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明日、どこへ帰ろうか (炭義禰)



 ある冬のはじめ、よく晴れた日のこと。正面に座る人は四角い窓硝子から入ってくる日差しにすっぽり収まり、いつもより淡い色合いになっている。冷たい冬の空気から逃れられたことに人心地をつき、革の手袋に包まれた左の中指に口をつけてするりと引き抜く。白い布のかけられた机の上で手袋を握る左手が白く光り、透き通った睫毛が眩しそうに震えた。炭治郎がじっと眺めているのに気づいたらしく、窓の外を向いていた目がゆっくりとこちらを向く。光が入ると瞳の蒼さがよく分かった。炭治郎が何も言えないでいると、義勇は穏やかに目を細めて隣へ座る禰豆子へと視線を移す。長い髪を一本に結っている横目の禰豆子は少し照れた愛らしい笑みを返していた。

「お待たせ致しました」

 白い前掛けをした女給がしずしずと近づいてきて、芍薬に似た花が描かれた白い器を三つ置いた。指をかけるための取手が付いているのだが、これが細いので、うっかり触ると取れてしまうんじゃないかと心配になった。金が差してある縁の中で湯気を立てているのは白い水面。「ホットミルク」──これ即ち、温めた牛乳。ホットミルクが出る店は「ミルクホール」。窓際には炭治郎たちが座っているような白い布のかかった机が四つ並び、店の中には一枚板の長机が二つ並ぶ。身なりの良い人や学生がそれぞれ本や新聞を開いていたり、ひそひそ身を寄せ合って何事か話していて、そよ風に吹かれた木立のような音だけが店の中に漂う。足元が温かいのは机の下に火鉢が置いてあるからだ。見ればどの机の下にもある。贅沢な店だ。なんだか身の置き所が無い気分がして、そわそわ椅子に座り直す。見れば禰豆子ももぞもぞしていて少し安心したが、すぐに思い直した。禰豆子が不安に思っているなら払拭してやらねば。炭治郎は意を決し、こわごわ右手を伸ばして湯飲みの取手に触れた。いただきます、上目で確認した義勇の口元には笑みが滲んでいる気がする。呆れられているのかもしれない。頷きが返ったのを確認して金縁に口を付ける。

「甘いですねえ!」

 これは砂糖が入っている。それもふんだんに。思いのほか大きい声が出て店中の目が集まってきた。頭を低くして慎重に受け皿に湯飲みを戻す。ふっ、と息の抜ける音。義勇の匂いは呆れより愉快が強いようで何よりだ。恥ずかしいのはどうしようもないけれど。おずおず炭治郎に続いた禰豆子が、ほんとうねえ、と目を丸くしているのだからこれでいい。

「息災らしいな」
「はい!」

 周囲に気を遣いつつ、しかし元気に返事をする。馴染みのないものにばかり囲まれた中で唯一自信を持ってできることなのだから、全力でやるしかない。

「義勇さんも元気そうで安心しました」
「前に遊びに来てくれたの夏でしたよね。あれから、どうしてました?」

 こわごわ左手を湯飲みの受け皿にしている禰豆子が炭治郎に続く。炭治郎はほんの少しだけギクリとし、同時に妹の思い切りの良さに感心もした。禰豆子も炭治郎と同じく予感していたはずだ。きっと今日、何かとんでもないことを聞くことになるぞ、と。

「どう……? 特に面白い話は無いが……」

 炭治郎たちには馴染みの無い湯飲みに気負いなく指をかけ、牛乳を啜った義勇は思案するように首を傾げた。いいえ、義勇さん。面白いかどうかはともかく、何かは絶対にあって、こうして俺をここへ呼んだんですよね。知らず炭治郎は禰豆子に、禰豆子は炭治郎に寄っていて互いの肩がぶつかった。身を乗り出して義勇の言葉を待っているのである。

 手紙には都合がつけばこの日、新橋駅で落ち合おうとあった。あいさつは手紙の型通り丁寧だが、近況の類が一切書かれていない、無駄のない義勇らしい内容には思える。ところがその手紙、ほとんど義勇の匂いがしなかったのだ。誰かに代筆を頼んだらしく、半紙より一回り小さいざらついた紙に細い字が几帳面に並んでいて、隅には黄色い花の絵が描かれていた。一読し、二読三読、四読目でそれ以上何も読めないことが分かり、炭治郎は取るものもとりあえず文机の前に滑り込んで諾の返事を送り出した。

 その後、炭治郎と共にトコトコ山を下りる途中、禰豆子もその手紙を見ることになった。いつもならばそこに善逸や伊之助も加わるところだが、俺たちは家でのんびりするよと善逸が言うと、俺はのんびりなんてしねえ! と伊之助が元気よく山へ飛び出してしまった。またどうせ遊びに来るんだろ、その時でいいよ、俺たちは。呆れ交じりのあっさりした声に、炭治郎はこの時も少し恥ずかしい気持ちになった。きっとソワソワ落ち着かない気分が音になって善逸の耳を過り、フワフワ揺れる波になって伊之助の肌をくすぐったんだろうな。

 道中の禰豆子はちょうどたった今牛乳の器を包み込むように、指の細い小さな手で手紙を広げて黙り込んでいた。これってもしかして。炭治郎の言葉に、禰豆子はすぐに答えなかった。この花、女郎花かな、黄梅かな。ようやくそう言った時と同じ緊張の面持ちで、光の粒が振り撒かれた義勇を真剣に眺めている。

「ただ……」
「ただ!」
「ただ?」

 義勇の言葉を繰り返す囁き声が重なった。勢い込む兄妹の様子にやっと気づいたらしい義勇は戸惑うように口を閉じた。炭治郎の顔を見て、禰豆子の顔を見て、何も言わない二人を怪訝そうに眺めつつ再び口を開く。

「ちょうどお前たちと会った後ぐらいだったと思うが、お屋敷をお館様にお返しした」
「えっ」

 素直に驚く気持ちと肩透かしを喰らったような気持ちとが入り混じり、どんな顔をすればいいか分からなくなった。そんな炭治郎と禰豆子の顔を見る義勇も困惑の表情だ。なんとも言えない沈黙を三人して白い昼の光に溶かし込む。いくら放り込んでも砂糖のように甘くなりそうもない。ええっと……気を取り直すように炭治郎は椅子に座り直して声を上げた。

「じゃあ、今はどこに?」
「人の世話になっている」
「……人」

 なるほど、ここだったのか。心構えのために机にかかる布の下で拳を握り直し唾を呑む。いけないとは思いつつ、抑えられない好奇心があっという間に炭治郎の体を追い越して大きくなった。全身の集中が義勇に集まる。今なら鼻だけでなく目も耳も人の何倍も働きそうだった。うっかり透き通る世界に入ってしまいそうだ。

 この話は終わりと言わんばかり、のんびり牛乳を啜る義勇にその気はないだろうけれど、焦らされている気分になってしまう。急かしていいものかどうか迷うのは炭治郎も禰豆子も同じだったが、先に口を開いたのは禰豆子だった。

「その人っていうのは……」

 受け皿にコトリと湯飲みを置き、光に霞む睫毛を瞬いた義勇は禰豆子から目を逸らす。ただ何かを思い出しているだけだと匂いで分かっているけれど、睫毛が下を向き瞳の半分を隠すと何か難しいことを熟考しているように見えてしまう。度々思うが不思議な顔立ちの人である。

「体に不便もあまり感じなくなったし、新しい家が見つかるまでは適当に野宿でも構わないと思っていたんだが」
『え?』

 てっきり、「人」と暮らす目途が立ち屋敷から出ることを決めた話が始まるのだと信じていた炭治郎と禰豆子の声がまたぴったり重なった。いくら先の戦いで深手を負ったとはいえ、数々の厳しい戦いを生き抜いてきた人だ。そりゃあ野宿だってなんだってできるだろうが、できるのと実際にするのとでは全く別の話である。今は残忍に人の命を奪う鬼も一刻を争う任務も無いのに。

「お館様のお屋敷へ向かう時、飯屋で人から声をかけられて」
「ちょ、義勇さん、ちょっと待っ」
「どこに住んでいるのかという話になったから、宿無しになると答えたんだが」
「いえ、ねえ、義勇さん」
「それならぜひうちへと。その人の世話になっている」

 刀を取らなくなった義勇は概ねとても穏やかだ。炭治郎たちが何か言ったりやったりするのを微笑ましげに眺めてそっくり受け取ってくれることがほとんどなのだが、時々こうして「とまってくれない義勇さん」が蘇ってくる。元々自分の好きな速さで自分の道をスタスタ駆けたりてちてち歩いたりする人なのだと思う。

「……それってつまり、全然、知らない人ですよね」
「まあ、その時はな。今は知ってる」

 おずおず言う禰豆子に真正面から答えてはいるけれど、尊敬すべき相手にこう言っては何なのだが、それは屁理屈では。

 予想していなかったわけではない。隊の人のほうが知り合う機会は多いはずだが、これだけ立派で、強くて、真面目で、努力家で、優しさもあるような人なのだから、どこかで行き合った人と何かが起きて──なんてこともあるだろうと思った。今日が来るまで仕事の片手間や寝入り端、色々なことを想像したのだ。炭治郎にはまだ少し遠い大人の事情にどぎまぎし、怖いもの見たさの好奇心に胸が騒ぎ、唐突に何故だか寂しい気持ちの木枯らしに心をすうっと冷やされながらも、最後にはどんな話を聞いても喜べるはずだと結論づけていた。新しい出会いは生きている人の前にしか降り積もっていかないものだから。

 けれどこの話は新しすぎるというか何と言うか。色々と言いたいことがありすぎて整理が追いつかない。

「運が良かった」
「そ……そう……? ですかね……」

 少なくとも父親によく似て心優しい輝利哉を驚かせることが無かったのは幸いかもしれない。行く宛は無いけれど体は元気になったので屋敷を返します、と言われて、はい分かりました、とは絶対にならない。そもそも何故突然返上などという話になったのだろう。宿無しって。言葉に綾がありすぎると誤解が生まれると言うが、綾が全くないのもだめらしい。予想を遙かに超えてとんでもない話を聞いてしまったのに、どうしてか緊張していた体から力が抜ける。大人の事情などという匂いが全くしないせいか。これは単純に人助けされてしまっている気がするぞ。

「ううん、まあ、偶然にそれだけ親切な方に会えて良かったんですよね」
「親切と言うよりは珍奇だな。俺の見目が気に入ったというから」

 抜け出たはずの緊張が全速力で戻ってきて炭治郎は首を傾げたまま硬直した。こんなに立派で、強くて、真面目で、努力家で、優しさもある人の見てくれだけを好む人が、果たして親切と言えるか。ざわりと肌の下で血が騒ぐ。呆れたため息を吐く冬の光に塗られた鼻筋や白い頬は人形みたいに整ってはいる。昼の光に透き通った水面が二つ、穏やかな光に輝いて炭治郎を見つめたら、それはもう綺麗だとは思うけれども。

「だが、いつまでも世話になるわけにもいかないだろう」
「そうですね! そうだと思います! まったくその通りです!」

 義勇の言葉が終わりもしない内に大きく相槌を打ち、次に放つ言葉の型も決まっていたのだが、義勇が言葉を続ける気配がしたのでそのまま技を繰り出すわけにもいかなかった。前のめりの炭治郎に戸惑った様子を見せつつも義勇はのんびりと口を開く。

「これから家を見に行くから、お前達を連れて行く」

 決死の一撃、「うちに来てもらっても良かったのに」を封じられてしまったものの、すぐに体勢を立て直す。今義勇は大事なことを決めようとしていて、そこに炭治郎と禰豆子が手を添えることを望んでいる。ちらりと横目で禰豆子の顔を確認すると、硬い表情が頷きを返してくれた。義勇は自分の好きな速さで自分の道を行く人だから、気づかない内にうっかり人を巻き込んだり逆に突き放したりしてしまうところがあるのは薄々感じていたのだ。声はできるだけ抑えることを忘れずに、どんと胸に手のひらを当てた。

「はい! 任せてください! お手伝いします!」
「私たち、義勇さんにぴったりのいい家かどうかちゃんと見ますから!」

 決意に燃える炭治郎と禰豆子を見る義勇は嬉しそうだ。炭治郎と禰豆子の行いを正しい、好ましいと思ってくれているのだと匂いで分かる。けれどこれは単なる人助けではないし、依頼した義勇の思う以上に重大な任務なのだ。

「助かる、頼む」

 義勇が穏やかに答えたところで、先ほどの女給がまたしずしず近づいてきて炭治郎と禰豆子の前に小皿を二つ置いた。白と茶色の菱餅を真っ二つに切ったような三角形が中央に直立している。「シベリアでございます」、それだけ言うと女給はさっさと店の奥に戻ってしまった。おずおず鼻を近づけてみれば餡子の匂いがする。ちらりとまた義勇を見上げ、ひとつ頷きをもらい、禰豆子と目を交わし合っていただきますと囁きで唱和する。おっかなびっくり黒文字で柔らかい三角を切り崩した。

「おいしいですねえ!」

 つい漏れ出た大声に慌てて口を抑え、亀のように首を竦めたのは禰豆子だ。白い部分はカステラ、茶色い部分は羊羹。店に見合った贅沢な菓子だ。呑み込むのがもったいなくて、口の中から甘さが完全に消えるまでもごもご噛み締めてしまう。

「謝礼に足りそうか?」

 右腕の先に左手を添えて腕を組む義勇はそう聞いてきたが、きっと答えなんかもう分かっているだろう。緩んだ目元からも、漂う匂いからも、甘い山を夢中で切り崩す兄妹を見て喜んでいることがはっきり分かる。初めて出会って刀を突きつけられた日、命を賭して炭治郎たちの進む道を守ってくれたことを知った日、空間が捩れた城の中を共に駆けた日、こんな日が来るなんて想像もできなかった。義勇が今こうして炭治郎と禰豆子を喜ばせたいと目にかけてくれることが嬉しい。初めて食べる上等な菓子だってもちろん嬉しいが、何よりその気持ちに対して炭治郎も禰豆子も報いたいと思う。家を見ろと言われればいくらでも見るし、その「世話になっている人」が義勇のことをちゃんと分かっている人なのか、絶対に見極める覚悟である。

 店を出ると、これから見に行く家の主に雇われている使いだという中年の男が声をかけてきた。仕立てのいい着物を身に纏っていて、物腰が柔らかく取っつきやすい。とんびを着た上背のある色男だってだけ聞いて心配していましたが、すぐに分かるもんですねえ、男は気さくに言ったが義勇は聞こえていない様子で押し黙っている。あいさつ代わりにおだてられたくらいに思っているようだ。

 屋敷には歩いて向かうとばかり思っていたが、男は車に乗って来ていた。どう見ても野暮ったいはずの炭治郎と禰豆子に坊ちゃん嬢ちゃんと呼び掛けて扉を開き、丁寧に後ろの席に乗せてくれる。一体どういう人の貸している家で、一体どうやって義勇はそれを紹介されるに至ったのか気になるのだが、肝心の義勇がさっさと運転席の隣に座ってしまった。トットットットッ……車の機関の音、バタバタ幌が揺れる音、じゃりじゃり車輪が地面を転がる音に阻まれて尋ねることができない。ばっさり断たれた癖のある髪が風にぴょこぴょこ跳ね上げられて流れている。鼻にツンとくる車からの排気と土埃が交じる風に、ほんの少し義勇の匂いを感じる。そうして、何故そんな幽かな匂いを探そうとしているのか、自分が不思議になった。

 店や商館が立ち並ぶ大通りを十分ほど揺られていただろうか。道は次第に坂になりあまり人影を見なくなった。土塀や板垣が殺風景に続いたかと思えば、その隣に生垣が現れて立派な洋館が遠目に見えたりする。革張りのツヤツヤした座席に腰を落ち着けられないのは禰豆子も同じようで、なんとなく手を握り合ってきょろきょろと辺りを見渡していた。静かな通りなので車の音ばかりが大きい。

 車が止まったのは洒落た細工の高い鉄柵に囲われた洋館の前だ。板張りが白く塗られているので、机に置かれていた義勇の手と同じように光って見えた。車の機関の音と揺れがピタリと止まる。着きましたよ、笑顔で振り返った男は、素早く車を降りて炭治郎の前にある扉を開いてくれた。ありがとうございます、禰豆子と二人恐縮しつつ下りると嬉しげな笑みと匂いを返してくれた。

 キイイ、男が錠を開けて押し開くと鉄柵で造られた門が小さく鳴く。ふと、嗅いだことのない不思議な匂いに誘われて目をやれば、白い花びらに黄色い芯の春菊に似た花が咲いている。その隙間に咲くのは菫に似た花だ。紫だけでなく赤いのも黄色いのもあるので、色鮮やかな布を寄せ集めて花を真似たのかと思った。何せ春菊も菫も春の花だ。門をくぐって全く別の世界に来てしまったんだろうかと面食らうが、兄の目を追ったらしい禰豆子はきれいだねえとのんびり言った。見たことない花だよ、とはしゃぐ声に納得する。見たことのない花ならいつどこで咲いたっておかしくはない。どこか遠方──もしかすると異国から株を持ってきた花かもしれない。

「立派な軒ですねえ」

 玄関には二畳程の広さが外に飛び出た立派な屋根が付いている。炭治郎を微笑ましそうに見た男は、ここに車を寄せれば雨で主人が濡れることはないと教えてくれた。なるほど、車を持っている裕福な人のための家なのだ。色付きの硝子に飾られた観音開きの玄関戸を開き、男はどうぞと義勇たちを招き入れる。そして車を見てなきゃいけませんからとさっさと玄関から離れてしまった。

「勝手に見ていいのか」
「はい、はい。そう聞いてますよ」

 義勇は一瞬だけ、何を考えているか分からない妙な顔をしたが、すぐに屋敷に足を踏み入れた。顔を見合わせた炭治郎と禰豆子もとりあえずは後に続く。

 石畳の上に草履を脱いで、ひやりと冷える板張りの床に上がる。明るいな、というのが最初の印象だ。屋敷内の壁も白く塗られていて光って見えるし、柱や幾つもある木戸も全てに漆が刷かれてツヤツヤ光る。玄関と向かい合うように置かれた階段に近寄ると、二階三階を見上げることができ、三階にある窓から光が落ちてきていた。明るいと思ったのはこの造りのおかげらしい。

「蝶屋敷も病棟は洋風でしたけど、ここは本当に立派ですねえ」

 はあ、思わずためいきを漏らしたのは禰豆子だ。敷地で言えば柱の持つ屋敷とは比べ物にならないくらい狭いのだろうが、狭さを感じさせない工夫が凝らしてあるように見える。扉や階段に施された細工や天井からぶら下がる電燈は見たことのない豪奢な意匠だ。息をしたら壊れるのではという気にさえなる。

「なんだか場違いみたいに思えてくるなあ」
「じゃあこの家はやめておくか」

 独り言のつもりだったが、玄関脇に置かれた白い石像をぼんやり見下ろしている義勇が答える。石像は布を被って目を伏せる女の胸像だ。同じように下を向いている義勇とほんの少しだけ似ているような、まったく似ていないような。義勇を見た瞬間にまったく違うことへ飛んだ意識を慌てて手繰り寄せる。

「いえいえ! 場違いっていうのは俺のことですよ!まずはよく見てから考えましょう」
「そうだな」

 そのために連れてきてくれたとはいえ、あまりに炭治郎の言葉を鵜呑みにする。なんだかあまり熱心に見えないのが気がかりだ。あっさり居所を出ようと決めてしまうような人だから、元々は住処にこだわりがないのかもしれない。炭治郎と禰豆子の見極めがますます重要になりそうだ。

 玄関から入ってすぐ横手には大部屋があり、丸い木の机がぽつんと中央に置かれていた。かさの付いた瓦斯灯が四つ部屋の隅に置かれ、戸近くの壁には石造りの窪みがある。一体何だろうかと近づいて見ると、煤っぽい匂いがした。灰が残っているのも見て取れるので、囲炉裏のようなものかと見当をつける。

「ここは居間、ですかねえ」

 ツヤツヤした床ばかりが目についてなんだか寒々しい。ここに火が入れば多少は温かみが出るのだろうか。机は炭治郎の膝上くらいの高さだが、この周囲に座るとしたらちょっと不便そうな気がする。

「前に住んでいた人はどんな人なんでしょうか。異国の人ですか?」
「巡り巡って譲られたものらしい。詳しい者は遅れて来る」
「この家を紹介した人ですか?」
「ああ」

 具体的な名前を言わないということはその人も隊に関わる者ではないのだろう。ひょっとすると「世話になっている人」と同じ人かもしれない。モヤモヤした気持ちを抱えつつ部屋を一周し、扉続きの隣の部屋へ移ったが、こちらも全く同じような造りだ。最初の部屋より少し狭いくらいだろうか。

「こっちも居間ですかねえ」
「どっちかは客間かもしれないね」

 禰豆子の言葉になるほどと頷く。あまりに自分たちに馴染みのない造りなので、今ひとつここで生まれる暮しを思い描くことができずにいた。しかし、いつでもどれだけでも客を迎えられる広い客間があるのは悪くない気がする。炭治郎たちだって遠慮せずに遊びに行けるだろう。しかしもし、誰かと暮らすとなったら気安く訪ねてはいけないのだろうか。鬼殺隊のことを何も知らない人だったら。

 ううん、と真剣に考え込む炭治郎を放って、義勇はこちらの部屋もさほど興味無さそうにふらふら歩いている。禰豆子はその後ろをトコトコ追いかける。黒くて丈の長い上着にすっぽり納まっている義勇と、編んだ髪の先で善逸に贈られた飾り紐をぴょこぴょこさせる禰豆子とでは、鎹烏と雀みたいだ。それに気付いた途端、おかしくてたまらなくなってしまう。こちらを不思議そうに見る二人の顔を見ていると、もやっとした気持ちなんてすぐに吹っ飛んでしまった。今はとにかく任された仕事に専念するべきだろう。

 もうひとつ隣の部屋へ出ると、今度は変化があった。部屋を真ん中で真っ二つに分けるように大きな長机が鎮座し、その周りに椅子が置かれている。机の上には銅の置物があり禰豆子が物珍しげに覗き込んだ。目だけで何だろうと問われ鼻を利かせてみると蝋の匂いがする。燭台のようだった。

「ここも居間か客間か、に見えますねえ」
「またか」
「大家族が住んでたのかなあ」

 それだけたくさんの人が居たなら、こんなに立派な家を残してどこへ行ったんだろう。どうしても成すべきことがあって、思い出だけを抱えて出て行ったのか。

「そう言えばここ、ミルクホールに似てますね!」

 ぱちん、禰豆子が両手を打ち合わせて上座に置かれている椅子に駆け寄った。背もたれを抱え込んで、よいしょと後ろに引く。

「どうぞ、義勇さん」

 義勇は禰豆子の満面の笑みを正面から受け止めたが、それをどう扱えばいいか困っているようだ。眉根を少し寄せて固まっているので、禰豆子が「座ってください!」と続ける。怪訝そうな顔は変わらなかったけれど、義勇は言われた通り禰豆子に歩み寄って椅子に腰かける。そうして、これがどうしたという顔で禰豆子を見上げた。

「旦那様、何をお持ちしましょうか?」

 椅子の背を両手で掴んで義勇の顔を覗き込む禰豆子の顔は相変わらず屈託がない。ぽかんと呆ける義勇と炭治郎の反応を全然気にかける様子もない。

「ホットミルクとシベリアは難しいので……そうですねえ、お茶とおはぎならできますよ」

 言い終わる前に我慢できなくなったようで、くすくす肩を揺らしながらそう言う。禰豆子の目がちらりと炭治郎のほうへ向いて微笑んだ。それに炭治郎も眉を下げて笑みを返す。

「じゃあ俺は鱒を焼きますしけんちん汁も炊きますよ! もちろん米も!」

 炭治郎も笑みを晴らして義勇に歩み寄った。憮然と黙り込む義勇からは何と返したものか悩む匂いがする。そしてそれとは別に、ほんのわずか、鼻を刺す匂い。炭治郎がふっと笑みを消したので、義勇も禰豆子も目を丸めている。

「炭治郎?」
「あ、いえ……嗅いだことのある匂いだと思ったんですが……」

 口にするかどうか迷い、ひとまず保留することにした。匂いが薄いので、それが何の匂いか断定できないと思ったからだ。戦いで酷使した体はまだまだ十全とは言えないらしく、以前より鼻の利きが鈍っていると感じる時もある。似た匂いならいくつかあるし、何より、「この匂い」は義勇の新しい門出に相応しいものではない。

「そうか」

 禰豆子は物言いたげだったが、義勇がさっさと椅子から歩き出したので結局追求されることは無かった。長机の部屋の先は何も置かれていない小部屋があるだけでその他には何も無さそうだ。厨を見たい炭治郎と禰豆子は首を傾げた。二階や三階には無いだろうから、外にあるかもしれない。ひとまず義勇の後を追って玄関まで戻る。

「上も見るか」
「そうですね」

 まさか上まで居間や客間だったりしないだろう。歩くのが速い義勇は炭治郎が答えるか答えないかの内に二段は先に居る。明るい日差しに目を細めつつそれを見上げた。

「義勇さん」

 炭治郎が呼び止めたので、髪の先に光を透かす義勇は階段の格子に手をかけてこちらを振り返る。

「義勇さんにはよく似合ってると思います」

 見事な調和ぶりに炭治郎は思わず大向うの気分になった。ちなみに芝居小屋へ行ったことはない。麓の町のおじいさんが面白おかしく語って聞かせてくれる話から想像したことなら何度もあるが。よっ、義勇さん。待ってました。しかし残念なことに義勇本人にはあまり伝わっていないようだ。義勇からではどう頑張ってもこの一枚絵を見ることはできないので、当然と言えば当然かもしれない。怪訝そうな顔を正面に戻してしまった義勇の背をしみじみ眺めていてふと気が付いた。義勇の向かう階段の先は、折り返しになっていて更に上へと階段が続いている。その折り返しになっている突き当りの壁に、四角い額のようなものが掛かっていた。金でできているのか箔が貼られているのか分からないが、蔦が巻き付く飾りが掘られているようだ。

「どうしたの?」
「いや、ほら……何も飾られてないみたいだから」

 炭治郎の視線に気が付いたらしい禰豆子に答え、額を指す。四角い枠の中は真っ白だ。何か素晴らしい絵や書が飾られていたっておかしくは無さそうなのに。前の家主が額だけ置いて行ったのだろうか。炭治郎の言葉を受けて白い四角をじっと眺めていた義勇は、くるりと体をこちらへ戻した。とすとすと階段を下りて来る。

「お前たちは引き続き中を調べてくれ。俺は外を見る」
「はい!」
「えっ、でも庭なら一緒に」

 鬼殺隊に居た時の意識が咄嗟に引きずり出されて、反射で背筋を正し元気よく返事をしてしまった。しかし禰豆子はそうもいかなかったようで、スタスタ前を歩き去る義勇を慌てて引き留めている。義勇は目だけで禰豆子を振り返った。

「いや、近所に探りを入れる」
「探り」
「大事だからな。近所づきあいは」
「な、なるほど……」

 そんな調査任務みたいな口ぶりで……そう思わなくもなかったが、義勇の表情が真剣だったため、炭治郎と禰豆子も同じく真剣に頷く。任せた、ぽつりと呟きを落とした義勇はスタスタ玄関で草履を吐き、ざっざと扉の向こうへ消えて行った。急な方向転換に追いついていけず、燦々と降る光の中しばらく閉じた扉を見つめる。時がやっと動き出したのは禰豆子がふっと笑みを漏らしてからだ。

「義勇さん。ちゃんと暮らすことを考えてるんだね」
「うん……」

 隣に立つ禰豆子の額や鼻筋も白く柔らかく光っている。先ほどとは正反対に弱い返事を聞いて、その小さな鼻先が炭治郎へ向いた。少し困った様子の、けれど優しい笑みで炭治郎の言葉をきちんと待って、何も言えないことを確かめてから口を開く。

「真っ先に頼ってもらえなかったのは少し寂しいね」
「はは」

 思わず炭治郎も笑ってしまった。驚きはない。指を伸ばしてその光る鼻の先を軽くつまむと、くしゃみを我慢するような顔になり、尻尾を踏まれた猫みたいな声を出すので二人してくすくす笑い合う。

「禰豆子はすごいなあ。鼻もないのに」
「簡単だよ」

 禰豆子が生まれるまでの一年と、柱稽古の少しの間。それ以外のほとんどの時間を共に過ごしてきた。二人の前に難しいことはたくさんあるけれど、二人の間にならほとんど無いんじゃないかと信じている。

 ひとまずは二階を見てみることにした。階段を囲むようにいくつか扉があり、奥のほうに三階へ続く小さな階段が見える。きょろきょろと周囲を見渡し、構造から特に何か分かることも無いので素直に正面の扉から開くことに決める。

 下の階で見た部屋よりは小さな部屋だった。壁一面に据えられた棚は本棚のようなのだが、本は並んでおらず隅の方で雑然と積まれている。本棚の反対には小さな寝台。体の大きな天元などが寝転んだら脛から下がはみ出てしまうだろう。布団の類は無い。部屋の中央からわずかに逸れて置かれた椅子もぽつんと小さい。

 この部屋だけで見れば充分な広さはあるのだが、どうしても窮屈な感じがするのは何故だろうか。壁の一面に大きな硝子戸があり、部屋に暗いところなんてひとつもないくらいに明るいのに。部屋の空気が淀んでいるような息苦しさに耐えられず、炭治郎は硝子戸に近づいて閂を抜いた。キシキシ鳴る戸は力加減を誤ると割れてしまいそうだ。ゆっくり戸を開くと、その隙間から草木の匂いと共に冷たい風が飛び込んでくる。

「うわあ」

 思わず声を上げたのは禰豆子だった。硝子戸を抜けると、一階の天井が床になって舞台に立ったかのように外へ出ることができた。石造りの白い柵に手をかけて、二人して興味津々に庭を見下ろす。

「ううん、難しいなあ」

 凄いとは思うが、やっぱり何のためにあるのかが分からない。そうだねえ、禰豆子も炭治郎と似た気持ちなのか神妙な顔で首を傾げている。見下ろす庭は手入れが疎かになっているようで、枯草や枯葉と咲き乱れる花々とで雑然として見えた。咲いているのは門の近くにも咲いていた春菊に似た花だ。

「何もかも新しいのも悪くないかもしれない」

 戦いの中で見る義勇は機転の利く人だった。ミルクホールも洋風の階段も義勇はぴったり似合って見えたし、いわゆる「モダン」な暮しにも案外すんなり馴染むのではないだろうか。

「今までと違う暮しをまた、一から始めていくんだから、俺たちは」

 戦いを終えて炭治郎と禰豆子は元の家へ戻ったけれど、それは元の暮しに戻ることと同じではない。自分に何ができるかをまた手探りで見つけて生きていかなければならない。それならできるだけ、明るいところに居ないといけないなと思う。今はもうここに居ない、炭治郎や禰豆子を大切にしてくれた人たちにできることはそんなに多くはないから。残された時間がどれだけあるかは分からないけれど、胸に預けてくれた想いに日を当て水をやり、何か咲かせたい。それが失った人たちがここに居た証だ。

 いつ、どこで、どんなふうに咲くか、炭治郎にもまだ分からない。本当に手探りだ。だったら全く新しいことを試してみるのも一つの手だと思う。禰豆子や義勇の胸にも一際綺麗な花が咲いてほしい。自分にその手助けができたらどれだけ幸せな気分になるだろう。

「だけどここ、義勇さん買うのかな。借りるのかな。いくらくらいするんだろう、想像もできないぞ……」

 柱として何年も隊で働き詰めだったと聞いているから蓄えはあるだろうけれど。高い買い物になるのは間違いない。慎重な見極めのために生活に必要な水回りが見ておきたいけどなあ、そう思っていたところ、庭の端に小屋らしきものを見つけた。目を凝らして見ると、屋敷と渡り廊下で繋がっているように見えた。もしやあれが厨では。

 禰豆子に教えてやろうと目を戻すと、禰豆子はもう庭を見下ろしていなかった。笑みを浮かべているけれど表情にも匂いにも不安を滲ませて炭治郎に体を向けている。驚いて炭治郎も禰豆子の正面を向いた。右手で腕に触れ、その顔を覗き込む。

「そうだよね。一から、始めて行かないと」

 何かが大きく変わってしまう時、今まで居た場所から背を向けて歩き出す時、暗い気持ちが追い縋って心から何か大切なものを一枚、二枚べりべりと無理矢理剥ぎ取られていく気持ちになる。それを振り切っていく時の痛みや喪失感を忘れ去ることはできない。前へ進む限り、ふとした時に振り返って剥ぎ取られたものを取り返しに行きたくなる。もう二度と歩き出した瞬間に戻れやしないのに。その時の心の揺らぎが身に染みてよく分かるから、炭治郎は笑みを浮かべた。少しでも禰豆子を安心させてやりたかった。腕に沿って手を滑らせて、手のひらを探し出してぎゅっと握る。傷跡の感触がある。こんなに細い手で炭治郎を必死に引き留めてくれたことをその度に思い返す。

「大丈夫。禰豆子は春みたいなものなんだ。全部が全部、ここから始まるんだから」

 まだまだ着れるからといつもの着物や襟巻をそのまま使っているが、一番外に着ている道行は炭治郎が新しく買った布で禰豆子が繕ったものだ。高価なものではないけれど、紅白の可愛らしい花柄は明るい気持ちになってほしくて選んだ。

「禰豆子から花がワーっと咲くんだ。だから、大丈夫だよ」

 花盛りの山を思い描きながら右手を大きく振り上げると、禰豆子はきょとんと眼を丸める。首が横に倒れた。

「ワーっと」
「そう! ワーっと!」

 不思議そうな禰豆子と、真剣な炭治郎。どちらが先だったか分からないが、息を抜き声を上げて笑う。静かな庭に二人分の笑い声が明るく響き渡った。

「相変わらず仲がいいな」
「義勇さん!」
「お帰りなさい!」

 さすがと言うべきだろう。義勇は一切の気配なく白い柵の上に現れ、危なげなく舞台の上に降り立った。黒い上着だけが衣擦れの音を立てる。よっ、義勇さん! 日本一! 喉まで出かかった大向う気分を飲み込む。義勇の顔は眉根が寄り険しい。匂いも出ていく時より暗いものに変わっていた。

「義勇さん?」
「ここはやめておく」

 炭治郎の言葉を丸々飲み込んでいたのが幻だったかと疑うくらい固い意志だ。禰豆子と目を合わせて困惑を分け合った。はー、細く深いため息が降ってくる。

「酷い人死の事件があったらしい」

 炭治郎は身を硬くした。先程嗅いだ匂いはやはり血の匂いだったのか。
 紙や布、布張りのものがほとんど取り去られた部屋、やたら真新しく美しい塗装。そういう後始末に見覚えがある義勇は、周辺の屋敷に飛び込み、使用人などを掴まえて噂などが無いか聞き込んだのだという。もし何も無かったとしたらその後の近所づきあいに影響が出た気もするが、結果としては悪い予感が当たっていたようだった。

「それって……」
「そこまでは、分からないが」

 もしかすると元隠の人々に聞けば何かが分かるかもしれない。けれど何を知っても、ここに暮らしていた人びとが皆殺されてしまった事実は変わらない。これだけ立派な屋敷が無人でも荒らされたりしないのは、その不穏な事件から怪奇なことが起こるという噂が流れているからだった。両隣の家も空き家らしい。

 ある日突然に終わってしまった日常がここにはあって、どれだけ陽光を浴びても時は凍ったように止まり、心ない噂だけが騒ぐ。きっと誰かが住めば時はまた緩やかに溶け押し出されていくだろうけれど、今胸に迫る切ない気持ちの中に義勇ひとりを住まわせることにどうしても抵抗がある。そうでしたか、異も無く、炭治郎は義勇の言葉を静かに受け止めた。

「無駄足を踏ませた」
「いえ!いえ、そんな」
「悪いが、また付き合ってくれ」

 あまりに自然な口ぶりで言われたので、うっかり何も考えずに返事をしてしまうところだった。ちらり、と禰豆子の顔を確認すると嬉しげな笑みが返ってくる。それで自分の都合のいい聞き違いでないことを確信して、炭治郎は義勇の言葉を噛み締めた。はい、丁寧に返事をしようとした時だ。

 冨岡さん、と呼ぶ声がある。声を荒げているわけでもないのによく通る、女の人の美しい声だ。冨岡さん、遅くなってごめんなさいね──これは。今度こそついに。

 歩き出した義勇を、禰豆子と二人緊張を抱えながら追った。やはり足は速いけれど、いつも通りの速度を崩さない義勇に焦らされつつ玄関に辿り着く。玄関にはこの屋敷にまさしく似合う、短髪を帽子で覆い、上着の裾から白い足首を晒している洋装姿の人が立っていた。

「あら、可愛らしいお連れ様」

 いかにも街暮しのお洒落な人に親しげに声をかけられ、兄弟揃って照れ惑いつつ、挨拶をして頭を下げる。女の人は嬉しそうにそれに答えて義勇を見上げた。

「すまないが、この家はやめておく」
「そう。伝えておくわね」

 この人もこの屋敷の家主ではなく家主の知り合いらしい。家主は名家の子息で、人から譲り受けたはいいものの、なかなか買い手がつかないこの屋敷を知り合いへ手当たり次第に宣伝しているとのことだった。義勇が聞き込みから得た噂を伝えてやると、あらまあと指の長い手が真っ赤な唇を隠した。

「そういうことだったのねえ。ごめんなさいね、冨岡さん」

 ガレリーか何かに使ったほうがいいのかもしれないわねえ。女の人は呆れたように頬に手を当てて首を傾げたが、その「ガレリー」が分からない炭治郎も禰豆子も黙って話の行く末を見守るほかない。義勇からも「何を言っているのか分からない」匂いがすることに少し安心した。

「それで、この子たちは? 身寄りが無いって聞いていたけれど」

 遠慮のない物言いではあっても、笑みは親しげなままだ。匂いからも悪い感情は一切しない。ひとまず名を名乗ろうと口を開いたが、先に答えたのは義勇だった。

「理由だ」
「理由?」
「俺がここに居る」

 三者三様、それぞれに驚きを抱えて沈黙が生まれた。義勇の言葉はたった一言だったのに、炭治郎の心をいっぱいにしてもまだ余るくらいの大きさで頭が追い付かない。呆然と見上げた白い横顔はいつもと変わらない静かな表情だ。まあ! 沈黙を破ったのは女の人だった。

「冨岡さんって絵も音楽もまるでだめだと思ってたけど、詩人だったのねえ」

 義勇に「何を言っているのか分からない」匂いがまた漂う。怪訝げな義勇を放って、女の人の視線は炭治郎と禰豆子に移った。未だ義勇の言葉をうまく呑み込めていないから間抜けにまごついてしまう。

「ねえ、お二人とも、ぜひうちに遊びに来てくださらない? あの人がきっと描きたがるわ」
「……会わせるのか」

 義勇の匂いに不本意そうな色が濃くなる。今度は話に追いついていけていない兄妹が放り出され、女の人は義勇の渋い声と表情に口元を手で隠して笑う。

「冨岡さんを連れて帰ってきた時なんか朝から晩まで写生帖に向かってたものねえ」
「よく分からない」
「人でも物でも、美しいものを描くのが好きなのよ」

 あのう、この方は。自分から名乗りたいのは山々だったが、ひとまずは話に追いつきたくて尋ねる。何も言ってないのね、本当に口下手ねえ、呆れた声を上げて説明してくれたところによると、この人は浅草で「オペラ」の舞台に立つ女優で、画家の夫と暮らしている。そしてその夫が「見目を気に入って」居候にしたのがこの冨岡義勇さん、というわけである。なるほど確かに絵になるもんなあ、炭治郎はぼんやりと納得した。一度に湧き出た大量の情報をうまく飲み込むにはもう少し時間がかかりそうだった。

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