大学のカフェテリアには昼下がりの眠たい空気が煙っている。
昼時には気を急かした学生が洪水を起こし近寄る気も起きないが、そのピークさえ避ければ大抵は緩慢に時間が流れる場所だ。おまけに、ガラス戸から惜しみなく降り注ぐ陽光がいつもは効きの悪い暖房をブーストしている。まばらな人影もそれぞれ思い思いのんびりと時間を味わっているようだ。雑談する者、勉強する者、スマートフォンにかじりつく者……だが、夏準とその正面に居る男はそのどれにも当てはまらない。
ガタつくテーブルの上に広がっているのはいつものノートとタブレット、スマホとイヤホン。ビートを刻んだり、ああでもないこうでもないとボソボソ呟くのに合わせてセットされた前髪がトサカのように揺れた。別の講義を取っているアンを待って一時間は経っているが、その間一度も顔を見ていない気がする。いつものことなので気にもならないが。
(どうかしてますね)
集中すると周りが見えなくなる相手をいいことに、隠しもせずに苦笑する。いつものこと──分かっているならここに大人しく座っている理由もない。同じようにリリックや曲のアイディアを考えてもいいし、講義の予習や課題をやってもいい。ソワソワとこちらを伺っている学生たちにファンサービスを振り撒いて有名税を収めることもできれば、図書館や教授の研究室へ赴いて学生らしい有意義な時間を過ごすこともできる。けれど夏準はこの一時間、結局そのどれもやっていなかった。では何をしていたか? 答えはシンプルだ。
冬の晴天の光が透かす赤い髪の先を、グローブから出た指先を、ただじっと眺めていた。ただそれだけ。何も生み出さない無為な時間。起きる変化なんてほぼ無いに等しい。本来なら退屈で無駄な時間のはず。あるのは小さな動きと息遣いだけだ。朱雀野アレンという男が今夏準の前に座っていて、HIPHOPに熱中しているという事実。それが眩い日差しの中で静かに光っている。
もし自分が今考えていることを誰かが覗けたなら、あまりの荒唐無稽さを笑うだろう。自分の美的感覚には自信があるつもりだったが、認識を改めたほうが良さそうだ。
(……これが何より美しく見えるんですから)
自分の愚かさを認めたら、後は勝手に言葉が湧き胸中に満ちていく。こんな日常が面白いし、好ましいと思う。慈しみたいしこのままいつまでも続けていたい。
(참 유치하고 어리석고……)
いつの間にか浮き上がっていた指はどこに触れるつもりだったのだろうか。誰に見られたわけでもないが、ごまかすように腕を組み直す動きがひどく間抜けに感じる。ふ、とまたひとつ弱く笑みを漏らして立ち上がった。
「飲み物、買ってきます」
どうせ聞こえていないのだろう。案の定上がらない頭に、夏準ができることはそっと名前を零すことだけだ。アレン。囁きに返事はない。窓越しの日差しのほうがよっぽど遠慮なくこの男に触れている。
(本当に馬鹿みたいなんですね)
今まで手のひらの上で転げ回っているのを傍観したことしかなかったので知らなかった。いや、似た感情を遠い昔にバッサリ断ち切られてから、情けない防衛本能が知覚を麻痺させていたのかもしれない。ともかく、知ったことを後悔している。けれど知らなかったほうが良かったとは思わない。
(好きという感情は)
胸の中で結ばれた言葉が我ながら馬鹿馬鹿しさを極めている。噴き出してしまいそうな口元に指を添え、そのまま周囲を見渡し、目が合った女子学生たちに機嫌良く手を振ってみる。ふわふわ浮かれた感情は甘く、そんな自分に呆れる冷えた思考は苦い。日常の谷間、アレンとの間に生まれた静寂にいつも噛み締める不味さだった。
さて、突然だがここで視点を変えよう。きゃあきゃあ周囲を湧かせる歓声で正面に居た男が遠ざかっていくことを慎重に確かめている男が一人。途中からビートもヴァースも何もあったもんじゃなくなったので指は1ミリも動いていない。あれだけまじまじ「考えて」おいて何故気づかないのだろうか? いや、気づかれたら困るんだけどさ。
(聞こえてるんだよな、全部……)
考えていることが覗けたなら? 笑えるはずもない。まずは衝撃、次に気まずさ、最後に気恥ずかしさだ。ペンを放り出し、両肘をついて頭を抱える。さり気なく両耳に触れたのは熱くなっていないかを確認するためだ。
(違う違う、聞こえてない。これは幻聴、幻聴だ……!)
徹夜のやり過ぎでとうとう頭がおかしくなってしまったに違いない。そう思った時がアレンにもあった。だから一週間、布団を頭からひっかぶりHIPHOPの名盤を数えながら作業を禁じて無理やり眠ったし、朝昼夜、夏準のご相伴に預かってバランスの良い食事も摂った。早朝のランニングに付いて行こうとしたあたりで夏準とアンに逆に頭の調子を心配される事態に陥ったが、ともかく健康な生活を送ったはずだ。しかしこの「心の声」は一向に消えなかった。皮肉を豪雨のように浴びているはずが、同時に聞こえてくる心配のあまりの温かさにうっかり泣きそうになった。そしてはたと気づいたのだ。あれ? アンのは聞こえないな、と。
次に疑ったのは燕財閥の科学力という陰謀論だ。メタルのような革新的な発見がされたとかそういう。新しい「オモチャ」として手に入れた、謎のとんでもないモノでアレンをからかって遊んでいるのでは。アレンは大いに警戒した。そうして、物理的な距離が離れれば離れるほど、実際の声と同じく「心の声」も遠くなっていくという気づきを得た。それからさりげなさを装ってできるだけ夏準と距離を取るようにしていたのだが。
「アレン」
すっかり油断した腕を取られたあの時の鋭い視線は今思い返しても背筋が冷える。自分の装った「さりげなさ」に少しの自信も無く、なんなら既にアンに呆れられていたアレンは、すぐに夏準が何に怒っているかを悟った。けれどもここで何をどう言えばいいのか。お前が謎の技術で「心」を聞かせてきたんだろ──ってそんなわけない。なんだ謎の技術って。俺をからかうだけに使う技術じゃないだろ──冷や汗をだらだら流しながら視線をさまよわせることしかできていなかった。
「言わなければ何も伝わらないことは分かっていますよね」
お前は言わなくても伝わってるんだけどな。
アンもその他の人びともいつも通りの日常を送っているので、アレンは夏準の「声」しか聞けないし、夏準の「声」はアレンにしか聞こえていないようだ。尚更幻聴としか思えない。一体何科に駆け込めばいいのだろうか? 夏準とアンに心配かけたくないんだけどな……。
(どうしてボクから離れるんですか?)
現実逃避で忙しい思考を引き戻したのは、普段あまり聞かない弱い声色だったからだ。そして頭にクエスチョンマークがひとつ浮く。聞いたことない声を幻聴で聞いてるのか、俺。おずおず視線を戻せば、やはり声は幻聴としか思えないくらい視線が冷たい。突き刺さって物理的な痛みすら感じている気がする。
(ボクは……離れたくありません)
ど、と心臓のビートが不規則に途切れた。ぽかんと顔を凝視して固まるアレンを、夏準は冷たい視線のまま怪訝そうに覗き込んでくる。
「なんですか?」
「あ、いや……ごめん。曲とか色々考えすぎてて。もう、大丈夫、多分。はは……」
自分でも何を言っているのか全く分からなかったが、とにかく口を動かしていないと余計なことをシャウトしそうだった。あらゆる剣呑な表情が乗った夏準の表情に新たに呆れが追加される、が何も言葉が続かない。逃げ場は無いらしい。
(ここ二週間ずっと様子が変なんですよね……思い当たる節も無いですし……)
さすが夏準、しっかり見ている。「声」が聞こえてきたのはきっかり二週間前のことだ。健康な生活を取り戻してもダメ。謎の技術でもない。じゃあ一体何なんだろう、この夏準としか思えない「声」は。
(気づいて避けているんでしょうか、ボクの気持ちを)
ぐ、と腕を握る手の力が少し強くなった。その声の揺らぎが頭を揺らした瞬間、勝手に体が動く。夏準の手の上に自分の手を重ね、大きく口を開け、意表を突かれた表情を睨み上げ──何言おうとしたっけ。妙な沈黙数秒。
「俺は、お前が居ないとダメだ!」
「……は?」
たった一音が夏準の声と「心の声」、更に言うとアレンの心の声とも完全に一致している。何を言ってるんだ俺は。脳の普段使わない部分がものすごい勢いで回転して煙を上げているのが分かる。
「今更、だけど……こう、自分でも色々やろうとか、逆に夏準にやってやろうと思ったけど、ちょっと違ったな……はは……いつも、ありがとな! Big up!」
今度は気まずい沈黙数十秒。サムズアップしたまま息を止めているせいでこのまま続いたら死ぬなと覚悟を決めていたが、ふ、とひとつ息が漏れて空気が緩んだ。ふくくく……呆れ混じりに夏準が喉を鳴らして笑っている。
「本当に『トンだ』人ですね。アナタの頭の中を覗いて見てみたいです」
トン、と夏準は長い指を自分のこめかみあたりに当てて皮肉っぽく笑った。いいや、お前、見られたら見られたでだぞ……なんとかなったらしい状況に脱力するしかない。これ以上何か言ったら絶対に墓穴を掘る。黙り込んでいると、相変わらず馬鹿なんですねえ、などと「心の声」が追い打ちをかけてきて──
(アナタが居ないほうがよっぽどダメなのに)
しっかりトドメを刺していった。「えっ!?」と思わず大声を上げてしまい、せっかく落ち着いた話をまたひっくり返しそうになってしまった。幸い、皮肉に腹を立てたと勘違いしてくれたようだが。
(何をしているんですかね、あれは……)
はあ……つい先日の出来事を思い返して長いため息を吐いていたところに、「声」がまた聞こえてきてギクリとする。「声」の主が飲み物を手に戻ってきたのだろう。恐る恐る顔を上げると、十歩ほど向こうの距離の夏準がきょとんと目を丸めた。しかしすぐに手にある紙カップを見せてくる。すごいな俺の幻聴。まさか……本当に……。
「アレン!」
夏準の背中からひょっこり満面の笑みが覗いた。こちらも両手にカップが握られている。きっとひとつはアレンのものなのだろう。妙なことを考え過ぎたせいで笑みになりきれず、ちょっと頬をひきつらせつつ片手を上げる。跳ねるように夏準を追い越してきたアンが紙カップをテーブルに乗せた。
「もうそんな時間か?」
「なんだよお、もっと僕が居なきゃ良かったって意味?」
「そうじゃないけど……最近、全然集中できてないから」
いい加減、新曲の輪郭くらいは触れるようになりたいのだが。いくら自他ともに認めるHIPHOPバカでもこの状況を曲にするのは難しい。ん? 待てよ? 曲にする? それならいけるか……うっかり逸れそうになった意識が頭をポンポン軽く叩かれて戻される。
「そうみたいだね。最近、ずっとヘンだもん。アレン」
口調は軽いが、視線には深刻な心配が隠れている気がして申し訳なくなり弱く笑う。何度となくアンにはこの症状だか何だか、とにかく状態を話そうとしたのだ。けれどまだイントロにすら入れていない。
「ね、夏準?」
「ええ。まあ……ですが、いつも通りの突飛な行動だったみたいですし。すぐにいつもの調子に戻りますよ」
アンに追いついてきた夏準が苦笑を返す。そして今日の天気みたいな視線をカラーグラス越しに柔らかく落としてくる。後に降ってくる「声」もやはり柔らかい。
(やっぱり三人で居るのが一番落ち着きますね。アレンもそうみたいですし)
ね、アレン? アンの言葉を繋ぎ、からかう笑みを浮かべている。ああ、と返した表情は今度こそちゃんとした笑みになっているだろうか。「声」は止まらない。
(アレンの時間を独占できるのも悪くないんですけどね)
っう、突っ伏したアレンに慌てた声がかかる。ちょっとアレンなに遊んでんの? また変なこと考えてるんですか? それぞれ言いたい放題だ。人がこんなに真剣に悩んでいるというのに。
アンに相談したとして、「普段夏準って真っ黒のお腹の中で何考えてるの?」なんて言われたら、何と返せばいいのだろうか? これこそがアレンがこの「幻聴」を何科にも持っていけない理由だった。だってこれが幻聴じゃなかったとしたら──こいつ、俺のことが好きすぎている。