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Meteor /メテオ



 三時間のパトロールは毎晩の日課だが、誰かから強制された義務というわけではない。逆に言えば、会社や司法局から認可された権利というわけでもなかったが、有り難いことに咎められたことはない。社のイメージアップに繋がると判断されているらしく、事業部にはむしろ歓迎されているようだ。そういうわけで、業務外のヒーロースーツの着脱で揉めることもない。深夜に戻ってもヒーロー事業部に関わる社内の施設は概ね使えるし、スカイハイの帰社を待ち構えて、そこから即座にヒーロースーツの調整に乗り出してくれる開発部には頭が上がらない。

 そして最近は、それに加えて感謝したい人がもう一人増えた。

 いかに天下のゴールドステージと言えども、夏の日中にはただの下層の屋根だ。夏の日差しの熱を未だに抱えたままのコンクリートが、むっと蒸した温度を夜に浸透させている。ぬるい空気の中を泳いでいると、道端に赤いスポーツカーが止まっているのを見つけた。足取りが勝手に軽くなる。

 パトロールは一人で始めたことで、それを終えるのも一人の帰途でしかなかったはずなのに、誰か待っている人が居るというのが途方もなく不思議で、そして途轍もなく嬉しい。懸命に何食わぬ顔を取り繕って車に並んだ。空いている助手席側の窓から運転席を覗き込む。

「やあ、こんばんは」
「ええ、こんばんは」
「これは奇遇だ」
「本当に。こう続くと、奇跡レベルの奇遇ですよ」

 運転手のバーナビーは驚くでもなく、呆れたような笑みを口元に浮かべている。それでもキースの子供じみたジョークを咎めるつもりはないようだ。薄暗い車内にじわりと滲んだ街明かりで眼鏡が薄く光っている。

「乗っていきます?せっかくですし」
「ありがとう、そしてありがとう!」

 両腕をピシリと伸ばしてポーズを決めた後、遠慮せずに助手席に乗り込む。その時ふとバーナビーが口元に手を当てて目を閉じた。欠伸だ。目元に涙が滲んでいる。

「眠そうだね?」
「ついさっきまでラジオの仕事で、たった今虎徹さんを送ってきたところです」
「それは実にご苦労!そしてご苦労さまだ!」
「貴方も、毎晩ご苦労さまです」

 普段は意識をして声を張っているのだろうが、バーナビーは元々柔らかい声質なのだとキースは思う。ゆったりと発声されるだけで随分優しい響きに聞こえるのだ。

失礼しました、行きましょうとギアにかけられた手にキースは自分の手を重ねた。バーナビーの横顔の右目が丸くなり、左目もキースに向けられる。

「どうしたんですか?」
「バーナビー君」
「居眠り運転なんてしませんよ」
「そうではなくて……」
「違いますからね」

 キースの言おうとしたことをもう察してしまったらしい。バーナビーは頭がいいので時々こういうことが起こる。キースが何かを言い終えるよりバーナビーの返事の方が早いのだ。

「僕はヒーローとして、毎晩のこの数時間を貴方にリードされているわけです」
「いや、これはカメラがあるわけでもないし、私が勝手に……」
「僕の気持ちの問題って言ってるんですよ」

 バーナビーがわざと冷たい表情を作っている。それが言葉と全く噛み合っていなくて笑うと、バーナビーもその表情を維持する苦労を早々に捨てたようだ。

「では、私が君にありがとうを言えない気持ちも問題だろう?」
「聞こえませんね」
「なら、もっと近くで言うよ」

 重ねたままの手を取って、軽く引く。バーナビーは何も言わない。しかし顔に「仕方ない」とはっきりと書いた上で身を乗り出してくれる。同じように身を乗り出しているキースがその背に手を回した。

 いつものコロンの香りに汗が混じった様子はない。くせ毛が頬から首筋のあたりにまでかかってくすぐったい。子供をあやすような、背中のバーナビーの手に微笑んで目を閉じた。車の中にも等しく夏の熱気が籠もっているのに、不快感が不思議と沸き上がってこない。バーナビーとの抱擁はどうしてだかとても落ち着く。

「ちょっと、運転できません」
「じゃあ、このまま飛んで帰るのはどうだろうか」
「……何言ってるんですか」

 背中を軽く叩かれたので身を離して正面の表情を確かめる。その笑顔に満足したので、車を発進させようとするバーナビーに機嫌よく頷きを返した。車がライトの奔流を目指して滑り出していく。

「今日は一日晴れたね。雲の様子から言って明日もそうだろう」
「この街で一番信用の置ける天気予報がそう言うなら間違いありませんね」

 もし雨になるなら風で雨雲を吹き飛ばしてくださいね、バーナビーはキースの言葉に冗談半分で返事をした。彼は髪のスタイルが決まらないと言って、雨を好んでいなかった。

「星もよく見えた。月が細いからかな。ベガ、デネブ、アルタイルと綺麗に見えていたよ」

 これが夏の三角形で、アルタイルからベガとデネブの間に線をまっすぐ伸ばすと、北極星に辿り着く。それからベガから近いところにはヘルクレスのM13星団がぼんやり見えて――指で空中に星空を描いているとバーナビーがくすりと笑った。子供のように夢中で話すキースがおかしいのかもしれない。照れた笑みを返す。

「詳しいですね」
「ああ、私の兄弟のことだから」

 バーナビーが目を一瞬だけキースに寄越す。キースは笑みのまま首を傾げた。こういう時は無駄に足掻かずにバーナビーの言葉を待つことにしている。バーナビーはそれを許してくれる。

「兄弟、ですか」
「ああ!」
「……つまり?」
「実は私は、この空の星のひとつなんだ」

 今度ははっきりとバーナビーの顔が助手席に向けられた。よそ見運転はよくないな、と怪訝に歪められたしかめ面を前方へと促す。少し愉快な気分だ。

「……それはすごい」
「驚いたろう?」
「ええ、今すぐにブランケットでラッピングして眠って頂きたいくらい驚きました」
「それは丁度良かった!そのまま君も一緒に眠ろうじゃないか」

 昼間に熱されたコンクリートの亡霊のような風と、一年中街中に滞留する排気ガスで淀んだ空気、それから短気なクラクションと遠いざわめき。窓から流れ込むそれをしばらく聞いていたが、やがて沈黙に大きなため息が吐き出された。

 しかしそんな反応でも、顔にありありと書かれた「仕方ない」を見ればキースは嬉しいのだ。

 キースの能力は、その全てがキースのちっぽけな体を凌駕したところにある。ひとたび能力を発動すると、肺を満たす呼吸ひとつさえ、全てキースの意思に沿って動き出す。そのあまりに莫大な物量を前に、能力を操っているはずなのに、何故だかむしろ操られているような気分になるのだ。

 相手の気配が風に乗って伝わってくる。相手もスカイハイの能力は熟知しているので、廃材を倒して姿を眩まそうとしているようだ。腕のひと振りで粉塵を払う。目端に鮮やかな赤色を認識して、全体重を風に任せ滑空した。咄嗟に後方へ飛び退く相手に風の刃をひとつ、ふたつ、みっつと落として肉薄する。最後に空気の塊を大砲のように弾き出すが、間一髪のところでそれらを全て躱した相手は大きく跳躍する。しかしその先の足場は、先程のスカイハイの攻撃で強度を失っていた。体勢を崩して落下しかける相手を風で掬って地面に降り立たせる――余計な世話だとは分かっていたが。案の定、フェイスカバーを上げたバーナビーの表情は不満げだ。

「大丈夫かい?」
「……敵に回したくないですね、その能力」

 スカイハイだってバーナビーを敵に回したくはない。緊急出動に備えてバーナビーはハンドレッドパワーを封じていた。NEXT能力を惜しみなく使っているというのに、スカイハイはそんなバーナビーを凌駕することができなかったのだ。

 高い天井に沿って並ぶ小さな窓や、回っていない換気扇の隙間には、夕陽が潜んでいる。その忍び寄るような光が、倉庫を縦横無尽に占拠する廃材や埃に影を作っていた。スカイハイとバーナビーが居るのは、ウエストブロンズ埠頭にある廃倉庫のひとつだ。ポセイドンラインが買い上げ取り壊す予定だと聞いて、それまでの間無理を言ってトレーニングに使用させてもらっている。このトレーニングに関するスカイハイは無理続きで、道理の代表者であるCEOの顔を随分しかめさせたものだった。例えば、今こうやって目の前に立つ相手もそのひとつだ。

「でも突然シュミレーションに付き合ってほしいだなんて驚きましたよ。しかも僕とだなんて」
「無理を聞いてくれた君たちには感謝している。ありがとう!そし、」
「ポセイドンラインに貸し一つですよ」
「てありがとう!」
「……ごまかそうとしてます?」

 話を聞きつけたアニエスが是非ともとカメラを入れたがったが、最終的にはキースの意思が尊重される形になった。ポセイドンラインとしても進んで周知させたい情報ではない、とCEOの表情がますます渋かったことを思い出す。

「私はヒーローとして、ポイントを君に譲っているわけだろう?」
「それを条件として見るなら、確かに僕が最も適任ではありますけど。僕なら手加減しなくていいって思っているでしょう、貴方」

 マスクの中で笑えば分からないだろうと思っていたのに、分かってますよ、とバーナビーはすぐに非難の目で釘を刺してきた。観念して軽く両手を挙げバーナビーの前に降り立つ。

「ジェットパックがかなり改良されているんだ。とても軽くなったよ、とてもね!だがこの重みには慣れていないから、実践の前に感覚を掴んでおきたかった」

 自慢するように体を捻った。しかしバーナビーは感心するでもなく、複雑げな表情の瞳に好奇心をちらつかせるに留まっている。

「……それ、僕が聞いていい情報なんですか?」
「君は誰にも言わないから、それは言っていないのと同じことだろう?」

 バーナビーはますます複雑げな表情を深めた。彼にしては珍しく言葉に迷っているようで、いえだとかまあだとか短い呟きを夏の閉め切られた倉庫の淀んだ空気に乗せる。

 バーナビーはよく通る、けれど優しい声を持っている。その声が乗った空気中の粒子だけはきっと、清涼な色をしているだろう。声にも色があればいいのに──最終的にバーナビーはいつもの呆れた笑みを浮かべた。

「分かりますけどね。スーツが新しくなると使ってみたくなる気持ち。ただ僕は貴方の最も大きなライバルですから。そこをお忘れなく」

 好戦的な笑みは攻撃的と言うよりどこまでも楽しげで、スカイハイの中のキースまでつられてしまいそうだ。マスクの下、口の端だけで笑う。

「もう少しやりますか?」
「いや、これ以上は君の大事な時間を奪えないな。バーナビー君本当にありがとう。そしてありがとう!」
「どういたしまして、そしてどういたしまして」

 時間にすると退社後の三十分。全力を出してシュミレーションをするには長いが、充実したその内容を思えばあまりにも短く感じる時間だった。心地良い疲労を引きずりながら倉庫の外に出た。その存在をひっそりと暗がりに混入していたに過ぎない夕陽は、一歩外に出ればこの時間の空の王者だった。埠頭の波打ち際にもその姿は映し出されており、夕陽を反射するもの、夕陽の影になるものに分かれて赤く染まっている。美しい夕陽だ。気軽にマスクを外せないことを少し残念に思う。

「おや……金星だ」
「あれも貴方の兄弟ですか?」
「そうだよ?」

 やがて来る夜のためにそっと灯された玄関先の明かりのように、夕焼けの中にぽつりと輝く星がある。シミュレーションで気分が高揚しているのか、バーナビーはからかうような笑みを浮かべている。

「兄弟は何光年も向こうにいるのに、貴方はどうしてここに居るんですか」
「ううん、どうしてだろう?」
「シュテルンビルトの愛と平和を守るため、ですか?」

 なんだかカートゥーンみたいだな、ついには喉を鳴らして笑い始めたバーナビーは、当然冗談のつもりなのだろう。しかしあの時の言葉はキースにとっては冗談ではなかった。だからここでも真剣に答えを模索する。

「……君に会うためかな」

 思考に沈んでいたせいで、バーナビーの労いと別れのあいさつを遮る形になってしまった。

「……は?」
「だから、君に会うために私は……」
「いいです、繰り返さなくて」

 先程までの楽しげな表情がたちまちなんとも言えない表情に変わる。とっさに言葉を遮ったことを謝罪したが、僕はそんなことで怒ったりしませんとムッと顔をしかめられてしまった。
普段だったらきっと困り果てるところなのだろうけれど顔が勝手に笑っている。それは多分スカイハイらしくない行動に違いない。

「おかしな人ですね」
「星だよ」
「……言いませんよ、『おかしな星』だなんて」

 バーナビーと居ると不思議だ。まるでキースという存在だけが、そのままひとつ彼の前に投げ出されているような気分になる。

「本当はフォートレスタワーの展望カフェへ行こうと思っていたんです」
「えっ」
「ただそうすると……お前が仲間外れになるからな、ジョン」

 バーナビーはキースがリードを引くジョンを覗き込んだ。わずかに鼻先を上げるジョンはそれに返事をしているようだ。

 夏の夜のぬるい空気を泳ぐように、当て所もなく歩く。キースの家で夕食を摂った後はいつもジョンも連れて腹ごなしの散歩になる。貴方と一緒に食べると食べ過ぎるんですよ、とバーナビーがパトロールへ向かうキースの隣に並んだのがきっかけだ。ほんの数十分でも、楽しい時間が伸びるのは嬉しいものだ。キースはこうやってバーナビーと夜の道を歩く度、バーナビーの胃の大きさに感謝したい気分になる。

「……今日は何の日だったかな」

 十歩ほどたっぷり使って様々な可能性を考慮したが、結局心当たりに到達することができず、早々に白旗を挙げた。しかしバーナビーはキースの白旗がどの土地に立てられているのかすぐには分からなかったようだ。五歩ほど消費して返事が戻ってくる。

「……別に何の日だって行ったっていいでしょう」
「それは……そうだろうが……」

 幼い頃の、外食と言えば特別な日だった常識を今の歳になってもかなり引きずっている。一日の食事メニューが決まっているキースには外食の習慣が無いので、飲食店というものに過剰な敷居の高さを感じるのだった。行きつけと言えば、ネイサンの経営する喫茶店くらいだろうか。

「まあ……あそこは夜景の光ばかりが強くて、星空はあまり見えないでしょうけど」

 バーナビーは難しい顔をして腕を組んだ。あとはジャスティスタワーくらいかな、などと呟いている。その横顔をしばらく凝視していたが、良い考えが浮かんだのでその腕を取った。

「星が見たいのかい?だったらいい場所がある!」

 ジョンを一度は小走りに追い越したが、すぐに逆転されて引っ張られる。退屈なスピードを維持していなくてもいいのだと悟って喜んでいるらしい。笑顔でバーナビーを振り返ると、やはりそこにはキースの好きな表情がある。

「なんとなく予測はつきますけど、さすがに僕とジョンが行っちゃダメですよ!」
「私が言わなければ君は行ってないのと同じことだ、そうだろう?」
「そういう問題ですか?」
「私の心の問題さ!」
「いや、社則の問題だと思いますが……」

 辿り着いたポセイドンライン本社の通用口で、仲の良い警備のスタッフに手を挙げてあいさつする。会社のIDカードはもちろん持ち歩いているが、実のところあまり使ったことがない。頼み込んでジョンとバーナビーをゲートの中に招き入れることが成功したあたりで、バーナビーはすっかり黙り込んでしまっている。一部のスタッフしか使うことのできない専用エレベーターに乗り込んで表情を覗き込むと、もうなんでもいいですとため息を吐き出されてしまった。

 エレベーターが軽やかなチャイムで終点への到着を告げる。雄々しく前足を掲げるペガサスの足元へ出ると、夜に残った熱気がぶわりと吹き付けてきた。思えば、「キース」がここに立つのは初めてかもしれない。柵の傍までバーナビーとジョンを引っ張る。

「どうだい?」
「やっぱりここでも……街の明かりが強すぎだ」
「でも、美しいだろう?」

 街の光が淡い紫色で夜を浸食していて、確かに星はほとんど見えない。この街の夜景は、きっとどこから見ても人々の営みの方が強い光を放っている。ジャスティスタワーの最上階から見たってそう変わらないだろう。けれどキースはそれがこの街の美しさだと思う。
 この景色を大切な誰かにこっそり明かしたいといつも思っていた。ジョンを危なくない程度の高さまで抱え上げてみるが、嫌がられてしまった。苦笑する。シュテルンは星という意味だといつかに聞いた。本当にこの街はその姿に見合った名前を持っている。

「あれがベガ、デネブ、アルタイルだよ」

 眼下に果てしなく広がる幾星層に指を伸ばす。ビルや広告の看板、飛行船やタワーがライトアップされ輝き、その存在をキースに教えている。ひときわ美しく見えるものに星空から名前を拝借して、バーナビーに披露する。わくわくと覗き込んだバーナビーの瞳は、足下の星空の強い光を受けて緑色の一等星だ。

「つまり……シュテルンビルトの市民と貴方は兄弟、ってことですか?」
「ううん……」

 そうとも言えるような気がするし、言えないような気もする。
バーナビーは言葉を濁すキースを許さなかった。しばらくは目で返事を催促し、それでもキースが返事を寄越さないでいると、眼鏡を押し上げて身を乗り出してきた。呆れた色もからかう色も無く、ひたすら真剣な表情だ。キースもつい表情と姿勢を正す。

「僕が星を見たかったのは」
「うん」
「貴方が何故あんなことを言い出したのか知りたいからです」
「……そうだったのか」
「ですから答えてもらわないと困ります」

 ふふ、一度引き締めたはずの表情が緩んだ。悪いことに、それはバーナビーの気分を害してしまったようだ。抗議の意思を持った手がキースの腕をぐっと掴む。

「僕は真剣にお聞きしてるんですけど?」
「おっと、すまない……実にすまない!つい嬉しくて、つい」

 両手を挙げて謝ると手は離れていったが、バーナビーの目はまだ露骨に批難の緑色だ。苦笑しつつ柵に手をかけた。よっと掛け声と共にそこに足をかける。バランスを取って直立した。

「ここからパトロールに向かうと、自分も星のひとつになったように感じるんだ」
「ちょっと……!危ないですよ」
「ここから滑り出して、この星空の中をずっと進む。そうすると、流れ星にでもなった気分がするのさ」

 夏の夜の湿った匂いと共に、風が光の海から吹き上げてくる。ジャケットがふわりと持ち上げられた。早く飛び込んで来いと誘われているみたいだ。ふふ、もうひとつ笑ってバーナビーを見下ろした。その表情には困惑が混じっている。

「初めて能力に目覚めた時の話はしたんだったかな」
「はい……好きですよ、その話。何と言えばいいのか……貴方らしいと言うか」
「そうかい?じゃあ、私のこの能力も敵でなければ好きでいてくれるかな」
「えっ……、」

 ゆっくりと体の重心を前方に移していく。重力がキースの存在に気づき、ぐんと体に負荷をかけた。ただキースを撫でていた夜風が、瞬時に反発を始める。その境界線を縫うように自由落下に身を任せ――風に乗って能力を発動させた。体中の全てが上方へ片寄ってしまったかのような感覚で浮き上がる。柵から大きく身を乗り出しているバーナビーの前に戻り、キースの行動を咎めるように吼えるジョンを撫でてやる。

「……どうだい?流れ星に見えただろうか!」

 バーナビーは柵から身を乗り出したまま、見開いた目だけをキースに向けてしばらく動かなかった。大きなため息を吐き出しながら脱力し、やっとその体をキースの正面に戻す。そしてその勢いでキースに詰め寄った。

「流れ星どころか完全にただの自殺志願者ですよ……!驚かせないください!」

 何をするかと思えば、信じられない、バーナビーは怒っている。悪ふざけをすまなく思う気持ちの裏で、少しだけそんなバーナビーの反応を嬉しいと思っているキースは、きっと間違っているのだろう。

「貴方は慣れているかもしれませんが……!」
「でもNEXTとして私はまだまだ未熟さ。私だって十八年、人間は生身で空を飛べない生き物だと信じてきたんだ」

 間違っていることは分かっているけれど、キースはそれをどう正せばいいのか分からないのだ。
情けなく震えている手を、恐る恐る伸ばしてバーナビーの手首に触れる。それを弱く引き寄せて、ばくばくと速く大きく動いている自分の心臓の上に添えさせた。

「……怖いんだよ」

 何かひとつの要因が――例えば、キースの一瞬の油断や慢心、ヒーロースーツの不備や不慣れが、キースの外で渦巻くあまりに大きな力のバランスを不意に損なうかもしれない。いくらトレーニングを重ねても、最高のスタッフたちがどんなに素晴らしい改良をヒーロースーツに加えてくれても、きっとキースはそんな想像を捨て去ることはできないだろう。

「驚かせてすまなかった。そしてごめん」

 バーナビーは何も言わない。言えないのかもしれない。丸められた二つの緑色の星の中に、情け無い笑みのキースが降り立っている。

「……幻滅したかい?」
「ええ、貴方のその質問に」

 バーナビーの手を離そうとしたが、今度は逆にその手がキースの手を掴み、強い力で握り込んできた。バーナビーはしかめ面だ。距離が少しだけ詰まって、その瞳がわずかに揺れていることに気がつく。

「ヒーローの皆さんには普段から色々と期待しています。僕は仕事に張り合いを求めるタイプなんです。今のポイント差のままじゃファンの皆さんだってつまらないでしょうし」
「耳が痛いね」
「でも今、ここに居る貴方に僕は何も求めてませんよ」

 やはり、バーナビーは不思議だ。時々、まるで突然に月面へキースを連れて行くようなことを言う。能力も発動させていないのに体にかかる重力が六分の一になったみたいだ。

「……それも少し寂しい」
「僕は真剣だって言ってるでしょう」

 いつものひやりとする感覚とは違い、くすぐったいような浮遊感がしてまた笑ってしまった。咎めるようなバーナビーの鋭い視線に益々止まらなくなってしまう。

「なんなんですか、まったく」
「……流れ星が光るのは、大気圏にぶつかって燃え尽きるからだ」

 ただ握られていただけの手をそっと握り返した。二つの手の間に夏の空気を圧縮しているせいか、触れた面がとても熱い。

「でも、その光で君が私のことを見つけてくれるだろう?そう思えば怖くはないんだ」

 やはりバーナビーの瞳には薄く水の膜が張っているようだ。バーナビーは涙腺が脆いところがある。普段はキャラじゃありませんなどと言ってごまかしているけれど。キースは素直じゃない彼のそんな素直さが好きだ。

「バーナビー君ありがとう、そしてありがとう」
「意味が分かりません」
「何か願ってみてくれ。きっと叶えるよ」

 バーナビーは大きく息を吸った。何かを言い募ろうとしたようだった。けれどそれは実行されず、静かな声だけがキースとバーナビーの間に落とされる。

「じゃあその話は、もうやめてください」
「……うん。分かった」
「貴方は流れ星じゃない。スカイハイだ。キース・グッドマンだ」
「うん。そうだね」
「黙らせますよ」
「うん」

 もう余計な言葉で惑わせたり惑ったりしないように、互いの口で相手の口を塞いだ。

 どこまでも深い闇に包まれた宇宙で、様々な美しい星と擦れ違い続く、長い長い旅を終えた最も輝かしいその一瞬、キースはバーナビーの顔を思い浮かべるに違いない。それはとても幸せなことだ、きっと。
 足下に夜を敷いた沈黙の中、バーナビーの願いを叶えるためだけにその言葉は心の奥へ丁寧に仕舞い込んだ。

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