に戻ったり、縁側から居間に飛び込んで背後から遠目に絵を覗き込もうと試みている。そんな様子を講師は穏やかな笑みで眺めていた。この家には新しい生活が芽吹いている。

「落ち着くところに落ち着いちゃいましたね……」
「縁が無かったらしい」

 若夫婦はわけあって街から着の身着のまま逃れ、彷徨う内に、偶然この家を見つけたそうだ。もうこの家に戻ることはないだろうからと、家はそのまま若夫婦に譲られることになった。義勇も若夫婦を追い出してまでここで暮らしたいという気持ちは無かったから特に異も無く受け入れている。

「残念ですねえ」

 しかしむしろ炭治郎のほうがこの家を気に入ってしまったようだった。炭治郎が気に入ったならここに決めてしまっても良かったのだが。今回も結局画家のおかげで厄介事に巻き込まれただけに終わってしまった。何度も道連れにしてしまった炭治郎と禰豆子には本当に悪いことをした。

「街も悪くはないですけど、俺は山の育ちですから」

 ちょっとした高台のようなところに家を建てているから、庭から見える景色は開けている。画家たちが熱心に描いているのもこの景観に違いない。紅葉の混じる冬の山が麓まで続き、奥多摩湖が青空をそっくり映してきらきらと輝いている。その向こうには黒く連なる山々。その内ひとつは雲取山だ。もし義勇がここに住むことになったら、きっと毎日それを見ることになっただろう。そう思えば確かに少し惜しい。

「冬は少し大変だけど、夏は涼しいし、食べるものも大体は自給できます」
「参考にする」

 特に街にこだわりがあるわけではないから、炭治郎の言葉に沿って山中の村を探すことにするべきか。それにしても埋め合わせとは一体何だったのか。今度こそ画家を信じず村田か誰かに声をかけよう、次の家のことを考え始めた義勇を炭治郎が小さく笑う。少し寂しげな笑みに見えたが理由は分からない。

「俺にとってはやっぱり、こういう景色が綺麗だと思います」

 義勇が何か口を挟む前に炭治郎は目を湖のほうへ向けた。そして右手を伸ばし、義勇の左腕に触れて一歩下がる。意図が分からずに首を傾げた。

「それで、俺が綺麗だと思うところに義勇さんが居てほしい」

 どんな景色が見えているのか義勇からは当然見えないが、義勇を瞳の真ん中にして炭治郎は満足そうだ。何と返せばいいか分からず黙ってその優しい目を見つめ返す。気まずい沈黙ではなかった。何故か胸があたたかい。

「こっちこっち! 山茶花が咲いてるよ」

 子供たちの元気な声につい目が向いた。それに合わせて炭治郎の指も離れていく。

「わあ、ほんと! 湖挟んだだけなのにやっぱり違うんだねえ」

 初めは剣呑な雰囲気だったとはいえ、普段は全くない客人が突然五人も現れたことに子供たちの興奮は冷めやらない。画家たちが自分たちの相手をしないと見るや、次の標的を禰豆子に定めたようだ。禰豆子の腕を片腕ずつ引っ張り、庭木の案内を始めている。いくつも花をつける山茶花に感動したらしい禰豆子は、こちらをくるりと振り返った。黄色い芯の鮮やかな紅色の花を背に、山の冷たい空気で頬を赤くした禰豆子は手を大きく振った。お兄ちゃあん、義勇さあん。見てください!

「俺は」

 ふと、禰豆子の笑みを見ていると呟きが漏れ出た。

「お前たちの心の中に家を探しているのかもしれない」

 随分長く、義勇にはどこにも戻るところが無かった。起点が無いから、いつも自分が前へ進んでいるのか後ろへ進んでいるのか分からなかった。姉と暮らした家はもう無い。友に救われただけの自分は隊に居られない。友のために何もしてやれなかった自分は、死んだとしたって狭霧山にも帰れない。帰るところが無いから帰りたいという気持ちも薄れていった。自分にできることをひたすら繰り返す。ただ悲しみの中に弱さと甘さを捨てられずに居る人間を作りたくなかった。そういう人間はまた他の大切な誰かを死なせる。その想いだけが道標だ。鬼を狩りながら自分自身も幽鬼のような暮しだった。何も無ければ──炭治郎と禰豆子に出会わなければどこへも行けないまま一生を終えただろう。

「残したいと思った」

 この二人に何か残したい。ああ義勇はこういう人だった、と時々思い出されるような何かを。それが二人に連なる人たちに何代にも渡っていくものなら尚いい。

「残りたい。いつまでも、そこに」

 見失っていただけで、姉や錆兎の記憶の中でも、鱗滝や隊の仲間の元でも、義勇はどこへだって帰れた。戦いの中でも、戦いを終えてからも、誰もがそれを教えてくれた。だからそのおかげで生まれた願いを叶えるために動いている。炭治郎や禰豆子が想ってくれるなら、義勇はその中で生きたい。最後はそこへ帰りたい。

 黙り込んでいる炭治郎を見ると、目に涙がいっぱいに溜っていた。これまで誰にもできなかったことを言ったとおりに立派に成し遂げた男だというのに、柔らかい性根は全く変わらないものらしい。鉱石のように黒い瞳の底、赫い光が片方だけに灯るようになったのが少しだけ残念だ。燃え盛る炎から零れる煌めきに似てとても綺麗だから。

「それなら、探さなくったって良かったんですよ。もうあります」

 眉を下げ、涙が零れないよう目元に力を入れたおかしな笑みで炭治郎が笑う。対する義勇は目が点になってしまった。まさか既にあるなんて考えてもみなかった。それなら最初に確認すべきだった。慣れないことをしたせいで初手を誤ったらしい。

「そうか……」
「はい」

 すっかり炭治郎にも禰豆子にも厄介をかけてしまった。申し訳なく思ったが、零れる前に涙を拭いこちらを覗き込む炭治郎の笑みは心底嬉しげだ。

「のんびり探すか、それなら」
「はい!」

 結局、これ以上振り回されてはたまらないと義勇は熱心な引き留めを振り切って画家の家を出た。納得のいく家が見つかるまでの当座の住まいならと、狭霧山と雲取山とのちょうど中間あたりの村にさっさと居を構えることにしたのだった。相変わらず画家と女優は自由気ままに暮らしているらしい。文通をしている炭治郎が、禰豆子や善逸、伊之助と共に遊びに来ては近況を教えてくれる。冬の終わり、炭治郎が見せてくれた手紙の隅には薄紅の鮮やかな山茶花が描かれていた。

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