ある冬のはじめ、よく晴れた日のこと。義勇からの手紙を受け取って、禰豆子は兄と共に義勇が居候する家へとトコトコ出発した。手紙の隅には薄紅色の蝶が茎にいくつも群れているような、可愛らしい花が描かれている。木蓮の花に似ているが季節ではないから、今回も画家が異国で見たという花なんだろう。街に出かける時のお決まりで、山から下りのどかな村が続く間は兄に背負ってもらい、人の多い村が増えてくる新宿あたりから汽車に乗り込む。目印だと教わった神田駅で降りたまでは良かったけれど、家々が今にも弾け飛ばんばかり詰め込まれて並ぶ街中、車に乗せてもらって一度訪れただけの家を再び探し出すのは大層難しかった。住所を手がかりになんとか家に近づいたところで、誰もが「女優と絵描きが住んでいて、最近謎の色男が出入りしている家」を知っていたので助かった。間違っていないけれど大げさになっている噂がちょっとだけ面白くもあった。
義勇が居候している家は他の家に囲まれた奥まったところにあるので、柴垣と竹垣の間の狭い道を通らなければ姿も見えない。江戸の頃、大きな旅籠があったところにいくつか家を建てた名残だと聞いた。旅籠のちょうど庭辺りに建った家らしい。玄関の格子戸の隣からすぐ小さな庭が見えていて、苔むした石燈籠や景石らしきものが紅葉をわずかに残した木の下に息を潜めている。
「来たか」
「こんにちは! 遅れてすみません!」
匂いに敏い兄が庭に身を乗り出すと、気配に敏い義勇と言葉が重なった。禰豆子もごめんなさいとそれに続く。縁側から亀のように首を伸ばした義勇は、いつもと全く変わらない、怒った様子もない顔で手招きをした。いいのだろうかと思って兄妹で目を見合わせたが、義勇はこちらを不思議そうに見つめ続けている。待たせているのがかわいそうな気持ちになり、ひとまず縁側に近寄った。こういう時、禰豆子は一瞬だけこの「義勇さん」が立派な大の男の人であることを忘れる。
「迎えに行くと言ったのに」
縁側にあぐらを掻く義勇は、まず呆れたようにそう言った。歩き回ってすっかり体が温まり、禰豆子は襟巻を取って腕に引っ掛けているし、炭治郎は羽織まで脱いでしまっている。ぽっぽっと熱の上る頬は赤くなっているだろう。約束の刻限にも間に合わなかったので、義勇は大体の事情を察したようだ。義勇の足元で首を縮めて小さくなっている鴉がご苦労、と鳴いた。
「本当にすみません……でも! もう覚えましたから! 今度こそ!」
炭治郎が意気込んで言う。禰豆子も頷いた。義勇に足を運ばせるのは悪いという気持ちもあるし、入り組む街に慣れていない二人の見通しが甘かったこともある。しかし次回は今回の反省が活かせるはずだ。近くまで来ればみんなこの家のことを知っている。ただ念のため次からは兄の鴉の松衛門に付いて来てもらうようお願いしたほうがいいかもしれない。家に戻って迷ったことを伝えたらもの凄くお小言をもらってしまいそうだけれど。
「蕎麦くらい食わせるつもりだったが」
「大丈夫です! 汽車でおにぎりを食べました!」
「そうか。楽しみが奪われたな」
声の調子はあっさりしているけれど、縁側から二人を見上げる義勇の顔色は優しい。禰豆子の遠い記憶の中に残る義勇は遠くに居て、冷たくこちらを見下ろしてくるのに、戦いを終えて顔を合わせる義勇はいつも近くでこういう顔をしている。冬の白い日差しが涼しく通った鼻筋や蒼い瞳に滲んで光ると、余計に柔らかく見えるのだった。
「帰りに食べよう」
謝ればいいのか喜べばいいのか分からなくなっている兄妹を義勇はおかしそうに笑う。二人揃って元気な返事をすると、満足した様子で立ち上がった。縁側から居間に入って、洋琴が置かれている壁に掛かった上着を手に取る。先日も見たとんびだ。画家から押し付けられたお下がりらしい。
「義勇さん」
肩に上着を引っ掛けて袷を引き寄せる義勇に声をかけ縁側まで戻ってきてもらう。
「手袋ありますか?」
「ああ。すまない」
画家によると、とんびを着る時は必ず手袋が必要だそうで、義勇も律義にそれを守っている。ただ片手だと不便だろうから、ミルクホールで手袋を付けるのを手伝ったことを思い出したのだった。義勇は素直に懐から革の手袋を引っ張り出して禰豆子に引き渡す。腕に抱えていた襟巻を首にかけそれを受け取った。
「手を借りますね」
縁側に膝を付いた義勇は、指の長く古傷がうっすら残る白い左手を冬の日差しの中に伸ばす。禰豆子と比べると随分大きい。ふと視線を感じて振り返れば、炭治郎がじっと禰豆子を見ていた。どうしたのと問えば、なんでもないと慌てて首を振る。気にかけつつも手袋の口を開き、引っかからないように気を付けながら丁寧に引っ張った。よし、できた、そう思った時、黒い手の甲の先、床の上に何かがあることに気がつく。
横長の帳面が開かれていて鉛筆が転がっている。白い紙の上に描かれているのは葉を残した楓の木に石燈籠、それから景石。まさに今目の前にある庭の景色だ。
「わあ、すごい! これ義勇さんが?」
帳面を掬い上げて義勇を見上げた。いつもと変わらない表情だが、少しだけばつが悪そうにも見える。照れているのかもしれない。隣の炭治郎も覗き込んで、おおと感嘆の声を上げた。
「本当にすごいなあ! そのまま貼り付けたみたいですよ!」
「……褒め過ぎだ」
前の面を見たら分かると言われて紙を繰ると、紙いっぱいに女の人の横顔が描かれていた。まるで写真のように影まで描かれていて、頬に触れれば柔らかい感触が返りそうだった。画家が女優を描いたものらしい。炭治郎と二人、これが本職の仕事なのかとしみじみため息を吐く。
「あれだけ熱心なら、何か意味があるものかと思ったが」
写生帖を貸してやると言われて、手慰みに目につくものを描いてみたらしい。紙をまた繰って義勇の絵に戻り、庭を振り返ってみる。確かに画家の絵とは比べられないだろうけれど、そこにあるものをできるだけ丁寧に、素直になぞろうとする線には人柄が滲んでいるように思えた。
「そこにあるものが描けただけだった」
「いやあ、君はなかなか、面白い着眼点を持っているね」
男の人の声が新たにのんびりと混ざり、禰豆子は慌てて体を縁側に戻した。炭治郎と一緒になって頭を下げる。お邪魔してます、こんにちは。
「はいはい、いらっしゃい」
この家の主である画家は、炭治郎と禰豆子が挨拶もなく庭に居ることを全く気にしていないようだった。女優は舞台出ているから夜まで戻らないと気さくに教えてくれる。丸い眼鏡の奥、目尻の笑い皺が深い。ひょろっとした体つきの人なのだが、裾が広がっていない肩紐の付いた洋袴を履いていると余計に縦長に見えた。ところどころ汚れているのは色墨だろう。
「さっきの話、もう少し詳しく論じようじゃないか」
優しくて穏やかで親切な人だが、義勇にとっては理解できない言動が多い困った人らしい。歩み寄って肩に手を置く画家に何も返さず、わずかに眉を寄せたなんとも言い難い表情をしている。助け船を出してあげないと、炭治郎とちらちら視線を交わしている時、ごめんくださいと男の人の野太い声が玄関から聞こえる。ああ、もう時間か、画家は残念そうに言った。義勇がこれ幸いと玄関に向かったので禰豆子と炭治郎も庭から玄関へ戻ることにする。
「炭治郎くん、禰豆子さん。花だよ」
一歩踏み出したところで、画家がまたにこにこと声を上げた。今度の家は画家の知り合いからの紹介だというが、急いで客を迎えようという素振りは全然見えない。義勇の代筆をしている几帳面な細い字とはあまり結びつかないのんびり屋だ。
「暮しには花が無きゃあならない。いい家はね、そここそだよ」
禰豆子はきょとんと目を丸めた。分かるような、分からないような。もう少しじっくり考えたいが、義勇を待たせるわけにもいかない。はい、と元気よく返事をしたのは炭治郎だ。
「よく分かりませんが、分かりたいと思います!」
「うんうん、いい返事だ。またスケッチさせてくれ」
「ええと、は、はい」
まごついて即答できない気持ちは禰豆子にもよく分かる。じいっと挙動のひとつひとつを見つめられ、たまに思ってもみないところを褒められつつ、ひたすら筆が走る音を聞いている時間は何故だか気まずい。今日も決まってるね、画家は壁に掛かるパナマ帽を取り合げて炭治郎の頭に置いた。「それを返しに来た時でいいから」と屈託なく逃げ道を潰している。今日の炭治郎はいつも着ている市松模様の着物を羽織にして、芥子色の着物を下に着ている。善逸が貸してくれたものだ。いつもは着ない立襟のシャツや袴を褒められ、炭治郎は恥ずかしそうに目を伏せて礼を口にしている。我が兄ながら、可愛らしくてこっそり笑ってしまった。
それにしてもこの画家は不思議な人だ。家を勘当された売れない画家だと言っていた。女優も家を飛び出して舞台に立っているから、貧乏者同士が好きなことを続けるために助け合って暮らしているという話だったものの、どうにも困窮しているようには見えない。義勇から家賃をろくに受け取っていないと聞いたし、こうしてなんでもかんでも人に物を貸したりあげたりしている。街では山菜も果実も川魚も採れそうにないのに、貧乏だと言うならどうやって暮しを立てているんだろうか。異国へ行ったことがあったり、元々の育ちが良さそうなのは覗えるけれど。
「あ、禰豆子さん」
「はいっ?」
もう歩き出していたので思わず声までつんのめった。画家はそれを気にしたふうもなく、「持ったままだよ」と言う。手の中にある写生帖のことだと気が付いて慌てて差し出すと、画家は義勇が描いた絵をぺりぺり破いて引き換えてくれた。勝手にいいのかなあ、と思いはしたが、元々はこの人の写生帖だ。礼を言って受け取り丁寧に折り畳んで懐に納めた。そんなに気に入っていることが分かりやすかっただろうか。不思議な人ではあるが、悪い人ではないと思っている。
画家の知人だという男の人は縦長の画家とは正反対に横長な人だった。高等小学校の同級生だと言うが、画家はよく覚えていないけどそういうことらしいから、と答え、じゃあよろしくと家の中に引っ込んでしまった。男の人の頬はひくついていたし、画家も一緒に行くのだろうと思い込んでいた炭治郎と禰豆子の目は点になったし、慣れているのか呆れ切った表情の義勇のため息は長かった。悪い人ではないけれど、やっぱり不思議な人なのだ。
画家の知人は、小物や食器を異国から仕入れる商売が当たってまとまった金が手元にできたので、家を買ったり売ったりするようになったらしい。上野あたりの下町は商売に失敗した奴も多いですからねえ、そういう家は安く買い叩けますから。他よりも安くいい家を紹介できると思いますよ。しかしあいつもいつまでも絵なんか描いてないで頭を下げて家に戻りゃあいいのに。あの家だったらもっと色んな商売ができますよ、調子よく口を回しながら小路を抜ける。
目的地は上野の近くと聞いて、義勇は人力車を断った。どうやら神田からそう離れていないようだ。車はそちらで使ってくれと言う顔に表情は無く、一見すると何を考えているか分からない。商人はそれに気圧されたのか、分かりましたと素直に頷いた。市電の仲御徒町駅で落ち合いましょうということになり、早速義勇はスタスタ歩き始める。それを炭治郎と二人、特に疑問もなく追った。角をいくつも魚のようにスイスイ曲がって、線路がある通りに出る。
「詳しいですねえ」
「半年も住めばそうなる」
感心する炭治郎に、当人にとって何の苦もないことを答える声は素っ気ない。道沿いに小さな店が並び、人が立ち止まったり入ったりしている。屋台を引く男の人を追いかける子供たちや、泣く赤子を背負って歩くお母さん。学生服の男の人たちが楽しそうな笑い声を上げてすれ違っていった。騒がしいのに、空風がひとつ走って目の前のとんびの羽が浮き上がると静かだなあと思う。こういう時、禰豆子は一瞬だけこの「義勇さん」が親しみやすくて子供みたいに素直な人であることを忘れる。なんとなく、肩にひっかけたままだった襟巻を巻き直す。
「すまないな」
雨の降り初めにぽたりと水玉がひとつ落ちるような声だ。するとたちまち、前を歩く人の肩が沈んでいるように見えた。義勇はきっと、あの商人が紹介した家には住まないだろう。炭治郎も禰豆子もきっと勧めない。それが互いに分かっているから、山から下りてここまでやってきた二人に悪いことをしたと思っているようだった。一瞬で遠い人にはもう見えなくなっていて、小走りになって義勇の左腕に手を添え顔を覗き込む。炭治郎も同じように右側から義勇を挟んでいた。
「義勇さん、お蕎麦食べましょうね。私おかめ蕎麦がいいです」
「また早食い勝負しましょう! 義勇さん!」
驚いた様子で禰豆子と炭治郎を交互に見ていた義勇は、ふっと眉を下げて笑う。
「早食い勝負はもういい。決着まで時間がかかる」
「ええっ」
蕎麦の話、好物の話、更には好きな山菜の番付を炭治郎と二人でつけ合いつつ、並んで橋を渡る。電線沿いに二本の尾をピンと張り、すまし顔で三人を追い越して行く電車を物珍しく見物し、四半刻ほど歩いたところだった。
「昼時までの約束だろう! 分かってるのか? 立ち退きの期限は今日だぞ!」
行く先に怒声を上げる青年が居て、道行く人々の目を集めている。今日の炭治郎と同じような書生風の身なりだが、遠目に見ても質の良い生地で服が仕立てられて居ることが分かる。二人の大男たちを後ろに控えさせていた。対して、怒鳴られているのは手ぬぐいでほっかむりをした壮年の男の人だ。半纏に股引という動きやすそうな格好をしている。男の人が背にする軒には紺色の暖簾が下がっていて、「そば」と太く書かれていた。店の中からもくもくと湯気が上っている。
「堪忍しちゃくれませんか。世話になった奴らに限り限りまで蕎麦を食わしてやりてえ」
「仕方ない。ここは力づくで……」
青年が深いため息を吐いてほっかむりの男の人の肩に手をかけ、後ろに控えていた男たちが前へ歩み出た。周りの空気がざわりと波立つのを肌で感じる。
「炭治郎」
「はいっ!」
声を上げたのは義勇が先だったが、飛び出したのはほぼ同時に見えた。風だけが残って砂埃が巻き上がる。禰豆子が声を上げる間もなく、義勇は二人の男の足元に滑り込んで体勢を崩させ、それぞれの腹に膝を入れて昏倒させていたし、炭治郎は青年の腕を背中に捻り上げ膝でその背を地面に押さえつけていた。ざわめきに揺れていたはずの空気は陽気すら感じる冬の晴天の下ですっかり凍っていた。
「あれ?」
その凍った湖面にまずひびを入れたのは炭治郎だ。きょとんと眼を丸めて、まじまじと青年の顔を覗き込む。
「何者だてめえら! 坊っちゃんになんてこと、おい! なんだコイツぁ! ビクともしねえ!」
怒鳴られていたはずのほっかむりの人が我に返るなり青年に駆け寄り、なんとか炭治郎の腕を外させようと組み付く。炭治郎はそれに構わずスンスン鼻を鳴らし、捻り上げていた手を解放した。ごめんなさい、勘違いでした、大丈夫ですか、平謝りしつつ呻く青年を助け起こし、近づいてきた義勇と禰豆子に困った表情を見せた。
「義勇さん、この人、すごく親切そうな匂いがします」
「すみませんでした!」
「すまない」
「ごめんなさい」
上げてもらった店の座敷で、三人揃って深々と頭を下げた。正面に座るのは青年で、隣にはほっかむりの男の人が座り、周囲を店で働く人びとが取り囲む。義勇が物の見事に伸ばした大男二人は座敷の隅に寝かされた。
「まあ、あそこだけ見れば誤解もするかもしれんが……」
捻り上げられた腕を揉み込みながら青年が答えた。表情も声も刺々しいが、怒りより呆れが強いように見える。ここは江戸から長く続く蕎麦の老舗で、屋台から始めたものが何代もかけて大きくなり、今では料亭のような立派な店構えを持つようになったらしい。青年は当代店主の息子だ。
「父が死んで、僕もこの店を継がないから今日を限りに店を畳む。これはもう決まったことだ。店じまいも昨日だったんだ」
青年が滔々と言葉を重ね、その度に座敷に座る人びとの顔が暗く俯いていく。障子窓から入る薄い光にぼんやり照らされるだけの部屋は薄暗い。古い柱や梁には年季の入った影があり、皆の暗い気持ちが貼りついているようにも見える。
「あの人たちは……」
「ただの引っ越しの手伝いだよ」
「……そうでしたか」
大男二人を指して問う炭治郎に青年がつっけんどんに答える。目を伏せた炭治郎はちらりと義勇の顔を見上げた。義勇も炭治郎を見下ろしているのだが、禰豆子からは表情は覗えず言葉も無い。不思議には思うが、後で教えてもらうことにする。そこにどんなやり取りがあるのか何も分からないことが少しだけ寂しい。
「誰か、代わりにこの店を継ぐことは難しいんでしょうか?」
兄が問いを変えると、店の人びとの顔色はますます暗くなってしまった。青年の顔色も険しい。重い沈黙で部屋中がいっぱいになり息苦しくなった頃、はあと青年が乱暴に息を吐き出した。
「父は底抜けのトンチキ……愚か者だった」
「坊っちゃん」
「本当のことだろ! この店のためならまだしも、赤の他人のためにこの店を借金のカタにするなんてどうかしてる!」
吐き捨てるように言い、声を荒げたことを後悔する表情で青年は顔を歪めた。ギリリ、と歯軋りの音がして、気持ちを無理に押さえつけるように息を吸う。
「僕もそうしたい。蕎麦打ちにこそならなかったが、この店には愛着がある。だけどこの土地はもう僕のものじゃないから、どうしようもない」
青年の言葉に幾人かがすすり泣きを始めてしまった。青年はまたため息を吐いて頭を重そうに手で支えている。
「そのお金を借りた人は……」
「尻尾も掴めない。失敗して逃げたのか、最初から騙す気だったのか知らないが……。父は元々頼られると断れない人だった。よりにもよって死んだばかりでこんな話が出てくるなんて。商売人のくせに人を見る目が無い……」
「助けたかったんでしょうね、その人を。心から」
青年が滝のように連ねていた悪態が炭治郎の呟きでピタリと止まった。代わりに呻き声を上げたのはほっかむりの人だ。赤くなった目を泣きそうに細めている。
「優しい、本当に優しい旦那でした。あっしにとっちゃあ兄貴みたいなモンだあ」
すすり泣きの声がまた増えた。青年に反対したり怒ったりする人が居ないばかりか、店を閉めると分かっていてもたくさんの人が残っている理由が分かって禰豆子の胸も苦しい。周囲を見渡した青年は一度だけ悲しそうに眉を下げたけれど、すぐに顔をしかめた。
「死んだ者がどれだけ美しくとも一銭の足しにもならない。少なくて悪いがもう出してやれる金も無いんだ。いい物は皆に分けるから、片付けを──」
金なんて要りませんだとか、坊っちゃんの学校はどうするんですかだとか、青年の言葉を猛然と店の人々が遮った。声を上げている人はほとんどが年嵩の高い人だから、きっと長くこの店で働いていたんだろう。店と同じように青年にも愛着があるように見えた。
「あのう! 俺たちがお店のお手伝いをするのはどうでしょう!」
右手をバビッと掲げた炭治郎に店の人びとの注目が集まる。
「乱暴してしまったお詫びもしたいですし。その人手をお片付けに回してください。夕時を過ぎたらお店の方も片付けたらどうですか。俺たちも手伝いますから、きっと今日中に終わりますよ」
「いや、三人くらいで何が……」
「ありがとなあ」
「アンタら、なんっていい奴らなんだ。とんだゴロツキかと思やあ」
「おい、いい口実ができたと思ってるだろ」
「嬢ちゃんたち、汚れないように服を替えるかい?」
「ほら、たすきだよ」
青年の言葉を店の人々がまたも遮っている。青年は間違いなく慕われているだろうけれど、尊敬されているかと言われるとまた話は違うようだった。
「義勇さん、いいんですか?」
たすきを受け取りつつも義勇の顔色を窺う。事情を聞いたからには何か力になりたいのは禰豆子も一緒だけれど、元々の用事は別にあったはず。兄がそのことを一切忘れているのも妙だ。義勇は特に気分を害した様子もなく、目を縁取る分厚いまつ毛をぱたりと上下させて頷いた。
「蕎麦を打ったことはないが、まあ何とかなるだろう」
そうじゃないんです、義勇さん。
画家の知人が待っているだろうことを伝えると、あっと声を上げたのは炭治郎だ。目的の駅まではすぐそこらしいので、すぐに戻ってくると義勇が出て行く。潔く断ってしまうのか、日を改めるのか。もうそれなりに待たせてしまったんじゃないだろうか。怒っていないといいけれど。あまり好きにはなれそうに無かった人ではあったものの、禰豆子は心の中でごめんなさいと謝って義勇の背に託した。
「そばー、そばー、うどん」
穏やかな川の流れに似た耳に心地よい声が厨の外でしている。もう何度も聞いたのに耳に入る度笑みが出る。道行く人に話しかけられて、「とてもうまいぞ」なんて朴訥と売り込みをしていると更におかしくなってしまう。
後ろに流していた髪をまとめ直した禰豆子は厨に入り、左手が動かない炭治郎は茶汲みや片付けの手伝いをすることになった。そこに戻ってきた義勇は幟看板を片手に店の呼び込みを引き受けたのだった。蕎麦屋の厨は道に面していて、外に置いた腰掛でも蕎麦が食べられるようになっているので義勇の姿がよく見える。屋号が入った羽織をとんびの上から着た「謎の色男」は良くも悪くも目立っていた。格好の奇妙さに引き寄せられた客に店じまいを知ってやって来ている馴染み客が重なって、昼時は過ぎているけれど大繁盛だ。店主の息子は片付けをすると言って引っ込んでしまったので助かった。手伝うどころか仕事を増やしていると文句を言われたっておかしくない。
座敷にいっぱいになっている客の間をくるくる駆け回っている兄も、借り物の着物を脱ぎシャツ一枚に店の羽織を着て袴に前掛けをしたなんだかちぐはぐな格好だ。大きい声で挨拶や返事をするので、威勢がいいと褒められているのがよく聞こえた。その度にやっぱりおかしくなってネギを切ったり漬物を盛ったりしながら笑ってしまう。昔からそうなのだ。素直で真面目で愛嬌のある兄はとにかく人に好かれる。禰豆子もそんな兄が好きだから家族にも例外はない。義勇もきっとそうだろう。
忙しく立ち働いていると炊き込みご飯の火を任された。気をつけつつレンコンをとすとす切る。これは天ぷらときんぴらになる予定だ。伊之助が居たら間違いなくつまみ食いに走っている。道に面したところに蕎麦用の釜があって客から茹でる姿が見えるようになっているが、壁沿いにもずらっとかまどが並んでいて、蕎麦以外の色々な品を作っている。店の構えだけでなく中身も料亭のようだ。
「アンタ、よく働くねえ」
「えっ」
客の器を下げてきた仲居が感心したように声をかけてくる。集中していたので間抜けた声を上げてしまった。
「アンタたちのおかげでお客さんの顔が限り限りまで見れて本当に嬉しいよ」
厨に居る他の人たちも口々に禰豆子の働きを褒めてくれるので恥ずかしくなってしまった。いえいえそんなと、レンコンから手を離して振る。
「私は何もできないです、いつも。お兄ちゃんや義勇さんはすごい人ですけど」
「何言ってんだ。アンタが一番働いてるじゃないか」
あのうっつくの何倍も働いてるよ、と蕎麦打ちが言うと皆笑う。うっつく、首を傾げると風体の整った人のことを言う下町の言葉だと教えてもらった。その間に仲居に包丁を奪われ、代わりに手ぬぐいを渡される。
「日が暮れたらまた客が増えるから、今の内に賄い食べときな」
「アンタさっきおかめ蕎麦が好きって言ってたろ、用意してやらあ」
気が付けば格子窓の向こうは夕暮れが滲んでいて、いっぱいだった座敷に隙間ができている。兄貴とうっつくにも声かけて二階の座敷を使いなと言われてとりあえず頭を下げてお礼を言った。うっつく、義勇さんのことだった。
お客さんと話ながらテキパキ座敷を拭いている炭治郎に声をかけ、二人で店の外に出た。通りに面した店は閉める準備を始めたり、提灯に火を入れたりしている。義勇は特に疲れた様子も無く、夕暮れの中愚直に蕎麦とうどんを道行く人に勧めていた。白い面に茜色を滲ませ、何の用かと首を傾げる。義勇さん、少し休みましょう、声をかける前に幟を肩に預けた義勇が腕を伸ばした。おかしそうに口元を緩ませて炭治郎の頭を撫でている。
「ぐしゃぐしゃだな」
「あっ、えっ、ああー! さっき、お客さんにこう、ぐしゃぐしゃーっと、それで」
突然のことにしどろもどろになっている兄の頬は夕焼け色よりも赤い。こういう、兄の子供っぽいところを見つけるとなんだか嬉しくなってしまう。隠れて笑うと、髪を整え終わった義勇が禰豆子に目を向けた。
「お前たちはどこへ行っても好かれるな」
「えっ」
「聞こえてた。食べてこい。俺は後でもいい」
考えてみれば厨から義勇の声は聞こえていたのだから、その逆もまたそうだろう。炭治郎や善逸、伊之助程でなくても義勇には鬼殺隊で鍛えた鋭い感覚があって、多少離れた物音なら聞き分けられるようだ。褒められていたところを聞かれていたと思うと何故だか恥ずかしい。それと気まずい。義勇さんはとても頑張っていると思います。お客さんもたくさん来ていたし。今口にすると真心だと思ってもらえそうになくて兄と同じく口ごもってしまった。
「俺が替わりますから! 二人はお先にどうぞ!」
炭治郎は赤みの引き切らない顔で義勇から幟看板を奪い、驚いている義勇の背をその手で店の中へぐいぐい押し込む。別に三人一緒に休んだって構わないはずだが、きっと落ち着きたいんだろうなあ、と気持ちが分かって禰豆子も大人しく店の中に入った。腑に落ちていなそうな義勇を厨へ引っ張っていく。
二人が先に休みを取ることを伝えると、それなら一つは坊っちゃんに持っていってくれと頼まれた。二階の物置で片付けを続けているらしい。三つの蕎麦の椀が乗るお盆を抱えたのは義勇だ。
「私も持ちます、義勇さん」
「いや、言う通り、俺はお前ほど働いていないからこれくらいはする」
厨がシンと静かになったが、多分、これは義勇なりの冗談である。大男二人を簡単に伸ばしてしまったところを見たせいか、どうも店の人たちは義勇に対して近寄りがたいと思っているようだった。その誤解が解けそうにない、というか更に深まっていそうなのは残念だ。
薄暗い急な階段は板を踏む度にきゅうきゅう鳴る。禰豆子などは壁に手を当てていないと不安になってしまうのに、重いお盆を片腕で持っていても危なげなくスイスイ歩いている義勇はさすがだ。
階段を上り切った右手側には障子戸が二つ並び、左手側の奥の方に木戸があって口を開いている。こちらが物置だろうと見当をつけて覗き込むと、ランプの橙色の光が青年の背をぼんやり照らしていた。声をかけようと踏み出せばきしりと古い床板が軋む。
「そこ置いといてくれ」
蕎麦の匂いで賄いだと分かったのか、青年はこちらも見ずにそう言った。目が慣れると物置には大きな箪笥が置かれ、葛籠が雑然と積まれているのが分かる。
「すまねえな」
どうしようか迷って、後ろに立つ義勇のお盆から椀を一つ取り、膝を付いて入口のすぐ横に置く。箸はその上に載せた。誰かが入ってきて蹴り飛ばしたらどうしようかと思って、ずずずともう少しだけ戸口から遠ざけてみる。
「人のことなんか言えやしねえ。片付けなんざやりたくなかった」
青年の話しぶりが変わっていることに気がついた。店の人たちと同じ下町の言葉だ。独り言なのか語りかけられているのか分からず、そのまま立ち上がらずにいる。
「不思議なモンだな。明日からはもう戻らんねえのか。家が消えて無くなったわけでもねえのに」
青年の言葉に、何故だか自分の家の姿が頭をふっとよぎった。山菜を籠いっぱいに抱えて帰る時の跳ねるような気持ちが今のことのように蘇る。庭の竹竿に大小ばらばらな服を干す母がまず禰豆子に気付いておかえりと微笑む。ぶつぶつ言いながら薪を割っていた竹雄が、どうだった、たくさん採れた? と聞くので籠を覗き込ませてやる。見せて見せてとせがむ花子と茂に籠を任せ、よたよた歩み寄ってくる六太を抱え上げ頬を寄せ、布団の敷かれた居間をそうっと覗き込む。柔らかな笑み。おかえり、川の細流のような声。
「親父もそうだよ。動かねえだけでよ、そこにちゃんと居たってのに」
青年の言葉にはっと我に返った。なんだか切ない気持ちになって俯くと、膝元で何かが動いている。てててて、走り寄ってくるのは鼠だ。慣れっこではあるけれどすっかり油断していたので、思わずわっと声を上げてしまった。鼠が驚いて物置に戻り、青年が体ごとこちらを振り返る。
「あの、ここに置いておきました」
「……わざわざすまない。ありがとう」
元の言葉遣いと思い切りしかめられた顔に、青年は禰豆子たちを店の者だと思い込んでいたことを知る。悪いことをしてしまった。青年は刺々しい言葉や態度の裏に優しさを隠している人らしい。愈史郎に似ているなあと思って懐かしかった。元気だろうか。手紙は一応届くけれど、全然返事が無い。
物置を出て障子戸のひとつを開けた。片付けが終わっているのかがらんとしている。二間の真ん中の敷居から襖が外されているし、座布団ひとつすら無い。蕎麦をさっと啜るくらいなら困らないのでそのまま部屋に入る。義勇が中に入るのを待って障子を閉ざした。肌寒いのは窓が開いているからだ。黄色い夕日から薄雲がたなびき青空を紫に滲ませているのが見える。近づくと小さな庭が見下ろせた。中央に裸になった木と井戸があって、しゃがみ込んだ若い娘たちがお喋りしながら器を洗っている。店の人たちが忙しなく往来し、その女の子たちと言葉を交わしたり笑ったりする。花ひとつないのに賑やかだ。
「禰豆子」
静かに名前を呼ばれて、窓を閉めないまま振り返った。そう言えばこの人は姿かたちは全然似ていないけれど穏やかな話し方が少し父に似ている。
「食べよう」
ささくれやへこみのある畳の上にお盆を置いた義勇は優しい声で言った。禰豆子が座るのを待って箸も取らずにいる。父を思い出す人なのにまるで子供みたいで、それだけのことがどうしてか胸をきゅうっと締めつけた。
「義勇さん」
禰豆子はキシキシ古い畳を踏み、お盆の前でなく義勇の隣に膝をつく。瞳の蒼さが暗く冷たく揺れる冬の川面みたいで恐ろしいと思ったこともあった。記憶の写生帖に鬼の禰豆子がそう描いたからだ。今、その目は飛び込んだ禰豆子を優しく受け止める水面だと知っている。
「お兄ちゃんが格好を気にするのは義勇さんと会う時だけなんですよ」
街に出かけて義勇と会うのに相応しい格好じゃないんじゃないかと頭を抱えているから、善逸が見かねて着物を貸してくれたのだ。いつもは仕事の合間にほっかむりが取れて髪がぐしゃぐしゃになったって気にしない。風が強い日に誰が一番変な髪形かなんて子供っぽいふざけあいをする時だってある。四人の中では善逸が一番身なりを気にするほうだろう。だが、義勇には禰豆子の言いたいことがうまく伝わらなかったようだ。そうか、と静かに相槌だけ打たれる。
「いいうちが見つからなかったらうちへ来てください」
あぐらを掻いて座る義勇の膝の上に手を乗せて身を乗り出した。思いもよらない言葉だったのだろう。義勇の目が丸くなって禰豆子を映す。
「お願いです」
口を引き結んで、じっと義勇の目を見つめる。義勇もしばらくは禰豆子の真剣な顔を見つめ返していたけれど、やがて分厚いまつ毛が下を向いて瞳を翳らせてしまった。
「すまない」
なんとなく頭では、きっと義勇はそう言うだろうと分かっていた。けれど心が納得せずに眉が下がってしまう。体が勝手に動いて義勇の真っ黒の上着に体当たりしてしがみつく。やっぱり義勇の体はピクリとも揺れなかった。それにむっと口元を引き結んでぎゅうぎゅう硬い腹に抱き付く。
「うんって言うまで動きませんから」
きっと困ってる。やめないと。分かっているのに小さな子供みたいな真似をやめることができなかった。鬼で居た時にほとんどのことを忘れてしまって心のままに兄の後を付いて回ったせいかも、なんていうのは言い訳だろうか。
「いいうちなんて……無いですよ」
人の時間はいつもとめどなく流れて続いていくもののはずだ。家族との暮しだって決して楽ではないけれど幸せに毎日が繋がっていた。時には辛くて苦しい日もあるだろうけど、それを乗り越える日も後に来て、やがては母や兄を助けられる、弟や妹を守れる大人になるんだと信じていた。でも、禰豆子の日々は急に断ち切られてしまった。
気付いたら手の中には拙い手で描かれた何枚もの絵があった。思い出すためにただそれをぺらぺらめくる。母や弟や妹の絵は一枚もない。鬼だった私は私だったのかな。本当の私はどこに居たんだろう。そんな気持ちになる時がある。そのせいか家に戻るまで家族との毎日は本当は続いているんじゃないかという思いを捨てられなかった。
「あったけど、もうどこにもないです。もう帰れない」
兄と戻った家は確かに禰豆子の家だったのに、空っぽだった。おかえりと微笑んでくれたり、遠出を労ったり、お土産をうきうき尋ねたり、ぎゅっと抱きついてくる人は誰もいない。優しくて賑やかな善逸や伊之助にきっと弟や妹たちは大喜びしただろうに。
「帰りたい」
兄の言うことは正しい。禰豆子が明るくて新しい暮しを一から始めることをきっと家族は望んでいる。「おかえり」と言って、抱き締めてもらえた気がした。たくさん泣いた後で、きっと見てくれていると思った。明るく、楽しく、善逸や伊之助たちと一緒に毎日を重ねていけるように背中を押してもらえた。だから前に進んでいかなくちゃ。だけど時折考えてしまう。新しい暮しなんてしたくない。「今まで通り」暮らしたい。
「お兄ちゃんと帰りたい」
それが無理ならせめて、家族みたいに大好きだと思う人たちともう離れ離れになりたくない。できるだけ近くで毎日を続けたい。十五歳でも十二歳でもない禰豆子が時々そうやって顔を出して泣き出すから、いつもそれを宥めて押さえ込むのに苦労する。
ぽん、と手が背中に触れた。義勇の手だ。顔を上げると涙で滲んだ視界の中で義勇が微笑んでいる。瞬きをするとぼろりと涙が流れた。
「ごめんなさい」
義勇は何も答えない。ただ黙って、もう一度ぽん、と禰豆子の背中を優しく叩いた。それに押し出されるようにまた涙がぼろりと落ちる。堪らなくなって義勇の胸に顔を押さえつけた。ぽん、とまた背中が叩かれて手が止まる。背中に大きな手の感触がある。
その時、きゅうきゅう階段が鳴る音が聞こえた。兄かもしれない。顔を上げて目元を着物の裾で拭う。
「坊っちゃん、まだ居やがるのか。他んとこは外れだったし残るはあそこだけしかねえのに」
「しょうがねえ。一人の今を狙うしかねえな」
しかし聞こえてきたひそひそ声は兄のものとは似つかない低い声だ。背中から手が離れたので義勇の顔を見上げると、その手で口元を押さえられてしまった。義勇は目元鋭く障子の向こうを睨んでいる。
「早いとこホンモノの地券を見つけねえと正真正銘おまんまの食上げになっちまわ」
義勇が転がるようにして廊下に出るのと、禰豆子が慌てて畳に手を付いたのと、一人が義勇に、もう一人が炭治郎に廊下へ押さえつけられたのはほぼ同時だった。何が何だか分かっていない禰豆子が廊下に首を巡らせると、同じような顔をして物置から出てきた青年と目が合った。
この二人の大男は、退去の手伝いとして金の貸主から送られてきていたらしい。妙な真似をしないための見張りなのだろうと思い青年も拒めなかった。ところがすっかり冷めた蕎麦を啜りつつ炭治郎と義勇が男たちを問い詰めたところ、金の貸主と男たちは共謀して証文や地券を捏造していたのだと白状した。息子が家を出ているところに店主が急死したので、その混乱に乗じて偽物で更に引っ掻き回し、その内に盗みに入り本物を奪う算段だったようだ。本物がなかなか出てこないことが騙す方にとっても騙される方にとっても事態を悪くしていた。禰豆子たちが通りかかったことが最後の最後に命運を分けた。最初から炭治郎は嫌な匂いを、義勇は勘に引っかかる悪意をこの二人の男から感じ取っていたようだ。どちらか一人が男たちを監視できるように動いていた。
男たちを縛り上げ、やはり店は閉めることにして家を上げての大捜索が始まった。物置や蔵は店の人びとがひっくり返し、炭治郎は鼻を使って他の場所から店主の形見と同じ匂いがする場所を探していく。太陽が西の際に傾き、空が紺色と紫の混ざりあった色になった頃、探し物はあっさり見つかった。離れにある青年の部屋の押し入れに普段使われていない布団が詰め込まれていて、炭治郎が嗅ぎつけた。中を見てみれば綿の中に箱がある。地券や証文の類、秘伝の蕎麦の作り方の書きつけ、それからお札が何枚も詰め込まれていた。青年がとうとう諦めて部屋のものを運び出そうとした時、どのみち見つけることができたかもしれない場所だ。
「俺は本当にお前たちの何割も働いてない」
「そんなことないですよ。それに元々、義勇さんが家を探さなかったらここには来てないですから」
店の人びとは大喜びで炭治郎を庭まで担ぎ上げ、ついには胴上げまで始めてしまった。いえ俺は大したことはしてないですよ、という叫びが全然聞き入れられている様子はない。兄の困惑した表情がちょっとかわいそうだが、店中に満ちた幸せそうな空気をわざわざ壊すのも悪い。井戸の傍の裸木の下、義勇と二人でとりあえず成り行きを見守っている。
「賑やかで明るくていい家ですけど、あの人たちが居なかったらきっと寂しい家ですね」
見上げる木には花どころか枯葉すら付いていないけれど、なんとなく画家の言った言葉が分かったような気がする。だけど暮しに花がないといけないって言うんなら、やっぱりうちの家が一番いいような気がするのになあ。
「良かったです。あの人たちは無くならなくて」
禰豆子のように寂しい気持ちを空っぽの家に感じる人が居なくて良かった。義勇に弱音を吐いてしまったのは申し訳ないけれど、不思議とすっきりした穏やかな気持ちだ。
「失ったら思い出すしかない。思い出して、懐かしく恋しくなるしかない」
不意に義勇が口を開いたので目を上げる。星が瞬く紺色の空の下で、店の明かりに照らされた頬がほんのり白い。背中をぽんと叩いてくれた時の優しい微笑みだった。
「でもいつかは、そういう思い出があって良かったと思える日もあるんだろ」
家族との暮しを思い返すと恋しくて寂しくて苦しい。帰りたいという気持ちが消えることはないと思う。でも家族との幸せな思い出が禰豆子をひとつに繋ぎ止めてもいる。十二歳の禰豆子も、鬼の禰豆子も、十五歳の禰豆子もその思い出で繋がっている。
「だから、そういう家を探そうと思ってる」
「……見つからなかったら、うちですからね」
義勇はやっぱり何も答えないので、むんと口元をへの字口にする。けれど義勇はまともに取り合った様子もなくおかしそうに目を細めるだけだ。
「おや、御縁日でもやってるのかな。蕎麦を食べに来たんだがね」
のんびりした声が庭に滑り込んできた。ここで聞くはずもない声に驚いて振り返ったが、やっぱり画家が立っていた。義勇の着ているものとは違った意匠の茶色の上着に同じ色の山高帽を被っている。
「おお、冨岡くんに禰豆子さんじゃないか。それに炭治郎くんも。やあ、奇遇だね」
帽子を上げて挨拶する画家を先輩と呼んで、炭治郎を囲む人の輪から青年が飛び出してきた。ぽかんと呆ける禰豆子に、尋常小学校の後輩なんだと画家が親切に教えてくれる。それにここの蕎麦は美味いから食べつけていてねえ。
「おい! 立ち退きは明日だぞ! この地券が目に入らないのか! あいつらはどうした!?」
そこにまた飛び込んでくるのはひょろりと縦長な画家と正反対の横長の男だ。禰豆子は予想外のことが立て続けに起きたので全く追いついていけないが、判断の早い義勇はあっという間に画家の知人の喉に手を伸ばして地面に引き倒し、穏やかな笑みを浮かべる画家をじっとり半眼で見上げていた。